◆はじめに
前回、前々回は西洋思想や尊皇攘夷に下級武士は収束していったが、庶民は傍観していたということを紹介しました。
□幕末の思想1 下級武士が西洋思想に収束したのはなぜか? [1]
□幕末の思想2 下級武士が尊王攘夷に収束したのはなぜか? [2]
では、庶民・農民はどうだったのでしょうか?
庶民の間では幕末に「世直し」期待が高まりました。
その現れが、「ええじゃないか」や「民衆宗教」の成立です。
世直し期待とは何であったのでしょうか?
それを明らかにする為に、今回は民衆宗教の世界を探っていきたいと思います。
◆◆民衆宗教の世界
『概説日本思想史』(佐藤弘夫他 ミネルヴァ書房刊) [3]から引用します。
<内憂>(一揆)は天保年間以後、体制変革の要求をはらんだ世直し一揆・騒楼となって頻発先鋭化し、〈外憂〉と結合して体制的危機を醸造した。安政地震(1855年)における鯰絵(鯰が悪徳商人を懲らしめている絵)や1867年(慶応3)の「ええじゃないか」の流行は,いわゆる<世直し状況>が政治上の危機にとどまらない全社全的な秩序の崩壊であり,世界の終焉が上叩ち理想の出現につながるという感覚が広く蔓延していたことを示すが、それを思想史において最も端的に示すのが、いわゆる一連の「民衆宗教」の成立だった。
「民衆宗教」は何れも教祖の神憑りによって開かれた創唱宗教である。
神憑りは江戸期、特に幕末維新期には珍しい現象でなかったが,「民衆宗教」の開祖たちが専門の慰霊者ではなく、信心深くあっても人一倍律儀な生活者であり、そのような彼ら/彼女らが一転して世界を救う使命を帯びた教祖となり、宇宙論的な教義を備えて現実世界に働きかけ、また村落共同体を越えた信仰集団を形成したところに「民衆宗教」の特徴がある。

「ええじゃないか」騒動に興じる人々。 [4]からお借りしました。
『江戸の思想史』(田尻祐一郎著 中公新書) [5] から引用します。
内憂外患の時代、つましい日々の暮らしの中から幾つもの新しい宗教が誕生した。それらの多くは、貧困や病気、家族の不和、逃れようもない苦労の連続の中から「神の啓示」を得た教祖の唱え出した教えとして成立する。
同時にそれは、生真面目に苦難を背負ってきた多くの人々の既存の宗教的枠組みが救えなかった声にならない声で結晶であった。
【如来教】
一尊如来きの(1756~1826)は、尾張国熱田の貧農の出である。13歳で女中奉公、23歳で結婚したが離縁、40歳で帰農するまで女中として奉公する暮らしだった。帰農して7年後、突然自らの身体に金毘羅大権現が天降った“神懸り”状態になり霊感を得た。
如来の慈悲によって人々が救済されることを説き続ける。
世界は「泥の海」から始まった。それがこうして世界としての姿を整えたのは「如来様のお慈悲」あってのことであるが、そこには意味が隠されているという。
一人の女性として、奉公・結婚・離縁・前夫の看病・貧窮と苦労続きの毎日であったが、それには「婆婆世界」が「修行場」だからであり、後世の救済に向けて如来様が与えてくださった試練だったというのである。
貧富の差に泣かされている人々の苦難を和らげたいという願いと、自分たち自身の「分へだて」の心によって人々が分断されている現実の直視、その現実を超えてこの世界に和合をもたらしたいという祈りとが込められている。
【天理教】
中山みき(1798~1887)は、大和国山辺郡の庄屋の家に長女として生まれ、13歳で北隣の庄屋敷村の庄屋の中山家に嫁いだ。19歳で初めて妊娠したものの流産。その後、一男五女をもうけた。働き者として、また浄土信仰の篤信者として近隣にも知られていたという。
頼りとする一人息子に激しい足痛が襲った。みきも出産の後で体調が思わしくない。みきは、これをきっかけに突然“神懸り”状態となり、天理王命が自らに宿ったと唱えて天理教を開いた。
天理教は、天地の始まりについて独自の世界観をもっている。まず一面の泥の海があって(如来教も同じ)そこに「鰌」が生まれ、それを親神様が人間にしていったというのである。
しかし、人間社会には、身分や貧富の格差が生まれてしまった。
