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江戸時代の思想11 大衆支配のための既成観念を全的に否定し、新概念を創出しようとした安藤昌益

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安藤昌益の思想は久しく埋もれていたが、戦前に狩野亨吉によって稿本『自然真営道』が発見されたことで光が当てられるようになり、1950年刊の岩波新書『忘れられた思想家-安藤昌益のこと』(カナダの外交官・歴史家ハーバート・ノーマン著)によって広く知られるようになった。
『江戸の思想史』(田尻祐一郎著 中公新書刊) [1]より

前回は「市場拡大に歯止めをかける制度を構想した荻生徂徠の思想」 [2]を紹介しましたが、18世紀の江戸時代中頃、農民の側に立って私権制度や既成観念を全的に否定する思想が登場します。安藤昌益の思想です。
彼は、儒教の「聖人君子」とは盗人(=略奪闘争の覇者)に他ならず、既成思想は全て(儒教も仏教も)盗人による支配の正当化のイデオロギーであると徹底的に批判しました。
まず、その思想の概要を『概説日本思想史』(編集委員代表佐藤弘夫 ミネルヴァ書房)「第15章町人の思想・農民の思想」 [3]から引用します。

●農民は「直耕の転子」
安藤昌益(1703~62)は、稲作農耕とそれに従事する農民と彼らが住む農村を自らの思想的営為の基軸に据えた。彼自身は医者であったが、その思想には農民の心情と意識が反映している。
彼は「不耕貪食」の支配者が「直耕の転子」(農耕に勤しむ天子)である農民を支配する階級社会の政治的・イデオロギー的抑圧を批判する。
彼は誰もが稲作農耕に従事する無差別平等の社会を「自然の世」、階級社会を「法の世」と捉え、「自然の世」の回復を構想するとともに、文字および儒・仏・神をはじめ既成の学問・思想全てが(医術も例外ではない)階級支配を隠蔽するイデオロギーにすぎないことを指弾する。それは通用の天(てん)地(ち)の文字に換え、同音でその自然的意味を表す「転(てん)」「定(ち)」の文字を用いるまで徹底している。
転・定・人は類似の構造を持っており、根源的食糧である米を生産する稲作農耕こそ人々が従事すべき生とされ、それゆえに農民は「直耕の転子」と捉えられたのである。それは農民の間に存在する、社会を根底から支えていることの表現であった。

いつも応援ありがとうございます。


安藤昌益の思想の中身を、『日本政治思想史 十七~十九世紀』(渡辺浩著 東大出版会刊) [4]「第11章 反都市のユートピア-安藤昌益の思想」から要約して紹介します。
●安藤昌益の自然観と人間観

安藤昌益(1703~1762)は秋田の二井田村で肝煎を務める安藤家に生まれたが、生家を離れ京都で医者修業をした後、1744年には八戸で町医をしている。ここで宝暦の飢饉を体験した。その後二井田村に戻り、安藤家の跡を継ぐ。
「天地」の気の自己運動によって万物が生成するというのが儒学的自然観であるが、安藤昌益は「天地」という概念は民衆支配の正当化観念だと看做して使わず、「転定(てんち)」という概念に置き換える。そして、「転定(てんち)」つまり自然の運行や万物の生成、季節の巡りを、「転定(てんち)」が自ら行う農作業「直耕」だとみなす。
これは儒学的自然観や同時代の西欧で流行した機械論的自然観とも全く違う自然観である。
また、儒学では「陰陽」「天地」「尊卑」「貴賤」「上下」「邪正」「治乱」等の対の対比・対立として万象を捉えるが、昌益はそのような二項対立的捉え方を否定し、一見、二項対立的に見えるものも相互に相互を内を含み、一体としてあるというのが存在の実相であるとする。「男・女」と対言することさえ誤りであり、「男の性は女、女の性は男、男女互性にして活真人」であり、「男女」と書いて「ヒト」と読ませる。男女一対で十全な人であるという意味である。
「男女(ヒト)」は「転定(てんち)」から生じ、「転定」の在り方を体現する「転定の嫡子」「小転定」であり、「男女(ひと)」は「転定」と同じく「直耕」、つまり自ら耕して得た穀物を食べて生きるものである。そして、男女一対で人なのだから、夫婦こそが人倫の基軸である。そして昌益は、オランダの一夫一婦制度を伝え聞いて、好意的に紹介している。

