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江戸時代の思想1 天下泰平で秩序安定期待が衰弱し、「民の生活」を忘れていった武士階級

Posted By staff On 2012年2月14日 @ 7:48 PM In 04.日本の政治構造 | 7 Comments

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「尊皇攘夷や右翼思想は、敗者の思想ではないか?」 [1]では、
【1】江戸時代になって秩序が安定すると(戦争がなくなると)、取り立てられる可能性が閉ざされた浪人たちに不満が蓄積されたこと。
【2】その不満の矛先が徳川体制に向かい、それを背景として、浪人儒学者たちが尊皇思想を唱えはじめたことを明らかにしました。
【3】この徳川体制に不満を持つ浪人たちも、安定秩序からのはみ出し者であり、秩序安定期待から外れた敗者ということができます。

しかし、江戸時代の秩序安定期に不全を抱えたの浪人だけではありません。武士階級全体が不全を抱えることになります。
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『江戸の思想史』(田尻祐一郎 著 中公新書) [2]「第2章 泰平の世の武士」の要約です。
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「北条重時家訓」

●中世武士の思想
武士は、戦闘を職能とする武装自弁の集団として登場した。「兵」は武具を与えられ、コマとして動かされる者であるから、両者ほ同じではない。中世の武士たちは、「弓矢取る道」「武者の習」などと呼ばれる独特な規範をもつようになっていた。その社会的な基盤は、在地に根付いて館を構え所領を支配し、一族郎党を抱えて武士団を作っていることにあった。所領の支配については独立して不可侵であり、誰の干渉も許さない独立性を誇った。
このような武士によって政治が運営される中から、法体系は「道理」に基づくべきものであり、政治家は公平・無私であれというような思想が生まれてきた。最古の武家家訓である「北条重時家訓」(十三世紀中頃の成立)には、一族郎党を率いるべき武士の理想の姿が描かれている。
仏・神・主・親に恐をなし、因果の理を知り、後代の事をかんがみ、凡て人をはぐくみ〔中略〕心剛にて、かりそめにも臆病に見えず、弓箭の沙汰ひまなくして、事に触れてなつかしくして、万人に陀び、能く思われ、皆人ごとに漏さず語をかけ、貧げなる者に哀みをなし、妻子眷属にいたるまで、常にうちわらいて、怒れるすがた見ゆべからず
超越者(仏・神・主・親)への畏怖、物事への洞察、武士としての強み、周囲への配慮、人間的な魅力を兼ね合わせるのが、あるべき武士の棟梁なのである。
「文」や「徳」に依拠する東アジアの正統的な価値観からすれば、戦闘者の世界から独特の思想が生み出されてくるなど、およそ考えられない。しかし日本では違っていた。武士はいつまでも単なる戦闘着ではなく、為政者でもあったからである。

鎌倉時代~戦国時代まで、武士たちは民の生活を強く意識しており、だからこそ統治者として中立公正と無私であることが求められていた。「北条重時家訓」にはそれがよく表れている。
そこでは、武士の役割は自明のことであり、「北条重時家訓」以上の言葉化(観念化)は必要なかっただろう。
ところが、江戸時代に入ると、「武士の役割とは何か?」とか「武士のあるべき姿とは何か?」と考え、それを観念化した思想が登場する。
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「山鹿素行」

●山鹿素行の問い「武士は何のためにあるのか」
山鹿素行は会津の浪人の子として生まれ、儒教を林羅山に学び、さらに兵学と同時に『源氏物語』や『万葉集』、さらには忌部神道や両部神道(平安時代からの真言密教系の神道)を学ぶ。素行は兵学者として知られる人物であり、幕府への仕官を希望していたがかなわず、8年間赤穂藩に仕えている。
素行が儒教の専門的な学者であり、かつ兵学者でもあった。他に江戸の思想家には医者が多い。中国や朝鮮の伝統では、知識労働と肉体労働とは厳密に区別されて、交わることのない別世界であるが、江戸の学者が、多かれ少なかれこのような実用の学を身につけているということは、江戸の思想史にとっても重要な要素であろう。
素行は「武家日用の学」を求めていく中で、四十歳の頃から朱子学への疑問を募らせ、1665年、四十四歳の時に、その疑問をまとめて『聖教要録』として刊行した。この書物の刊行は、厳格な朱子学者として知られる山崎闇斎をブレインとしていた保科正之の怒りをかい、素行は赤穂藩浅野家に預かりの処分を受けている。そこで素行は『中朝事実』を著した。
素行はこの書で中華思想に反論した。
当時中国は漢民族の明朝が滅び、満州族が皇帝の清朝となっていた。また歴史を見ると、中国では王朝が何度も替わって家臣が君主を弑することが何回も行われている。中国は勢力が強くもなく、君臣の義が守られてもいない。これに対し日本は、外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られている。
中国は中華ではなく、日本こそが中朝(中華)であるというのが、この書の主張である。
素行が自らの思想遍歴を明らかにした書である『配所残筆』には、自分たちは武士だという強烈な自覚が溢れている。
道徳や教養に優れた人格が、世を治め民を安んじるのではない(儒教ならそう考える)。「武士の門に出生」した老は、世を治め民を安んじる責任があるから、「身を修」めなければならないのである。武士は、自分のことだけを考えるのではない、武士としての交際があるし、一身のたしなみ、礼儀作法から統治の担い手としての教義や技能まで、武士として身に付けておくべき「わざ」も多い。
社会にとって農工商の三民の存在価値は明らかであっても、武士について、それは自明ではない。武士は三民の上に立つというが、実は遊民ではないのかという声を、素行は心の奥に聞いていた。
素行は次のように答える。
「職業」としての日々の労働に精一杯である農工商の三民に、人倫(道)の手本を示すのが「士の職」だということである。
武士は何のためにあるのかという問いの前に立たされ、その回答としてこういう説明がなされたのである。
中国や朝鮮の士大夫(読書人=官僚)は、そもそもそういう問いの前に立たされることがない。文や徳の担い手としてのその存在価値は、あまりにも自明だからである。素行の場合、それは一見すれは武士の儒教的な正当化であるが、およそ儒教の世界では考えられない問題にぷつかっているということが、より重要なのである。

