’12年以降、いよいよ実現の時代に入りました。
人々が社会をどうする?を自ら考え、答えが欲しい、答えを出そうという気運が高まっています。
しかし、この気運はある一つの事象のみによってもたらされたものではありません。人類500万年の歴史の中で、約6000年続いた私権時代が’70年の貧困の消滅をもって終わりを迎えました。
そして今私たちは、その後100年をかけて新たな時代(私権原理→共認原理)に転換していくその大きな流れの中に生きているのです。
このシリーズの狙いは、まさに‘70年貧困の消滅に始まる共認収束の大潮流を謙虚に学び、近50年の状況を歴史段階的に読み解くことで、次代の新たな可能性の提示を試みるところにあります。
「共認収束への大転換⇒実現の時代へ」バックナンバー
(1)~起点となった’70年の大転換~ [1]
(2)~’90バブル崩壊→豊かさ期待の消滅~ [2]
(3)~‘02年収束不全によって生まれた当事者意識の高まり~ [3]
(4)~’02年、自我の終焉→加速する同類探索が課題収束を顕在化させた~ [4]
(5)~情報中毒による追求力の異常な低下とその突破口~ [5]
(6)~特権階級の暴走と観念支配による滅亡の危機~ [6]
現代社会の閉塞の元凶となっている「近代観念」。その本質はどのようなものなのか。そして、それに替わる新しい観念が生み出される可能性の萌芽はあるのか探ってみたいと思います。
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■ 近代観念は自我の暴走装置
(9.新理論が登場してこない理由1 近代観念は共認収束に蓋をする閉塞の元凶となった) [7]
近代観念は、自我発で形成された架空観念であり、その一つ一つの観念が、自己正当化観念として働いている。その結果、近代観念に染まったものは、無数の自己正当化観念に囲まれたその中心に強固な「自分」という観念を形成し、あたかもその「自分」観念こそが自分の本質であるかのような錯覚に陥ってしまう。
<参考投稿>
実現論:序3(下) 民主主義という騙し:民主主義は自我の暴走装置である [8]
この近代観念の中核を成すのが民主主義であるが、民主主義は自我、私権に立脚しており、自己都合を優先し身勝手な要求を主張して何ら恥じることのない人間ばかりを拡大再生産しつづけている。これが民主主義が自我の暴走装置であると言われる所以であり、近代観念が自我の暴走装置と言われる証左でもある。もはや近代観念は不要だ。今こそ近代観念に代わる新理論の構築が必要となる。
■ 近代観念の専門家には新理論を生み出せない
(10.新理論が登場してこない理由2 専門家は根本追求に向かえない) [9]
100年前に学校が出来、全国民が7~18歳(今では22歳)まで、一律に観念教育を受けるようになると、観念回路が成長してゆく時期に植えつけられたこの一律の近代観念は社会共認となり、人々の意識を強く支配するに至る。同時に、試験制度が末端にまで浸透し、その結果、試験エリート=統合階級という身分が不動のものとして確立されてゆく。そして、この新たな身分制度が磐石なものとして確立されてゆくにつれて、統合階級の意識は大衆から離反してゆく。中でも決定的だったのは、’70年以来(とりわけ’02年以降)、大衆が私権収束から脱して共認収束を強めてきたのに対して、あくまで私権収束を促す試験制度の勝者たる試験エリートたちの意識がどんどんエリート意識(=私権意識)に塗れてゆき、決定的に大衆とは逆行していったことである。その結果、試験エリートたる専門家たちの大半が、大衆の期待を深く感取することができなくなってしまった。
(中略)
従って彼らは、相変わらず近代観念に立脚したまま専ら細分化された専門領域での目先の追求か、矛盾を取り繕う詭弁の追求しか出来なくなり、新理論どころか誰も大理論(グランドセオリー)の構築に取り組もうとしなくなってしまった。それが、新理論が登場してこない究極の原因(「自分」観念に毒されていない者も含めて、誰も新理論を生み出せない理由)であり、全ては学校制度と試験制度の所為である
細分化された専門領域での目先の追求、そして矛盾を取り繕う詭弁の追求の結果は、福島の原発事故でも露見されることになったが、身近なところでも、大津市の中学生のいじめ自殺事件を巡る一連の学校や教育委員会の対応は当に目先の対応に汲々とし、矛盾を取り繕う詭弁と強弁の繰り返しで無能と無責任さを晒している。凡そ問題の根本解決には程遠いと言わざるを得ない。文科省も含め教育行政という不可侵で狭い専門領域に胡坐をかいて特権を享受してきた専門家たちには真摯に反省してもらうか、それが出来なければ退場願う他ない。
<参考投稿>
・『専門家』という詐欺集団にご用心! [10]
■ 根源回帰の潮流に応合した新たな観念追求へ
(10.新理論が登場してこない理由2 専門家は根本追求に向かえない) [9]
ほぼ同類圧力のみを源泉とし、対象として期応収束⇒課題収束してきた世代なら、仲間期待発で観念追求することは、充分可能なはずである。その意味では、何よりまず、私権発から同類発へ(=自分発からみんな発へ)の意識の切り替えが求められている。
(9.新理論が登場してこない理由1 近代観念は共認収束に蓋をする閉塞の元凶となった) [7]
本能回帰・共認回帰の潮流に応合した「もったいない」「役に立ちたい」等の新しい言葉が浮上し、古い近代観念を圧倒しつつある。そして、それら本能回帰・共認回帰の潮流の中で育った若い世代は、次々と「自分」観念から脱却し、素直に期応充足⇒課題収束を深めていっている。いまや、「自分」観念にしがみついているのは、仲間関係が上手くいかない等の関係不全から観念収束した観念病者か私権派だけである。
本能回帰・共認回帰の潮流の中で育った若い世代には自我が少なく、素直に自分からみんなへの意識転換が進んでいる。今回のオリンピックで大活躍の選手たち(サッカーやレスリングや競泳陣など)の勝利インタビューなどにもよく現れており、ごく自然にでてくる周りの人々や社会への感謝の気持ちや言葉などに感動を覚えると共に、若い世代の素直な自分からみんなへの意識転換の進化がみてとれる。
他方、旧世代でも’11年の震災以降は、周りの期待を羅針盤に皆のため社会のために行動を起こし始めている人々が多数登場してきている。この潮流は決して一過性のものではなく、新たな時代の幕開けとして大いに期待が膨らむところである。
<参考投稿>
・『少しでも役に立ちたい、戦力になりたいと想う行動そのものが何よりの貢献』 [11]