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幕末の思想5 司馬史観の嘘、歴史小説家の罪

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現代日本人の抱く幕末像を形成したのは、『竜馬がゆく』をはじめとした司馬遼太郎の小説によるところが大きい。
前回の記事「吉田松陰は単なるテロリストにすぎない」 [1]にあるように、単なるテロリストにすぎない吉田松陰が偉大な思想家・教育者であるかのように捏造されたのも、司馬遼太郎の小説が一役買っている。
ところが、この司馬史観は事実に反することが明らかにされている。


『原田伊織の晴耕雨読な日々(第二幕)』「維新の“真犯人”;水戸藩の狂気(其の六 水戸の公家かぶれと司馬史観の罪)」 [2]

司馬遼太郎氏は「桜田門外ノ変」(水戸藩の武士による大老井伊直弼の暗殺)については大変な罪を犯している。司馬氏は、すべての暗殺を否定すると断言する、その同じ舌で「ただ、桜田門外ノ変だけは「歴史を進展させた」珍しい例外」であると断じ、このテロを高く評価するのだ。驚くべき稚拙な詭弁だと言わざるを得ない。「歴史を進展させた」という一言で、司馬氏がどういうスタンスで幕末史を語っているかが明白に顕れている。
司馬氏には、人物で言えば三つの過ちがある。
坂本龍馬(司馬氏は「竜馬」という表記で逃げ道を作っている)、吉田松陰、勝海舟の三人を高く評価した点である。司馬史観というものがあってその核に「桜田門外ノ変」とこの三人の存在があるとすれば、司馬史観とは大いなる罪を犯していると言わざるを得ない。そして、それは創作された虚構に過ぎない。

「司馬史観」 [3]

「司馬史観」とは、司馬遼太郎の一連の作品に現れている歴史観を表した言葉で、端的に言えば「合理主義を重んじる」ということが前提としている。
具体的には「明治と昭和」を対置し、「封建制国家を一夜にして合理的な近代国家に作り替えた明治維新」を高く評価する一方で、昭和期の敗戦までの日本を暗黒時代として否定している。そして、合理的で明晰な思考を持った人物たちを主人公とし、明治という時代を明るく活力のあった時代として描いた。
かくて、戦前のすべてを悪しきものとして否定する進歩史観が猖獗を極めた戦後日本にあって、司馬作品のみならず司馬史観もがもてはやされたのは容易に理解できるところである。

それに対して副島隆彦氏は、明治維新について、理想に燃える下級武士が単独で近代革命を成し遂げたとする司馬遼太郎によるいわゆる司馬史観を否定し、イギリスが当時覇権を争っていたロシア帝国の勢力拡大を防ぐため、岩倉具視、坂本龍馬らのスパイを育成・使役することによって親イギリス政府を作るという世界戦略の一環であったと主張している。
『人民の星』「ライシャワー史観打ち破れ 維新革命の真実ねじまげる」 [4]によると、司馬遼太郎が持て囃されたの背後にはアメリカの戦後対日政策があり、『竜馬がゆく』もライシャワー駐日大使の『日本史』やマリアス・ジャンセンの『坂本龍馬と明治維新』の日本史観を受け継いだものだという。

