前回の「ルネサンスの科学(魔術)4 戦争外圧と市場拡大の可能性が社会の構造変化をもたらした時代 [1]」では、戦争に明け暮れ行き詰まっていた西欧が、航海技術(科学技術)の発展に力を注ぎ、大航海時代という新たな略奪によって、市場拡大の可能性を見いだすとともに、教会(キリスト教)主導の社会から国家主導の社会へと大きく舵を切っていった過程を整理しました。
引き続き、山本義隆氏の『磁力と重力の発見2』 [2]から「第十二章ロバート・ノーマンと新しい引力」を引用しながら、ルネサンス時代に国家主導で科学技術が進歩していく様子をもう少し詳しく見ていきます。

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1 伏角の発見
地球磁場の認識にとって、偏角の発見に次いで重要なのは、ドイツ人ゲオルク・ハルトマンとイギリス人ロバート・ノーマンによる、伏角(磁針が水平面となす角がゼロでないこと)の発見である。特にノーマンの報告は、磁力についてその作用圏という観念を語り、磁針の受けている力が単なる引力ではないという指摘を含み、さらに技術者が技術上で遭遇した問題を研究しその結果を俗語で公表するという、科学の営為そのものの転換も象徴している。
約20年の船乗り稼業の後にロンドンで航海用機器の製造と販売を手がけたイギリス人ロバート・ノーマンは一五八一年に地磁気のみに関してかかれた初めての書籍と言われる『新しい引力』を英語で発表した。この第三章には伏角現象を発見した経緯とその測定の動機が語られている。
「これまで様々なコンパスを作成してきたが、最後に磁石で磁針にふれると磁針が水平に対して傾くこと、この傾きを補正するために少量のワックスを付着させねばならないことを見いだしてきた。これを何回も経験したが特に注意を払うことなくやり過ごしてきた。しかし、六インチの長さの磁針を持つ装置を作成するときに、大きく傾いた磁針を水平に戻すために切りすぎてしまい苦心して作った磁針を駄目にしてしまった。腹が立った私は、その効果を深く追究することにし、専門家に相談し傾きの角度を測る装置を作ることを助言された。」
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ここにあるように、伏角の発見は職人がもっぱら日常の仕事の中で繰り返し目撃した現象に触発されたものであった。このような職人や技術者による発見の経緯が残されるのはきわめてまれであり、『新しい引力は』そのような職人による発見の一部始終を職人がおのれの手で記録し、自分の言葉で解釈した殆ど最初の書物として特筆されなければならない。
新しい引力には伏角の発見以外にも重要な観察や考察が含まれている。とくにこの伏角の発見が磁石と磁針に対する牽引点についてのこれまでの見解を覆す立場から論じられている。
ノーマンは磁力をめぐる先人達の言説を取り上げた上で、「その他にもおとぎ話が古代人達によって記されてきた。彼らは言うならばおのれの空想を疑いえない真実として書き残したのであり、このことは地理学や水路学や航海術の大部分に行き渡っている」と喝破している。
彼は批判にとどまらず、書物偏重の知に変わるあたらしい知の技法として、経験と実験に基づき合理的な推論に依拠して形成される科学と技術という思想を提唱した。
ノーマンは、磁力はあくまでも磁石磁針の性質であり、どこか彼方にある特定の地点の性質でもなければ、磁石に引かれる鉄の性質でもないと考える。磁石の牽引点について天球よりさらに遠くにあるとする説や、北極近くの巨大な磁石の山にあるという説も誤りだと断じている。これらの説を提出した論者が間違ったのは伏角という現象を知らなかったからだと考えた。
2 磁力をめぐる考察
ノーマンは俯角現象を重量増加、重量物質の流入とする説に反論している。第一に磁化される前と後で重さは変わらない事を証明している。第二に磁石の反対側がふれた磁針の南側は下に傾かない。磁石のどちら側でふれても磁針は必ず北側が下を向く事を示している。これは磁力が重力と無相関であるだけではなく、磁力は重量物体を一方だけに引付ける重力と異質のものであることを示唆している。
この実験結果から磁針の北側が地球上のどこかの牽引点に引き寄せられるか、南側が天にある牽引点に上向きに引っ張られるかだと考えられるが、そのどちらでもないとノーマンは主張する。水面に浮かぶコルクに磁針を付けても上にも下にも、北にも南にも引き寄せられず、北を向くように回転するがその場から動かないのである。牽引点は存在しないのである。
