本気度が問われる時代。今何を成すべきか2-1~世阿弥に学ぶ本気度:世阿弥の生きた時代背景~
厳しさを増す経済情勢、年々早まる社会的な意識潮流の変化。今、この状況をどう捉え、どう突破方針を出していくかという「本気度」が試される時代に入りました。
「もっとよくしたい」という想いは高まっていても、どこかで躊躇していたり、できない言い訳を考えたり、他人任せにしたりと、その想いが現実場面でなかなか結実していかないのも、一方の事実でしょう。
年々高まる「もっとよくしたい」という想いを結実させるためにも、まずは現実の外圧(壁)に向かっていく本気度を、先人達に学んでいこうというのがこのシリーズの趣旨です。
第2弾は日本の伝統芸能「能」を大成した世阿弥から本気度を学んでいきます。
ユネスコの世界無形遺産にも登録され、海外でも多くの人々を魅了する日本の代表的な伝統芸能。世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれ今日でも数多く演じられています。
世阿弥は演目を作り演じるだけでなく、後世に伝えていくための教育論まで踏み込んでいます。世阿弥が記した風姿花伝で語られるその内容は現代の脳科学から見ても理にかなったものです。彼はいったいどのような時代に生き、これほどまでの偉業を成し遂げたのでしょうか。順を追ってみていきます。
①世阿弥の生きた時代背景
②甲楽→能楽へ演目を確立
③世阿弥の人材育成論
一回目の今回は、世阿弥の生きた時代(外圧)がどのようであったのかについて掘り下げます。
室町時代は勘合貿易により、大陸との活発な交流が行われた時代でした。その一方で輸入されたものや文化は日本的なものに置き換えられて大衆に浸透していきました。今尚人々に受け継がれる日本文化の多くはこの時代に生まれたものです。
政治的に見れば、奈良時代、平安時代と続いた律令制が鎌倉幕府の成立によって崩壊し、封建制度→安定期が確立した江戸時代に繋がる起点となった時代です。
つまり世阿弥が生きた室町時代は、大衆が日本人本来の姿(縄文体質)へと回帰していく大きな転換期だったのです。いったい何がどう変化したのかより深く読み解いていきましょう。
◆荘園制度の崩壊から惣村(村落共同体)の生起
守護の権限が強化され、守護による荘園・公領支配への介入が増加していきます。惣村は自治権確保のため、荘園領主・公領領主ではなく、守護や国人と関係を結ぶ事が多くなっていきます(守護領国制)。
惣村の有力者の中には、守護や国人と主従関係を結んで武士となる者「地侍」も現れていきます。惣村が最盛期を迎えたのは室町時代中期(15世紀)頃であり、応仁の乱などの戦乱に対応するため、自治能力が非常に高まりました。
「共同体社会における生産と婚姻」その②(前編)~農村の自治(荘園から惣村へ)
時代を読み解く上でポイントになってくるのが大衆の意識(この時代は大半が農民)です。
室町時代になると荘園が成立するのに必要であった「領家もしくは政所の人事権」が消失し、守護の軍権の主力が室町初期に見られた荘園有力者から地侍を始とした「ムラ」の有力者に変わったのです。
つまりこれまで荘園領主(京都に身を置く朝廷・貴族)から搾取され続け、農業生産の運営も国に委ねていたのが、自らどうするかを考えはじめるようになったのです。
◆お上支配から農民自治(自主管理)へ
>惣村の内部は、平等意識と連帯意識により結合していた。惣村の結合は、村の神社での各種行事(年中行事や無尽講・頼母子講など)を取り仕切る宮座を中核としていた。惣村で問題や決定すべき事項が生じたときは、惣村の構成員が出席する寄合(よりあい)という会議を開いて、独自の決定を行っていった。
ウィキペディア“惣村”引用
惣村社会では集団をどうするを成員皆で持ち寄り、寄合にて方針を決めていました。自治(自主管理)を行うことで成員皆が「どうする?」を真剣に考え、その結果良いものはどんどん取り込み、時には自分たちの気質に合ったものへと変化させていきました。
この時代に生産技術や文化が飛躍的に発展したのは、こういった自ら自治を行うことによって人々が本気で「集団をどうする?」に頭を使い始めたからだったのでしょう。
室町時代とは、惣村の形成⇒農村自治(自主管理)の確立によって縄文的体質への回帰と、それによって後の江戸の安定期確立の起点ともなった時代であったと言えるでしょう。
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