米国賛美の「開国で近代化」論
「開国で近代化」論は、米日反動が教育をつうじ商業マスコミをつかい、小説やドラマなどあらゆる手段で四六時中ふりまいてきた。昨年から今年にかけても、各地で「開国・開港一五〇年」の催しが鳴り物入りでやられ、NHKは大河ドラマ『篤姫』で開国が正当であったとえがき、来年は『龍馬がゆく』の二番煎じを、莫大なカネをつぎこんで制作し放映するとやっきになっている。
ライシャワー先頭に振まく
この「日本は開国で近代化した」という論調は、米日反動が戦後の日本で、とりわけ六〇年「安保」反対の空前の斗争以後、労働者、人民の斗争を鎮静化し、日本の一部の文化人、知識人、労働官僚を買収し、親米思想に転換させるためのもので、とくにアメリカの駐日大使ライシャワーが先頭きっておこなった日本での思想工作の重要な構成部分であった。
この歴史観の核心は、「開国が近代化をもたらした」すなわちペリー来航が日本近代化の発端であるとして、アメリカのおかげで日本は進歩したとおもわせることにあった。
六一年に、「親日で東洋史・日本史の最高権威者の一人」というふれこみで駐日大使としておくりこまれたライシャワーは、第二次大戦中に、アメリカが対日作戦遂行のためにつくった陸軍日本語学校の設立にかかわり、日米開戦以後は、日本軍の暗号解読のための研究所の設立や、日本敗戦後の対日占領政策を決定する国務省の会議にも参加し、天皇制を戦後はアメリカの傀儡としてつかうこと、したがって天皇を戦争犯罪人のリストからはずし、東条英機ら一部軍部中枢に責任をなすりつけるうえで重要な役割をはたした。
来日したライシャワーは労組幹部、知識人、文化人の切り崩しに狂奔し、「古典的マルクス主義」との対決をさけびながら、労働貴族の育成に力をいれ、労働運動のブルジョア化をやっきに促進した。
当時の大統領ケネディの「平和戦略」は、反米の革命的な斗争を破壊するために、ソ連を頭とする現代修正主義を、日本においては「日共」宮本修正主義を起用したが、そのケネディの日本での手代がライシャワーであった。
明治維新観を歪曲する攻撃
ライシャワーのイデオロギー面からの攻撃の、一つの重点は明治維新観の歪曲であった。かれは、さまざまな場で明治維新にはじまる「日本近代一〇〇年」の栄光をたたえた。しかし、それは近代化はアメリカによってなしとげられたものとねつぞうすることであった。
はやくも六一年には、『思想の科学』(一一月号)の特集「明治維新の再検討」や『中央公論』(六二年一月号)での「明治維新の意味」と題した討議というかたちで、明治維新の論議が組織され、そこに登場した知識人たちは共通して「人民が歴史の推進力だという見方をしりぞける」論調をおしだし、人民が米日反動との斗争にたちあがらないように画策した。
このような「ケネディ・ライシャワー路線」を、大衆・通俗小説で日本人民のなかにふりまいたものが、司馬遼太郎の『龍馬がゆく』にほかならなかった。この小説は、ライシャワーが駐日大使として着任した翌年の六二年六月から、親米・反共の『産経新聞』が夕刊に連載をはじめたものである。
司馬の『龍馬がゆく』は、アメリカの日本史研究者であるマリアス・ジャンセンの『坂本龍馬と明治維新』(六一年発表)を参考にしている。マリアス・ジャンセンはライシャワーの弟子であり、ライシャワーの著作『日本史』の歴史観をうけついだ。司馬の歴史小説、とりわけ幕末維新をえがいたものは、ライシャワーを源流とする「日本は開国で近代化した」「個人英雄が歴史を動かす」という歴史観を忠実にとりいれた。
「外圧」を礼賛する『日本史』
ライシャワーが一九四六年に出版し、その後も加筆してきた『日本史』で展開されている明治維新観は、どんなものであろうか。そのまえがきでは、つぎのように要約している。
「科学技術面でのヨーロッパの台頭は、突如として雷雨のごとく世界を吹き荒れ、その結果、日本も孤立をゆるされなくなった。……列強の支配から逃れる唯一の方途は、自らも西欧の科学技術をできるだけ速やかに採用することであった」
「長年にわたる日本一流の政治、社会、経済機構を一変させたのは、このような過程における喫緊事としてであった」

本文中では、こういっている。
「やがて、内部的に弱体化していた幕府の体制は崩壊し、新しい日本の誕生のための地ならしが行われることになるのだが、その起動力になったのが、この外国からの圧力なのであった」と。
ライシャワーの弟子のマリアス・ジャンセンも、師匠のライシャワーのこの近代化論史観(日本は開国をつうじて近代社会に変革したという論)にそって日本研究をやり、その史観から『坂本龍馬と明治維新』を書いた。
当時、坂本龍馬を研究対象にした学者はすくなく、しかも龍馬の手紙やエピソードなどおりこんで本にしてアメリカで発刊したのは、これがはじめてのものだった。
公武合体派の龍馬もちあげ
ジャンセンは、「日本のように、欧米人が征服の目的なくやって来て伝統的な社会と衝突したところでも」と、欧米列強が日本を植民地化するために、やってきたことをかくした。
ジャンセンは坂本龍馬を、おなじ土佐の郷士であった革命家・中岡慎太郎に対立するタイプとして、意識的にえらびだした。中岡についてジャンセンは「長州の軍事組織の保護下に自分自身の部隊をつくるにいたる」といい、高杉晋作のつくった奇兵隊のもとで、農民町民に依拠して幕藩体制の打倒をめざした革命家としての中岡を否定している。
そしてかれは、「明治新政府の最初の綱領となる」「独自の一体系をあみだすことに力をよせ」たと坂本龍馬をもちあげ、「われわれは、同時代の政治教育を典型的に現わす思想と行動の流れの発展をみることができよう」と、公武合体派であった坂本龍馬を「時代の典型」として売りこんでゆこうとたくらんだのである。
 それが司馬遼太郎の下敷きとなった。

だが、米日反動が必死にふりまいた、このような反動的な維新観はいまやうちくだかれようとしているのである。

明治維新、あるいは近代化とは何だったのか?
その答は「共同体に立脚した江戸幕府と、共同体を破壊した明治国家」 [5]で提示されている。
すなわち、共同体の破壊と金貸し支配国家への転換である。
司馬遼太郎は『坂の上の雲』などで「日本海軍は優秀で、陸軍は無能」と謳っているが、これも、実はアメリカの手先であった旧海軍(米内光政や山本五十六)があたかも戦争に反対した平和主義者のごとく喧伝することに繋がっている。
『るいネット』「海軍の米内光政、山本五十六はロックフェラーの手先1」 [6]
とりわけ戦後は近代化や合理主義が手放しで礼賛されてきた。しかし、それは金貸し支配の進行であった。
このように歴史事実を歪曲し大衆的に流布する上で、司馬遼太郎や阿川弘之をはじめとする歴史小説家が果たした役割(罪)は大きいと言わざるを得ないだろう。

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