2013年03月11日

次代に求められる共認形成力とは 第9回~自分発→みんな発へ。共認形成の根本規範~

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今回のシリーズでは「次代が求める生産力=共認形成力をテーマに、その能力について追求しています。
 
~プロローグ~
第1回~共認とは何か?~第2回~私権時代の共認の中身とはどのようなものか~
第3回~世界的な本源回帰の潮流と世界を先導する日本への期待~
第4回~共認形成力の根幹、共認回路を育む日本の子育て~
第5回~幼少期の“遊び”の本質とテレビ脳の危険性~
第6回~「自らが村を守ってゆく自主性」を育んだ共同体教育とは~
第7回~共同体の集団統合=全員一致とはどのようなものか~
第8回~日本企業に向けられた最先端の期待~
   
これまでのシリーズでは、日本人と日本社会の構造を意識潮流を遡って見てきました。今回はこれまでの記事を基に日本と欧米との比較から、『次代を切り開く生産力=共認形成力の源泉』について考えていきたいと思います。
 

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まず始めに日本人についてまとめます。
*「乳幼児期のスキンシップ」を通して形成される“共認回路の土台期”
共認形成力を規定するのは共認回路(“相手の期待を捉える”や“期待に応えることで喜びを得る”)であり、その共認回路の土台は乳幼児期のスキンシップを始めとする親和充足体験によって形成されます。世界と比較してみても日本の幼少期における子育ての仕方は、共認回路を育む上で一段上を行っていたようです。日本人が本源性=縄文体質をその身に維持してこれたのも、女性が母親の役割を肯定的に捉え、みなで子育てを充足課題とし続けてきたことが大きいのでしょう。
   
*「幼少期の遊び」を通して形成される“共認回路の発達期”
幼少期の遊びの“本質”とは、外圧に適応する生体へと身体や脳を発達させていく為の、実践的訓練→機能発達、すなわち「共認形成力の土台」の構築にあります。その重要な時期にテレビを見ることは、一方的に情報を受信することによる共認回路の劣化や主体性の欠如等、様々な問題が指摘され(→脳が未発達のまま大人になっていく)、次代の共認形成力を考える上で、テレビ脳の危険性は、十分に認識しておく必要があります。
*青年期における「地域の教育組織」“共認回路の確立期”
地域社会の生産活動(生活)に根ざした人格教育が共同体の中に組織化され、またその生産活動に必要な基礎知識を習得するための場として機能していました。この教育の場に、『家庭や親は全く関与していない』それは、ここで行われている教育が村のみんな(社会)の生活のためにあるということが明確だったからだと思います。
また、江戸時代までの(地方によっては、昭和の20年代初期まで残った)農村地域の共同体には、少年少女を一人前の男、女に育てる仕組みが備わっていました。地域における祭礼や芸能・消防・警備・災害救助・性教育・婚礼関係まで様々な役割を担わせ、「自らが村を守っていく自主性」を育んでいた共同体教育。
*共同体の集団統合=全員一致とはどのようなものか。
日本社会の集団統合の原形は「集団をどうする」に貫かれた軸のぶれない衆議にあり、縄文体質を基盤とする共同体の延長線上にあると言われています。集団の合意形成で最も重要な役割を担うリーダーの条件には「聞き上手」で「世話役」に徹するという両方の資質が求められていることは、まさに日本社会の集団統合の原形が「集団をどうする」に貫かれた軸のぶれない衆議にあるということの証左でもあります。
  
   
一方、西洋では。

◆教育
明治生まれの民俗学者・柳田國男は、若者を教育する方法を「平凡教育」と「非凡教育」の二つに大別し、「平凡教育」の必要性を説いている。「非凡教育」は書物を読むことを特色し、現実的には学校教育を指している。「非凡」であること、つまり他より優れていることを求める教育であるから周りの者はみな競争相手。西洋個人主義に基づく教育で、結果的に順位や序列を生む。これに対して「平凡教育」とは、古くから日本の社会で綿々と引き継がれてきた教育法。周りの人々と同じように秩序を乱さず一人前に生活できる能力の養成を目指す。そこで一番嫌われるのは手前勝手、横着、自分さえよければいいという態度、人に迷惑を与えて顧みないという行為。年長者を見習い、土地の慣習、先例に従う日常の生活を通して行われる教育。このように「非凡教育」(学校教育)は、伝統的な「平凡教育」とは相容れないものであり、共認原理で統合される村落共同体を破壊しかねないものだった。
『明治時代初期:なぜ、学校一揆や学校焼き討ちが起こったのか?』

◆子育て
欧米の子育て観は、聖書の次に売れたと言われている「スポック博士の育児書」に象徴されるように【寝る時間がきたら、赤ちゃんをベッドに入れて、やさしく、しかしはっきりとした態度で「おやすみ」といって部屋を出ます。出たらぜったいにもどってはいけません。いまいったようなクセのついた赤ちゃんだと、はじめは20分でも、30分でも大声で泣くでしょう。でも誰もきてくれないとわかると、急におとなしくなり、泣き疲れて眠ってしまうものです。次の日は泣く時間も10分くらいになるでしょう。3日目になるとだまって眠ってしまいます。】このような子育てでは、子供は十分な親和充足が得られず共認回路は育まれません。それどころか他人に対して期待放棄(充足を断念)をしてしまい、真っ当に共認形成ができなくなってしまいます。

◆話し合い
民主主義は、自我・私権に立脚しているので全員合意は望めない。だから、多数決で決着をつけるしかなくなるが、この多数決もまた、民主主義が自我・私権に立脚したものであることの証拠である。
『実現論:序3(下) 民主主義という騙し:民主主義は自我の暴走装置である』

これら西洋の観念や制度はすべて近代思想=個人主義に立脚しています。対して、日本は、一貫して集団(みんな)のためが第一にありました。言い換えれば、西洋は自分発。日本は人類の本源性に由来するみんな発。であり続けていたことがいえるでしょう。日本から貧困の圧力が消滅して、豊かさが実現された70年から日本社会はゆるやかながら共認社会へと回帰してきた事実を見てきました。そして、その底流には、人々の意識が自分発からみんな発へと着実に回帰転換している事実がありました。
ここで改めて、次代に求められる生産力=共認形成力を考えてみると、

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「3/28なんでや劇場レポート(1) 闘争能力の基盤は、みんな発の充足性と肯定視」より
現在~近未来は、私権の衰弱⇒共認収束⇒みんな第一という価値転換が進行する。そこでは、みんなを充足させるためには何が必要かという観点が問われる。つまり、源泉部が自分発からみんな発に転換するため、みんな発でなければ共認形成力は体得できない。
つまり、今後10年間は、自分発からみんな発への転換度が、闘争過程の力を規定する。みんな発の充足・肯定視の先には観念力も必要になるが、自分発からみんな発への転換ができていないのに、下手に観念を吸収しても言い訳・へ理屈のネタにしかならず、害の方が大きい。

次代を切り開く生産力=共認形成力の源泉となるのは「自分発からみんな発」への根底的な転換であることを深く認識すること。そしてその実現基盤となる数々の歴史認識群(これまで見てきたような日本が培ってきた本源性)を発掘し、それらを謙虚に学んでいく姿勢が不可欠となります。
  
次回は、このシリーズの最終回になります。こうご期待下さい。

List    投稿者 HOSHINO | 2013-03-11 | Posted in 未分類 | No Comments » 

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