天理教は、人間の平等が同じ神の「貸し物」だということで説かれている。富や権力を手にしている人はこれまでは世界を思うままにしてきたが、これからはわからないぞというのである。そして、「陽気」に暮らすことが説かれ、それは「こころ」の持ちようによるとされる。病苦を始めとするさまざまな辛苦を「こころ」を立て直すことで晴らしていこうとする。
【金光教】
金光教は、備中国の農民である赤沢文治(1814~1883)によって開かれた。「天地金乃神」の言葉を伝える者、後にはそのものと名乗って、病気直しを中心とした布教活動を展開した。
手、足、体を洗うより、はらの内を洗うことをせよ。などと説いて、日柄や方位や年廻り、不浄などに縛られることを否定した。「はらの内」(心)の清らかさが大事だというのである。
また、記紀神話の神々も、それを根拠にもつ「天子様」も、天地の親神の前に相対化した。
【富士講】
富士講はこうした民衆宗教とは、やや異なった由来を持っている。山岳信仰と弥勒下生信仰が結びついて18世紀半ばに江戸で生まれ、その後は小谷三志(1765~1841)などの活躍で、江戸近郊の農村に広まった。
弥勒菩薩は、56億7千万年後には、この世に下生して人々を救済すると信じられていたが、富士講はこれを「ふり替り」として、それによって「みろくの世」が実現されると説く。それは例えば、支配する男性と服従する女性、上位の男性と下位の女性という関係が組みかえられる世界としてイメージされる。それは「和合」への願いであって、他者を押しのけても自分の利得を神仏に祈ろうとする行為は「影願い」と呼ばれ、「猛火供水の心」の所業とされる。
現実の世界の場にあって人々が、とくに男女が「和合」して、他者を損なうことなく生きることが何よりの救済「みろくの世」の現実として願われている。
【民衆宗教とナショナリズム】
幕末・維新期の民衆宗教は、自分たち自身の願いや祈りを自らの言葉で(知識人の抽象的な概念を借りずに)表明した。そこには、共通して、来世に希望を託すというよりも世俗生活をおおらかに肯定して、自分たちの「心」の持ち方を改めることで、世俗生活の場において貧富・貴賊・男女の差別のない人々の繋がりを実現させようとする志向が感じられる。
超越した神の栄光を地上に実現させるというよりも、世俗の生を実現させてくれる拠り所として、神々がある。そこには宇宙の根源をなす神についての独自のイメージがあって、それと一人ひとりの「心」が直接に結び合っているから、その結合を確かめることで「心」は純化され、それこそが我儘や差別をなくす道だとされる。
貧富・貴賊・男女の差別のない世界を描くこれらの宗教が、ナショナリズムを下支えするような傾向をもつのはどうしてだろうか。その事情は個々の教団や宗教によって複雑で簡単に論じられるものではないが、どこまでも世俗生活における精神的・身体的・社会的な和合を求めるというこれらの宗教の性格と関わっている。
現実のイエやムラの生活で味わう差別、強いられる理不尽な苦労、誰にも認められないことの孤立や不安などが厳しければそれだけ、それを超える世界は、イエやムラのもうひとつの外側の単位「クニ」として空想されるのだろう。そして、世の中の全体が何か計り知れないほどに大きく変わろうとしている、その漠然とした不安の皮膚感覚のようなものが、和合への願いを「クニ」に託させている。そうなればその「クニ」は、天地宇宙の生成の中心として、人々が和合した理想の世界であるから、何者にも侵されない、揺らぐことのない、強く輝かしいものでなければならない。
【民衆宗教の特徴】
民衆宗教はあるべき公共的な秩序は人々の和合と平等の空間でなければならないことを訴えた。実現は一人ひとりの「心」が、それぞれの宗派の掲げる神の教えに忠実であることで果たされると説く。そこでは、一人ひとりが超越者と向き合うことなしには公共的な秩序も真実のものではないと考えられている。

「悪徳商人を懲らしめる鯰」
「世ハ安政民之賑」 [6]からお借りしました。
◆◆◆まとめ
幕末に民衆宗教がいくつも登場した背景には、世直し期待があった。
では、世直し期待の中身、あるいは世直し期待が登場した理由は何か?