ノーマンの発見は、磁針がほぼ均一な磁場の中で受ける力の性質について正しい理解を最初に与えた。但し、その力が生じた理由は、神意という以外に応えられないとし、力の起源が問題ではなく、力の振る舞いが問題だとするニュートンの回答を先取りしている。
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ノーマンは、磁石の力が目に見えるようになると、それは磁石の周りに大きな半径で広がる球形をなしていることが分かるとも言っている。やがてデッラ・ポルタやギルバートに引き継がれていく力の作用圏という重要な概念の提唱である。
3 新しい科学の担い手
『新しい引力』は、特別な装置を用いて伏角を精密に測定し結果を定量的に明らかにしている点や伏角を産み出している力の性質について仮説を立て、それを検証する実験を行っている点で合理的な思考と方法に貫かれている。時代は近代にさしかかっていた。イギリスはそれまで産業上の後進国だったが17世紀中期には鉱工業の一流国になっていた。イギリスはスペインやポルトガルといった海洋大国を軍事的に急迫していた。イギリス海軍の軍艦は1558年から1660年で10倍に増大し、イギリスの海運は1580年代から1640年代の間で4倍に伸びた。遠洋航海に必要な天文学や数学の知識は必須であり、そのために技術者、職人、航海士達の資質や技能の向上は国家にも商人資本にも至上命令であった。
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『新しい引力』は、イギリスの全ての旅行者、船乗り、水夫のためにと言う書き出しで始まり、船乗りと旅行者達は、算術と幾何学の知識を求めるようにのぞむと記されている。聖職者やアカデミズムの知識人と異なる、職人や軍人や船乗りといった新しい職種階層の人たちが、磁力認識、新しい地球の認識をめぐり発言を開始した。それらの報告書や著作の大部分がラテン語ではなく俗語で書かれていた。
4 ロバート・レコードとジョン・ディー
ノーマンが自信を持って語れた背景にはロバート・レコードにより技術者向けに英語で書かれた数学教科書の存在がある。ロバート・レコードはロンドンで医師をしながら民衆向きの数学の講義を行いその教科書を全て英語で書いた。この時代科学の中心はオクスフォードやケンブリッジでなく既にロンドンにあった。この時代にかかれた、女王のアカデミー創設の献策趣意書には、「大学ではスコラの学問を研究するが、当アカデミーでは平和と戦争の現実の実践に応じた実際活動が研究される。」とある。
この時代に、大陸の新しい科学のイギリスへの伝道者となったのがジョン・ディー。彼にとっての科学の重要性はイギリス社会の繁栄と国力の増強のためだった。かれは英国王室海軍顧問にしてエリザベス女王のブレーンであり、帝国主義政策の熱烈な推進論者、それゆえ航海術の改良と進歩に並々ならぬ関心を寄せた。
一方で、ジョン・ディーはヘルメス主義とアグリッパに多大な影響を受けたルネサンス魔術思想の信奉者であった。ディーは新しい学問の担い手を、大学のスコラ学の学者でなく、実用的で実際的な術を生業とする技術者と職人に求めた。
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偏角の発見に次いで伏角が発見され、こうして地球が磁石であると言う発見への道は切り開かれた。それは磁気羅針儀をもちいた遠洋航海のめざましい発展がもたらしたものであり、自然科学の担い手として職人や船乗りが登場したことも示している。そのなかで技術と魔術は近代科学に収斂する方向に変貌を遂げつつあった。
一方における職人や技術者による初期的な実験化学の登場と、他方における魔術思想の復活がジョン・ディーのような特異な人物を介して接近していくことで近代科学に至る道が準備されていくことになる。そのことを、後章のカルダーノの静電気研究とデッラ・ポルタの磁石研究においてより一層はっきりと見ることになる。
著者は伏角の発見を通じて、近代科学の発展において職人や技術者が重要な役割を担うようになったことに着目しその重要性を指摘している。しかし、この時代に科学技術の発展を推進した原動力として、より重視すべきは、国家の果たした役割であろう。
それまで、二流の工業国であったイギリスが、スペインやポルトガルに追いつくために、すなわち、富国強兵のために航海技術を高めることを国策とし、職人や技術者の資質を高める事を国家として追究した結果、ロバート・ノーマンのような技術者が登場したのである。
