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江戸時代の思想【まとめ4】 日本の支配体制は天皇制と律令制度or近代制度の接ぎ木?/武家政権は庶民政権?

Posted By staff On 2012年6月26日 @ 12:34 AM In 04.日本の政治構造 | 13 Comments

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画像はこちら [1]こちら [2]からお借りしました。
「江戸時代の思想」シリーズ【まとめ】その4です。
前稿「江戸時代の思想【まとめ3】 試験制度(科挙)の有無が、中国・朝鮮と日本の運命を分けた」 [3]から、次のような問題が浮かび上がる。
【1】古代の律令国家も近代の明治国家も、天皇制と律令制度や近代制度の接ぎ木されている。この天皇制と輸入制度の接ぎ木が、日本の支配体制の基本構造ではないか?
【2】鎌倉~江戸時代の武家政権は有能で敵国の戦力を見抜いて策を講じている。かつ民の生活に対する配慮が非常に高いのが武家政権である。このことから考えて、700年に亙る武家政権は、朝鮮出自の支配階級ではなく、庶民政権だったのではないか?

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【1】日本の支配体制は、天皇制と輸入制度の接ぎ木構造?
幕末には中国に対する属国意識は捨て去られ、代わって西洋の近代観念と天皇制観念(尊王論)が広がってゆく。
そして、西洋の侵略圧力を受けて出来上がった明治国家も、西洋の近代観念(制度)と天皇制観念をそのまま接ぎ木して成り立っている。
しかし、この接ぎ木構造も初めてではない。
遡れば、8世紀の律令国家も、中国から輸入された律令制度と天皇制の接ぎ木構造である。
7世紀の白村江の大敗北によって唐・新羅に侵略される危機意識が高まり、朝廷は唐の律令制度を導入するとともに、天皇制観念を確立する。その現れが初めて「天皇」を名乗った天武天皇であり、その統治下で編纂が始まった『古事記』『日本書紀』である。
この天皇制と輸入制度との接ぎ木が、日本の支配体制の基本構造になっているようだ。
従って、天皇制と輸入制度(律令制度や近代制度)がどのような関係になっているのかを解明することが、次の課題になるだろう。
【2】武家政権は庶民政権だったのではないか?
同じ支配者でありながら古代の朝廷や戦前の近代国家が中国(唐)や米に無謀な戦争を仕掛けたのに比べて、西洋列強の力を冷静に見抜き、戦争を回避した江戸幕府の能力の高さは注目に値する。
徳川だけではなく、鎌倉幕府は元寇に対して周到に準備し、これを撃退している。
武家政権の方がはるかにマトモで有能な政権だったことは間違いない。
ここまで違うのは、鎌倉~幕末までの武家政権は、朝鮮出自の支配階級ではなく、土着の庶民政権だったからではなかっただろうか。
『縄文と古代文明を探求しよう!』「武士とは日本の支配史にとって何か」 [4]
だからこそ、武家政権にとっては民の生活に配慮することが第一だったのではないか。
実際、鎌倉時代~戦国時代まで武士たちは民の生活を強く意識しており、だからこそ統治者として中立公正と無私であることが求められた。 [5]

最古の武家家訓である「北条重時家訓」(十三世紀中頃の成立)には、一族郎党を率いるべき武士の理想の姿が描かれている。
「仏・神・主・親に恐をなし、因果の理を知り、後代の事をかんがみ、凡て人をはぐくみ〔中略〕心剛にて、かりそめにも臆病に見えず、弓箭の沙汰ひまなくして、事に触れてなつかしくして、万人に陀び、能く思われ、皆人ごとに漏さず語をかけ、貧げなる者に哀みをなし、妻子眷属にいたるまで、常にうちわらいて、怒れるすがた見ゆべからず」
超越者(仏・神・主・親)への畏怖、物事への洞察、武士としての強み、周囲への配慮、人間的な魅力を兼ね合わせるのが、あるべき武士の棟梁なのである。
『江戸の思想史』(田尻祐一郎 著 中公新書)「第2章 泰平の世の武士」 [6]

