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中国どうなる!?5 ~中国一の金持ち村。どうやって貧困を克服出来たのか?~

前回のエントリーでは、中国国内における都市部と農村部とに厳然とある格差について紹介しました。

ところがそんな貧しい農村部において、豊かさを実現した村があるというのです。
その村は文化大革命の頃、このままでは村が飢えるという危機感から、当時の農民なら到底思いつかないであろう方策によって貧困を克服。今では中国一の金持ち村として注目を集めています。今回は、その村を紹介したいと思います。

以下、るいネット投稿のこちら [1]こちら [2]から紹介します。

中国は都市と農村で貧富の格差が大きいのだが、例外もあるようだ。

以下は、毛沢東思想が理想としていた「共産社会」を、「共同富裕」として村民皆で村の利益を分配して発展し貧困を克服したという華西村の事例である。文化大革命の時代、このままでは村が食べていけないという危機意識から、華西村は共産党にばれないようにネジ工場を運営、この収入で村の飢えを脱した。ここで注目すべきは、村民全員で等しく富を分配し、それで村全体が豊かになったということだ。

以下は「テレビに映る中国の97%は嘘である」 小林史憲著
の第二章 「中国一の金持ち村-328メートルの高級ホテルから観た異様」 の要約です。

■中国一の金持ち村

江蘇省の華西村(かせいそん)。上海からおよそ100km西に位置する村。この村にはシンボルとも言える72階建て地上328メートルの超高層ビルがある。横浜ランドマークタワーよりも高い。華西村の入口には、「天下第一村」と大きく書かれたゲートがあり。それをくぐり抜けると、道の両脇にはヨーロッパの別荘のような高級住宅が立ち並ぶ。庭にはプールやバスケットゴール、車三台分の駐車場などまである。

この超高層ビルは通称「新農村ビル」と呼ばれる。これまでの農村のイメージを覆したということから、こう名付けられたそうだ。華西村成立50周年を記念して建てられた。出資したのは一部の村民たち。各世帯が1000万元(約1億2000万円)を出資、計30億元(約360億円)を集めて建設された。ビルにはホテル、レストラン、会議場、展望台、さらに数百戸の住宅が入っている。(外は団地のようなアパートや工場しか見えない田舎で、誰がこの村でこんな高級ホテルに泊まるのか)1960年台、当時の共産党は頑張って成果を上げている村を「モデル農村」のようなかたちで全国に紹介していた。華西村は、昔から模範的な村だった。この華西村。1961年、行政区分の変更で、周辺の村が一緒になって誕生した。当時の人口は1500人ほど。稲作を中心とする貧しい農村だったという。とは言え、当時は農村はどこも等しく貧しかったのだが。

中国が文化大革命に突入していた1960年代、華西村は、農業だけでは食べていけないと、小さな工場を建てた。そこで、ネジなどの金属加工製品の製造を始めた。すると、当時の農機具は壊れやすかったため、周辺の農民たちの間で華西村の製品が評判となり、爆発的に売れた。当時、中国の農村は、共産党の厳しい管理のもとで、集団農業を強いられていた。職業選択の自由はなく、農村が工業をやるなんてもってのほか。農業も、地域ごとに収穫目標が定められ、共産党幹部が定期的に見回りに来ていた。そのため、工場の存在は村民だけの秘密だったという。その工場は当時のまま保存されている。レンガ造りの粗末な建物。農機具の倉庫のようにしか見えない。鉄格子付の50センチ四方の窓は高い位置にあり、外から覗けないようになっている。

■村のリーダー

リーダーは呉仁宝氏。83歳(2011年当時)呉は華西村が誕生した1961年に、33歳の若さで村のリーダーになった。以来、50年にわたって村を率いてきた人物。ネジの工場を始めたのも呉である。共産党の厳しく強大な支配体制のもと、時にはその監視の目を盗み、それでも敵に回すことなく、文化大革命や改革開放政策の行われた激動の時代を乗り越えて村を守ってきた。「共産党のリーダーたちが検査に来たときだけ、みなで田んぼに出て農業をやっている姿を見せた」「当時、53万平方メートルの田んぼがあったが、村の収入はたったの5万元。工場は、最初の1年に30万元を稼いだ」最初の工場が成功したあと、呉は村の事業を次々に拡大。時代は文化大革命も終わり国全体が経済の建て直しに向かう時期。共産党幹部の監視も緩くなっていた。1978年。中国は鄧小平のもとで改革解放政策に転じる。そのとき、華西村は資金力やノウハウにおいて、すでに他の地域より一歩先を行っていた。

いまや村は、60もの村営企業を持つまでに成長。株式会社化して上場し、取得した2010年の総売上高は約500億元(6000億円)。利益も」35億元(約420億円)に上った。最大の収入源は鉄鋼業で、海外にも輸出するほどだった。

また呉は農業も改革した。それまで農民がバラバラに耕していた農地を集約して、大規模農場へと転換した。それを企業が一括して管理、農民は社員として給料を受け取る仕組みを構築した。

このように呉は、社会主義の中国で、いち早く資本主義的なやり方を取り入れて、村を発展させてきた。

「経済の管理を強めなければならない。稼いだ金を個人個人が勝手気ままに使ってはいけない。聡明なリーダーの判断で、最も必要なところに投資していかなければならないのだ」

 

■厳格な集団主義体制

村に建つ別荘のような高級住宅街。そこにすむ27歳お若い夫婦の邸宅の様子。

床面積500平方メートル3階建て。2歳の息子と3人暮らし。玄関を入ると吹き抜けのロビー、リビングには大型液晶テレビとソファがある。3階の部屋は使われていない。

家の価格は200万元(約2400万円)ほど。しかし村の電気関係の工場で働く夫の年収は約8万元(約94万円)ほどしかないが、大学を卒業したとき、村に結婚の報告をしたら、この家を与えてくれたという。