イギリスでは、科学技術は明確に富国強兵のための道具と位置づけられ、戦争と略奪のための技術開発が進められた。それまで科学は神学者が神学の一部として追究していたが、イギリスでは国家主導で科学技術が追究されるようになったのである。そして、国家主導で科学技術を追究するように仕向けたのが金貸したちであった。現代アカデミズムの源流である、イギリスアカデミー(王立協会)は、大商人トマス・グレシャムの遺言に基づいて1579年に設立されたグレシャム・カレッジが母体となっており、王立という名前になっているが、王の勅許をえているだけで完全に私的な機関であった。

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西洋近代科学は富国強兵のための道具として産声を上げたのである。他国を侵略し収奪し自国の利益を追求するために設立されたのがアカデミーなのだ。考えてみれば、日本の帝国大学も富国強兵のために設立された機関であった。
この後、イギリス、オランダ、フランスが世界支配を進め、徐々にスペインやポルトガルは衰弱していくが、この原因の一つに神学と科学の分離を上手く行えたかどうかが大きく影響していると思われる。スペイン、ポルトガル、イタリア、ドイツではイエズス会が強い勢力を持ちプロテスタントを抑えていったが、イエズス会は勢力拡大のための手法として多くの大学と高等教育機関の運営に取り組んだ。その結果、神学と科学の分離が上手く進められなかった。
この当時、旧来のキリスト教系の大学は時代に取り残されていた。先進国イギリスにおいても教会の影響が大きかったオックスフォード大学では、16世紀中期でも基本的教科書は、天文学はプトレマイオス(2世紀)、地理学はストラボン(紀元前1世紀)とプリニウス(1世紀)であった。同じイギリスのアカデミーでは幾何学の教授は砲術の理論と実践を教え、天文学の教授は航海術と航海用器具の使用を教えるものとされていた。
イギリス以外でもプロテスタント国家のオランダでは、1575年に国立のライデン大学が設立され、フランスも国王とローマカトリックの対立が大きく、イギリスについで1666年に科学アカデミーを設立している。科学技術の研究を国家が推進しキリスト教と分離することに成功したこれらの国は、富国強兵のためだけに科学技術を追究する事が可能であり、この後、軍事力、工業生産力で大きな差が開いていくことになる。
■参考
近代科学の成立過程17~金融勢力と一体となった海賊国家イギリスが科学革命を実現し、世界を征服した [8]
1579年にグレシャム・カレッジが開校された。グレシャムは1565年に王立取引所の設立を提唱したロンドンの大商人である。この教授たちの集まりの中から王立協会が生み出され、それがイングランドにおける科学革命の中軸となった。
王政復古期の科学と郷士階― 王立協会と好学者 ― [9]
ロンドン王立協会は民間の機関である。グレシャム卿の屋敷を借りて発足したグレシャム・カレッジに参集したメンバーによって発足した
ライデン大学 [10]
同国最古の国立大学。オランダ独立戦争(1573~1574)の際、スペインとの戦いでライデン市民が果たした功績により、1575年オラニエ公ウィレム1世の手で設立された。
科学アカデミー (フランス) [11]
フランス国内の科学研究を活性化させ、保護するべきであるという、財務相ジャン=バティスト・コルベールの助言を受けたルイ14世によって、1666年に創立された。
イエズス会 [12]
イエズス会の活動分野は三つに絞られていった。第一は高等教育であり、ヨーロッパ各地で学校設立の願いを受けてイエズス会員は引く手あまたであった。イエズス会員は神学だけでなく古典文学にも精通していることが特徴であった。第二の活動分野は非キリスト教徒を信仰に導く宣教活動であった。第三はプロテスタントの拡大に対するカトリックの「防波堤」になることであった。イエズス会員の精力的な活動によって南ドイツとポーランドのプロテスタンティズムは衰退し、カトリックが再び復興した
フランスのカトリック [13]
国王フィリップ4世によって教皇庁が1308年にアヴィニョンに移され、その翌年から1377年まで所謂アヴィニョン捕囚の時代となった。その時から7代に渡ってフランス人の教皇がここに居を据え、結果的に教会大分裂をもたらした。その後、ローマ教皇の権威と距離を置くガリカニスムが影響力を強めた。