それは市場化による共同体の崩壊である。
江戸時代も後半になると、市場の拡大による貨幣経済の波が農村にも押し寄せ、村落共同体も徐々に崩れてゆく。
農業生産を経済の基礎とし、そこから年貢を取り立てることによって成り立つ幕藩体制の仕組みは、天保期頃に本格的な行き詰まりを示した。商品生産が発展し、貨幣経済が浸透してゆく。
その中で1721年から1846年にかけて、北関東の下野国の人口は33%減少、常陸国は27%、上野国は25%、陸奥国は18%減少した。人口の減少は、耕作できない田畑を生み出し、農村荒廃につながった。
19世紀に入ると、商品生産地域では問屋商人が生産者に資金や原料を前貸しして生産を行わせる問屋制家内工業が発展し、酒造業や織物業では作業場に奉公人(賃金労働者)を集めて、分業と協業による手工業生産を行うようになった。
農村荒廃の一方で、資本主義的な生産が発展するなど、社会・経済構造の変化は幕藩体制の危機であったと同時に、村落共同体も崩れてゆくことになる。例えば、富農や豪農が登場し、一般農民との貧富の差が拡大してゆくことである。
さらに、開国による輸出増と金銀交換比率差を利用した金貨の国外流出によって物価騰貴は、農村の商品生産に打撃を与えることになる。
□このような市場化による共同体の崩壊→秩序化期待(共認充足の再生期待)が世直し期待の中身であり、それが民衆宗教や「ええじゃないか」を登場させた理由であろう。
(それに、18世紀以降の飢饉や1950年代の大地震の連続という天災が拍車をかけている。)
それに対して、特権化していた既存宗教(仏教・儒教・神道)は応えることができなかったので、最も民(みんな)の潜在思念を感取することができた者が「民間宗教」を創始したのであろう。
こうして、幕末の民衆宗教が登場したわけだが、その注目ポイントは、
【1】これまでの江戸時代の思想は、医者や町人によるものだが、幕末の民衆宗教は農民自身が創ったものであること。
【2】とりわけ如来教や天理教は、女性が神懸りになって霊感を得て創始されている。
このことは霊感が高いのは女性であり、「原始人類集団のリーダーは、精霊信仰⇒祭祀を司る女であった」 [7]ことに通じるものがある。
【3】そして、幕末の民衆宗教が唱えたのは、秩序と和合、そして天理教の創始者中山みきが詠ったように「皆同じ」、そして「陽気ぐらし」である。つまり、市場化の波によって失われつつある共認充足と秩序の再生が農民の願いだったのだろう。
言い換えれば、共同体(共認充足)の維持・存続こそが農民にとって何よりも大切なものであり、それが崩壊の危機に晒されたことで世直し期待(共認充足の再生期待)が広がり、それによってはじめて農民自身がモノを考え始めたのである。
明治維新の後、地租改正や学校制度が導入された時に、それに反対する一揆が起こったのも同じ理由である。それは、地租改正という農地の私有制度や学校制度が共同体を破壊するものだったからである。
「共同体に立脚した江戸幕府と、共同体を破壊した明治国家」 [8]
これら「民間宗教」は当初、明治政府に弾圧されたが、それはその思想が共通して「反近代・反市場」を孕んでいたからである。
『概説日本思想史』(佐藤弘夫他 ミネルヴァ書房刊) [3]から引用。
天理教は明治政府によって布教禁止の圧迫を受け、祖中山みきは政府の国民教化策に従うことを拒み、度重なる拘留に抗して「谷底」の民衆的立場を貫いた。しかし、みき没後には天理教団は国家神道との妥協も余儀なくされて、1888年に天理教会は神道本局の傘下として、1907年教派神道の一つとして認められた。
金光教の祖赤沢文治は、明治の世を「狂い」と捉え、政府の国民教化策に同調しなかったが、文治が没すると教団の合法化が進み、1900年に教派神道の一つとして公認された。
丸山教(祖伊藤六郎兵衛)の主張は徹底した反文明主義で、西洋的な文物、西洋化した天皇から自由党までが否定された。この近代全否定の主張が、松方財政の下で生活を脅かされていた庶民の心を引きつけた。その理想とするところは農業を基本とする素朴な勤勉生活にあり、「身は心、神も心、人も心」と教義の心学化も進められたが、1890年代には、社会の安定化とともに急速に衰えた。
このように民衆宗教の創設者は抵抗を続けたが、二代目以降国家神道との妥協を余儀なくされ、「教化神道」として取り込まれていったが、共同体の崩壊という危機に直面した農民自身がはじめて社会統合観念を模索したのが幕末の民衆宗教だと捉えることができるだろう。
当時の社会背景は、市場化による共同体の崩壊と災害(飢饉や地震)の多発である。
原発災害含めた災害の多発は現在も同じである。幕末と違うのは、’70年以降市場が縮小過程に入り、共同体が再生する基盤が登場していることである。
幕末の市場化による共同体の崩壊期に農民による社会統合観念(民衆宗教)が登場したということは、逆に市場縮小による共同体の再生可能性が開かれた現在、大衆による社会統合観念が登場する可能性を示唆しているのではないだろうか。