互性とは、相異なるものが相互に依存し、かつ相互に相手の本性を内在している関係のこと。転と定、男と女などの関係をいう。本質的には同一だが、現れ方が違うのであって、お互いがお互いを活かし合って存在していることである。
「男女(ヒト)」は「転定(てんち)」から生じ、「転定」の在り方を体現する「転定の嫡子」「小転定」であり、男女が相互に相手の本性を内在しており、それ故にお互いを活かし合っているという安藤昌益の転定-男女論は、縄文人以前の原日本人カタカムナの認識と合致するものである。
すなわち、現象の有限宇宙(アマ)とその外側に広がる潜象の無限世界カムとの対向から、その相似象として万象が生じている。男女の関係もアマ-カムの対向の相似象であり、男と女という区別も、実は固定したものではなく、位相が固定するまでは、自由に転換しうるものであり、又、男女のホルモンのように、男性にも女性的な位相、女性にも男性的な位相があるといふような、生命現象の本質に関する極めて高度の達観が、カタカムナ人の認識であるが、安藤昌益の転定-男女論はカタカムナのアマ-カムの相似象である男女論と完全に重なっている。
「異性親和の相事象から双極的世界(分化と統合の原理)が生れる」 [5]
●盗人(略奪闘争)によって「自然の世」が「法の世」に転落した。

「直耕」自ら耕して食べることが万人の本来の生き方であり、年貢を獲って「不耕貪食」する者は盗人である。儒学の云う聖人君子は全て強盗の異名である。
聖人君子という強盗のいなかった世は「自然の世」と呼ばれ、「転定」と「男女」が完全な相似形をなし、一体となって「直耕」していた。そこでは、皆が耕作に従事することで食べ、年貢も盗みも乱もなく、商人もおらず貨幣もなかった。商人とは「上にへつらい、直耕の衆人をたぶらかす」者である。貨幣によって欲心も起き、栄華を欲して妄行の世になってしまったのである。
昌益は医者であったが、自然の世では欲心がないから気病にもならないので、本来は医術自体が不要であると言う。それだけではない。仏僧に頼って極楽を願うことも、神を祈り幸福を願うこともなく、音楽も遊芸も遊女もいない。
こうして昌益は、領主・武士・名主・商人・職人・医者・役者・遊女などのいない、農民だけのユートピアを構想した。万人が農民で、夫婦家族が睦まじく、年貢・金銀・盗人・病気のない、質素で勤勉な生活を送る。それが人の本来の世(自然の世)だったと説くのである。昌益によれば、当時の蝦夷地のアイヌはそのような世だったという。これは、アイヌ人が当時の和人によって模範とされた珍しい例である。
本来の状態から、世界の大部分が転落したのは、自分が耕さずに食べようとした「聖人君子」や「釈迦」など悪人たちの出現による。従って、儒教や仏教などは「悉く皆、盗業をなす言い訳」であり、盗人の自己正当化のイデオロギーである。「字・書・学問は、転道を盗むの器具」にすぎない。
このように「自然の世」には文字もなく、書物もなく、学者などもいない。
王なる者が立って以来、この世は乱世・妄惑の世となった、そして彼らがその私利私欲のために「法」を作った。こうして「聖人」によって「自然の世」が「法の世」に堕ちてしまった。さらに法の世には暴力がはびこる。「何ん時も、人を殺し、人の持つ国を奪ふに非れば、王となること能はず。故に、王立つときは、必ず乱世して多く人を殺して成る」
人類史が恐るべき不正と混乱に転落してしまった、と考えるのである。

●支配階級と大衆支配の観念を全的に否定
このように安藤昌益は、支配階級(王侯貴族)とその手先たる教宣階級(官僚・宗教家)を全否定したのである。
『るいネット』「大衆支配のための観念と、観念支配による滅亡の危機」 [6]

原始人は、本能と共認機能をもって大自然を対象化しており、彼らが獲得した観念原回路も、本能と共認機能を駆使して形成されたものである。さらに、その観念原回路を使った精霊信仰も、本能と共認機能によって精霊を対象化しており、決して、言葉を使って対象化したわけではない。
文字を使った観念思考は私権時代に始まったが、それは、徴税や法律に代表されるように、主要には、国家の統合者が大衆を観念統合するためである。その後、庶民発の救い期待に応える宗教や、解脱欠乏に応える文芸も登場したが、僧侶や学者や文人など観念思考の専門家は、大半が統合階級の一員となってゆき、それら庶民発の解脱観念も、国家が大衆を観念統合するための道具の一つとして組み込まれていった。
こうしてみれば、原始以来、大衆はほとんど文字を使った観念思考などすることなく、一貫して現実思考(現実を対象とする本能と共認機能を使った直感思考)で生きてきたといえる。他方、私権時代に始まった観念思考の専門家たち(=統合階級)の作った観念は、一貫して大衆を観念支配するための観念であった。