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●『三河物語』の忠「譜代の衆は御家の犬」
『三河物語』は、戦国時代末期から江戸時代初頭を生きた三河武士である大久保忠教(彦左衛門)(1560~1639)が、徳川家の歴史と大久保家の戦功を語りながら、徳川家譜代の家臣として生きるための教戒を子孫に書き残したものである。
忠教は「御普代の衆は、よくてもあしくても御家の犬にて」と述べて、絶対的な忠誠を「御家」に尽くすのが譜代の臣としての生き方だとする。それは、主君への隷属ではない。時には諌争もする。しかし忠敬の関心は、平和な時代がやってきて武士に要求されるものが変わり、譜代が軽んじられる風潮の中で、子孫が譜代らしく生きるにはどうあるべきかという一点にある。
垢抜けた口達者な者、いかにも能吏らしい者、そういった新参の雇われ武士が重宝がられて出世していく。そういう時勢だからこそ、「無骨」な譜代武士はそれを真似たり僻んだりせず、与えられた場所がたとえ不満なものであっても、そこで忠勤を尽くすべきことを忠教は説く。
忠教はこう書いている。
「御主様へ御無沙汰(不忠)申上た者ならば、我死したりと云共、汝共がのどぶえに喰付て、喰殺すべし」(自分の死後、主君に不忠を働いた者がいれば(蘇って)のど笛に噛み付いてやるという意味)。
『三河物語』が説くのは、生死を共にして主家の活路を閃いてきた譜代武士が、泰平の時代、次第に取り残されていく状況の中で、戦功に代わる自分たちの生の根拠をどこに求めるべきか、その必死の呻きなのである。

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●『葉隠』の忠「武士道とは死ぬ事と見付けたり」
佐賀藩(鍋島家)に仕えた山本常朝(1659~1719)を慕う藩士の田代陣基が、晩年の常朝の口述を筆記して『葉隠』である。素行が、戦闘者としての精神的伝統の上に、「三民」に向き合う道徳的指導者としての武士像を打ち立てたとすれば、『葉隠』は、「鍋島侍」の生き方は「主君の御用に立つ」べきことに尽きると言う。素行が求めた学問や教養、普遍的な「人倫」への志向は、ここにはない。
仏教も儒教も兵学も、「当家の家風」に沿うものではないから不要で、鍋島家代々の歴史や武勲などの知識だけで十分だと言うのである。
「主君の御用に立つ」とは、例えばそれは「諫言」をなすことであり、わずかでもそこに、「我が忠」を示そうという自己顕示欲があってはならず、ひたすら主君を思う気持ちに純粋でなければならない。
主人への「忠」は否定されるわけではないが、それを「理屈」として詮索したり、規範として定立する(忠とはかくあるべしと言説化させる)ことは嫌われる。それはおそらく、そのような「理屈」を立てようとする中に、自己中心的な不純さを認めるからである。
「武士道というは、死ぬ事と見付けたり」から始まる一節は、次のようなことを語っている。
「忠」の「理」を規範として立てるという志向のうちに、自己の不純を理屈で取り繕おうという気持ちが潜んでいて、そこに定立された規範の中にも、形を変えた自己中心性が忍び込んでしまう。「毎朝毎夕」不断に「死身」となることで、武士として何ものにもとらわれない、つまり自己の「好き」にもとらわれない高次の「自由」を得て、結果的には「一生越度なく、家職を仕果す」ことができるというのである。こうして『葉隠』は家職を仕果すために、武士はどう生きねはならないかを語っている。
そして常朝の場合、それが秘められた官能とも連続している。
恋心を悟られず「思い死する」ほどの恋を「恋の本意」とする常朝は、家臣から主君への忠誠の根底にも、この「忍恋」の心が秘められると言う。先に「無二無三に主人を大切に思えば」とあったが、その「大切に思う」にも、おそらくこのような官能の色合いが潜んでいる。
「好き」に流される時、緊張が緩んで、理屈を操作して自己正当化したい欲望が生まれる。それは武士として恥かしい、「自由」を失ったありようなのである。緊張の中に自己を置いて自己を放たないこと、それは、深い恋心を懐きながら、それと悟られずに相手に接し続けるに似た、秘めやかな愉悦に支えられている。