実は、華西村の発展を支えてきたのは、厳格な集団主義体制にある。

村民の就職は村が管理し、村営企業に振り分ける。給料も現金で支給されるのは二割だけで残りの八割は「株式」として分配される。「株式」は自由には使えないが、たまれば車や家に交換できる仕組みになっている。この若い夫婦の場合は、夫の両親が貯めた「株式」と交換で家を与えられたのだ。

また、村営企業の実績によってボーナスを分配することで、社会主義が陥りがちな「働いても、働かなくても同じ給料」という労働意欲の減衰を防いでいる。

一方で、大学までの教育費や医療費は、村が負担。年に一回、海外旅行も支給されるなどの福利厚生があるという。

先ほどの夫婦は、村の外にある大学の同級生。妻は遠く離れた遼寧省の都市の出身で、都市戸籍を持っている。都市戸籍を持つ女性が農村戸籍しか持たない男性と結婚するのは稀。ここからも華西村の豊かさがわかる。

この高級住宅街、家のデザインや色は、ちょっとずつ違ってはいるものの、大きさや形はほとんど同じ。村がまとめて建設し、村民に分配しているからである。

つまり、この村は、資本主義的なやり方で経済発展を遂げつつ、社会主義的なやり方で富を公平に分配しているのである。

中国そのものも、改革開放政策によって市場原理を導入した。経済的には資本主義へと舵を切り、猛烈な勢いで経済発展を遂げてきた。しかし、富の分配は上手く行かず、貧富の格差の拡大が深刻な社会問題となって横たわっているのだ。

■今なお根強い毛沢東の思想

華西村は、毛沢東時代の中国がもともと理想としていた、マルクス主義の「人類史の発展の最終段階としての社会体制である共産社会」を実現しているかに見える。「共産社会」とは、言わば「ユートピア(理想郷)」だ。華西村のスローガンは、まさに「共同富裕」。つまり「共に豊かになろう」なのだ。

この華西村の成功を学ぼうと、連日、全国各地から視察団が押し寄せる。省、市、県、村といった自治体の役人たちである。

その視察団に最も人気なのが、呉さんの講演。

「社会主義とは何か?一言で言えば、人民を幸せに生活させることが社会主義だ」と熱弁をふるう。


■村の合併に見る旧村民と新村民との経済格差

華西は、ここ数年、周辺の20の村を吸収合併してきた。華西村としては、事業の拡大で村営企業が増え、従業員の確保が必要だった。一方周辺の村としても華西村と一緒になったほうが、恩恵を得られるからだ。

華西村の旧村民は約2000人。2011年で2万8000人にのぼる。

ただし、旧村民と新村民の間には、収入にも福利厚生にも差を設けている。これに新村民は不満に思わないのだろうか。
新村民の村長にあたる人物曰く「華西村は、50年間も奮闘してきたわけだから、合併された村がすぐに同じ待遇を受けるのは、かえって不公平だろう。」

この旧村民の村長は、現在では村役場の一職員として働いている。

■華西村に存在する3つの格差

村が拡大し、出稼ぎ労働者が華西村の工場で多く働く。彼らの収入は、例えば鉄鋼工場で12時間の労働なら月給5000元(約6万円)。2011年当時、北京で大卒の初任給が3000元、広東省の工場労働者なら熟練工で1500~3500元が相場。

5000元はかなり待遇が良いと言えるが、その収入のほとんどが生活費で消えるという。先の高級住宅とは違って安普請のアパート(トイレ・フロ共同)で、村の中心の商店街からも遠く離れ車も所有できる経済的ゆとりがないらしい。

中国の戸籍制度は、市や村単位で細かく分類され、基本的には自分が生まれた自治体でしか、行政サービスを受けられない。出稼ぎ先に長く住んでも、そこでの公共サービスや社会保障は受けられないのだ。しかも、親の戸籍によって子供の戸籍も決まってしまう。

もっともわかりやすいのが「都市戸籍」と「農村戸籍」の分類。都市戸籍のほうが、社会福祉や公共サービス、就職などで圧倒的に有利になっている。

最近では、戸籍の変更を認めるケースも一部に出てきたが、まだ、ごく一部に限られている。

華西村は農村戸籍だが、その裕福さと充実した社会福祉によって戸籍を希望する人は多い。以前は村民と結婚すれば戸籍を取得できたが、今はそれも難しい。「特別な才能や技術など、村の発展に役立つ人にしか戸籍を与えない」ことになっているという。

「共同富裕」を掲げる華西村だが、現実には3つの階層が存在している。旧村民と新村民、そして出稼ぎ。出稼ぎの家族は、5年以上も華西村で働いているが、戸籍を取得できていない。

リーダーの呉は、2013年3月18日に肺がんで逝去。84歳。後を継いだのは四男。他の家族も村営企業のトップや村の要職に就いているものの、協力なリーダーを失った華西村の将来はどうなっていくのか。

いかがでしたか?

リーダーである呉仁宝氏の逝去後の華西村の未来は、陰りが出はじめているのかも知れません。
しかし、呉が実現した「共同富裕」は、集団収束力の強い中国人だからこそ、成し遂げられたと言えます。
誰もが貧しく生存圧力に晒されているのなら、いち早く自分だけが豊かになろうと抜け駆けする者が後を絶えないのが、よく聞く話です。しかしこの村は毛沢東の掲げた共産社会を強く信望し、単なるお題目ではなく本当に村民皆が豊かになることを目指したのです。
これは中国人が元来持っている皆一緒という本源の精神によってもたらされたものかも知れません。
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