戦国大名の支配は民の生活を前提として成り立っていたし、江戸幕府も共同体に立脚して統治していた。 [7]
実際、鎌倉幕府にしても江戸幕府にしても、律令制度や近代制度のような輸入制度ではなく、独自でゼロから制度を構築しており、とりわけ裁判制度などは中立公正が求められていた。
『桶狭間戦記』(宮下英樹 講談社) [8]からの引用。
【この本では「戦国時代」の定義そのものが新しい。通説の応仁の乱で下剋上の社会が現出したのではなく、気候として「小氷河期」だったことが大飢饉を引き起こし、大飢饉がかつてない動乱を生み出したという仮説を提示している。】

戦国大名の支配下にある”戦国民”
彼らは「小氷河期」を原因とする長期にわたる厳しい飢饉の中にあったにもかかわらず、年貢を納め、合戦や土木工事に参加した。一見、戦国大名による暴力支配以外のなにものでもないかに思われるが、”戦国民”たちはその見返りに戦国大名になにを求めたか。
小氷河期型の気候変動とは、大雨・洪水・強風であり、耕作に最も重要な河川は氾濫しその流れを変えた。それが元で起きる村同士の水争いは、ときには合戦ともいえる規模に発展し、他国からも狙われる。暴れる河川、衝突する村々、他国からの侵略。
”戦国民”たちは、これらの事態の解決を戦国大名に頼んだ。つまり彼らが大名に求めた見返りとは、治水・法度・守護。いまでいう灌漑事業・司法警察・国防である。

戦国大名が国を盗るということ。
それは他国の大名を殺したとたんに、その国が自国に色に塗り変わるというものではない。他国を切り取るにはまず大義名分が必要であり、なににもましてその土地の戦国民の理解が必要なのである。
新当主は前当主より善政をしき、土豪たちを手なづけねばならないし、飢饉の時代に米を生産する戦国民は国家運営の根幹であり、追放や虐殺をすることはできない。
では、前当主が熱狂的に民に慕われているとき、新当主は如何にして戦国民にとりいるか。それは”傀儡政権”しかない。
名将松平清康(徳川家康の祖父)は室町幕府に認められた守護職とは違い、山間部の民から大名にのしあがった、謂わば郷土が生んだ英雄である。民の松平家への深い服従ぶり故、今川家は清康の子広忠(家康の父)を傀儡の当主にたてるという三河支配策をとらざるをえなかった。

鎌倉~幕末までの武家政権は、朝鮮出自の支配階級ではなく、土着の庶民政権だったからではなかっただろうか。
言い換えると、鎌倉~幕末までの700年間は、朝鮮出自の支配階級がつくった天皇制+律令制度の支配を覆して、庶民が主導権を握った時代だと捉えることもできるだろう。
但し、主導権を握ったと言っても、政権を担う正当性を天皇制(お墨付き)に依存している。この武家政権も、基本的にお上(天皇家や公家)を捨象する、庶民のお上捨象 [9]パラダイムにあることも間違いない。


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[2] こちら: http://ameblo.jp/pa-rupiasu0925/archive1-201006.html

[3] 「江戸時代の思想【まとめ3】 試験制度(科挙)の有無が、中国・朝鮮と日本の運命を分けた」: http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/06/002294.html

[4] 『縄文と古代文明を探求しよう!』「武士とは日本の支配史にとって何か」: http://www.jyoumon.com/blog/2011/12/001354.html

[5] 鎌倉時代~戦国時代まで武士たちは民の生活を強く意識しており、だからこそ統治者として中立公正と無私であることが求められた。: http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/02/002211.html

[6] 『江戸の思想史』(田尻祐一郎 著 中公新書)「第2章 泰平の世の武士」: http://www.chuko.co.jp/shinsho/2011/02/102097.html

[7] 戦国大名の支配は民の生活を前提として成り立っていたし、江戸幕府も共同体に立脚して統治していた。: http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/06/002293.html

[8] 『桶狭間戦記』(宮下英樹 講談社): http://kc.kodansha.co.jp/product/top.php/1234591003

[9] お上捨象: http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=258302

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