このように、江戸時代の山鹿素行も大久保彦左衛門も『葉隠』も「武士の役割とは何か?」とか「武士のあるべき姿とは何か?」と考え、それを観念化している。
ところが、その内容は、大久保彦左衛門や『葉隠』では「主君への忠」が第一で民のことは意識されていないし、山鹿素行の「農工商に人倫を示すのが武士の役割」という論も、庶民の生活や期待とは遊離した、上から目線の観念論である。 村落共同体の中で生きている共同体質の農民にとっては、「人倫」など言われなくてもわかっていることである。
何故、江戸時代に入って「武士の役割とは何か?」と自問自答する必要が生じたのか?
戦国時代までの武士が民の生活第一であったのは、
【1】打ち続く戦乱で、社会の最大期待が秩序安定期待であったからであり、
【2】武士階級のほとんどが農村に住み、村落共同体と密着し、大衆(農民)に期待を直接受けていたからである。

実際、戦国時代の農民が戦国大名に期待したのは、治水・法度・守護(灌漑・司法警察・国防)といった秩序の安定課題である。そして、それぞれの戦国大名も領国内を統治するために分国法(法度)を制定したことに見られるように、秩序安定期待に応えようとしていた。戦国大名の役割の一つは法度=司法警察であるが、そこでは公平性が求められた。
その最たる者が江戸時代の幕藩体制という安定秩序を作り出した徳川家康である。家康が最終的に戦国の覇者と成り得たのは、秩序の安定期待という、この時代の(支配層から末端大衆までを貫く)期待=意識潮流に応えたからだとも言える。「武力支配時代の秩序期待」 [3]
ところが、徳川幕藩体制によって秩序が安定すると(それは当たり前のことになって)秩序安定期待は衰弱する。かつ、武士は全て都市に集められ、村落共同体から切り離された市場の住人と化す。かつ、戦国時代までの武士の仕事(=戦争)がなくなる。つまり、武士たちは社会的期待も仕事も喪失し、役割不全に陥ったのである。
実際、「天下泰平」「御静謐の世」を実現した江戸時代には、心がすさんだ武士も多かった。
瑣事をきっかけに抜刀し、命を失う武士も多かった。井原西鶴は1688年刊『武家義理物語』の中で「自然の時のために知行をあたへ置かれし主命を忘れ、時の喧嘩、口論、自分の事に一命を捨つる」と述べている。あるいは、異様な服装・言葉遣いをし、恐ろしげな名称の集団を作って街をのし歩き、喧嘩を売り、乱暴狼藉を働く者がおり、さらには辻斬りをする者さえいた(かぶき者と呼ばれる)。『日本政治思想史(十七~十九世紀)』(渡辺浩著 東京大学出版会) [4]
このような無頼化した旗本奴と争った幡随院長兵衛は、弱きを助け強きをくじく男の中の男としてその後、芝居や講談の題材となった。
また、儒学者三輪執斎(1669-1744)の著によると、「口惜しや、畳の上ののたれ死に、目出た過ぎたる御世に生まれて」という辞世の句を残した武士もいたという。
そうなると、武士にとっては民の生活はもはや第一ではなくなり、この武士たちの役割不全を解消することが第一課題となる。これが「武士の役割は何か?」を観念化した思想が登場した理由である。
それが、山鹿素行の「農工商に人倫を示すこと」であり、大久保忠教(彦左衛門)の「御家の犬」であり、『葉隠』の「主君の御用に立つ」「武士道とは死ぬことと見つけたり」である。
このように、主君への忠や武士道といった武士の規範観念が、ことさら強調されることになったのは、天下泰平が実現した江戸時代以降のことである。
実際、江戸時代より前の武士たちは主君に対する忠誠心は極めて希薄であった。
1579年に日本にやってきた神父ヴァリニャーノは、日本の武士の主君に対する忠誠心の無さを次のように書き残している。
「主君の敵方と結託して反逆し、自らが主君となり、再びその味方となるかと思えば、状況が変わればまた謀叛するという始末である」
江戸時代に入って、忠や武士道がことさら強調されるようになったのは、社会的期待と役割を喪失した武士階級を観念的に統合するためであったろう。
同時にそれは、支配階級である武士たちが、戦国時代まであった「民の生活を守る」という規範意識を忘れてゆく過程だったのではないだろうか。

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[4] 『日本政治思想史(十七~十九世紀)』(渡辺浩著 東京大学出版会): http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-033100-5.html

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