安藤昌益は、私権時代の既成観念は大衆支配の観念であることを見抜き、既成観念(儒教も仏教)も観念思考の専門家(孔子も釈迦も学者)も、徹底的に全否定したのである。それは文字さえも農民支配の道具であると言い切るまで徹底している。
●新概念を創出しようとした安藤昌益
しかし、安藤昌益は単に否定しただけにとどまらない。
モノを考えるには、何らかの言葉=観念を使う必要がある。しかし、その言葉が全て旧観念で占められているとしたら、モノを考えれば考えるほど旧観念の世界に嵌り込んでゆくことになる。つまり、悪循環の無限ループから、永久に脱却できない。この旧観念の悪循環から脱却するためには、全ての旧観念を捨てて、ゼロから新概念を創出しなければならない。
そのことを安藤昌益は見抜いていたのであろう。
だからこそ、彼は単に既成観念を否定しただけではなく、新概念を創出しようとしていたのである。
例えば「天地」を「転定」(てんち)と置き換え、「男女」と書いて「ヒト」と読むというのが、それである。

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画像は『安藤昌益資料館』「安藤昌益用語集」 [7]からお借りしました。
他にも、安藤昌益がつくった概念が一覧化されています。
●では、「自然の世」への復帰は可能なのか?

可能である。
儒教や仏教など「他国より来る迷世偽談の妄教を省去り」さえすれば、「忽然として、初発転神国の自然に帰する」。
かつて少数の悪人が出現してこの世を変えてしまったのだから、今度は少数の正人(発音は聖人と同じ)が出現すればよい。
仮に「正人が出現せず、自然の世に戻してくれなくても」次善の方法がある。上下の別はありながらも、上がその領田を自ら耕して一族の食衣を足らし、その下の諸侯も同様にすればよい。羨むべき金銀美女はないから、上を伺う諸侯もなく、防衛のための多くの臣族も税斂の法も不要になる。「遊民」「商人」には土地を与えて耕させる。一方、必要以上の多くの田を持つことは止めさせる。金銀通用も止め、遊芸や字・書・学問は停止する。上に不耕貪食さえなければ、厳しい賞罰の政事がなくても、この邑政だけで悪徒ははびこらない。
この過渡期の実現も大改革であるが、昌益は彼の著書の力に希望を託したようである。彼の著には、弟子の言として「師昌益の一生の直耕は、直耕に代わって真営道を書に綴り、後世に残すは、永々無限の真道直耕なり」と記され、「死んだ師(昌益)は穀に宿り人に再生し『正人』(「聖人」の置き換え)として自然活真の世の再生を実現する」とある。

「他国より来る迷世偽談の妄教を省去る」、つまり儒教・仏教をはじめとする大衆支配のための観念を捨て去り、観念支配を覆せば、自然の世の再生は可能であると安藤昌益は説く。だからこそ、彼は「転定」(てんち)、「男女」(ひと)をはじめとする新概念を作り出したのだろう。
実際、安藤昌益は彼の著書=新思想が後世に伝わり、同じ志を持つ人物「正人」が続々と出現することによって自然の世への回帰が実現すると考えていたようである。
どうやら、安藤昌益は、観念(言葉や文字)が人間の意識の最先端の位置にあり、その一つ一つが下部意識にとっての羅針盤の役割を果たしており、定着度の高い不動の観念が下部意識を支配する力は極めて強力であることも理解していたらしい。
逆に言うと、後世、観念の塗り変えによって自然の世(共認社会)が実現することを期待(予測)していたのではないだろうか。
そして、安藤昌益は「自然の世」の実現態としてアイヌの共同体社会を挙げている。
人類史を(必要なら生物史にまで)遡って、歴史的に塗り重ねられてきた意識の構造と社会の構造を、実現基盤に到達するまで徹底して解明し切るために、例えば採集部族の社会を追求するのと同じ追求姿勢である。江戸時代の他の思想家たちも歴史を探索し、孔子の原典や古代中国の制度や日本の『古事記』へ遡ったが、安藤昌益の歴史探索はそれを超えている。
(一方、彼はオランダの夫婦関係を好意的に紹介しているが、これは鎖国していた日本には、オランダの男女関係が断片的に美化されて伝わってきて、それを聞いた安藤昌益が誤解したからであろう)。
残念ながら、当時は貧困の圧力⇒私権圧力が強力に働いており、1970年豊かさの実現によって開かれた私権収束から共認収束への大転換という実現可能性を、安藤昌益は発掘することはできなかった。また、共認機能が形成されたサルや観念機能を形成した人類の歴史的知識が全くなかったが故に、共認社会の実現基盤をを観念化するには至らなかった。
しかし、それは時代的な限界と見るべきであって、安藤昌益の思想の価値を損ねるものではない。
むしろ、300年近く前の日本に、大きな時代的制約の中にありながら、既成観念を全的に否定し、新概念の創出に取り組んだ思想家がいたことに、驚くばかりである。
そして、現在、我々の前には共認社会の実現可能性が開かれている。そういう時代に生を受けたことに感謝するばかりである。
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