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裏天皇の正体15~薩長同盟は、ロスチャイルドと手を結んだ百済(長州)+秦(薩摩)の連合では?

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鹿児島県国分市にある「韓国宇豆峯神社本殿」
画像はこちら [1]からお借りしました。
幕末、長州と薩摩が金貸しの指示で倒幕に転じ薩長同盟を結んだことが、倒幕→明治維新の契機である。
そして、長州は百済系で、薩摩は秦氏系らしい。つまり、薩長連合とは、百済+秦の連合であったということだ。

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まず長州である。
『株式会社参謀本部の社長ブログ』「守護大名 大内氏の興亡」 [2]

瀬戸内に面し、周防国衙の所在地である防府にその本拠を定めていた豪族大内氏が、一族を率いて山口へ入植したのは、十四世紀後半のことであるが、これはまさに唐突ともいえる事件であった。つまり山口は自然に生じた都市ではなく、全くもって人為的に且つ意欲的に構築された支配者大内氏の根拠地である。
大内氏が、百済の聖明王第三王子琳聖太子をその祖とすると今日ではひろく知られている。『大内多々良氏譜牒』(年代不詳)によると、多々良浜に上陸した琳聖太子はその後、摂津国に上り聖徳太子に謁し、周防国大内県を与えられ、多々良姓を得てこの地に土着した、と記されている。これはあくまでも古伝であり、裏付ける史証は見当たらない。
しかし、帰化伝説を完全に否定するわけではない。周防国は地理的に本州の西端に位置しており、朝鮮半島からの渡来人が数多く上陸したと考えられる。百済、高句麗滅亡時には多数の亡命者を迎え入れた様である。周防国には大内氏の他に百済系を唱える秦氏があり、玖珂郡二井寺の寺伝では郡の大領秦皆足が建立したとある。また熊毛郡には百済部氏があり、百済系帰化人の系譜がうかがえる。これらの渡来系の中では秦氏が一時栄えたが、次第に百済系を唱える多々良氏、すなわち大内氏が他を圧倒し周防国衙を掌握していくのである。

その後、大内氏は毛利氏に滅ぼされ、長州藩の上層は毛利家が支配しているが、下層には大内=百済の残党が大量に残っていた。この百済の残党がクーデターを起こし、藩政の主導権を握り、倒幕へと突き進んだのである。
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「韓国宇豆峯神社の御神体である韓国岳」
画像はこちら [1]からお借りしました。
次に薩摩である。
『歴史の陰に秦氏あり・・・』「秦一族の歴史/新羅、秦氏、(三)新羅、秦氏」 [3]

▼島津氏が継承した新羅の民俗
島津氏は鎌倉幕府から日向・大隅・薩摩三国の守護に補任されて以来、六百年以上にわたり南九州を支配した豪氏である。だが、その素性は案外知られていない。島津と称する前は惟宗氏(これむね。新田八幡宮神官も惟宗氏)と言い、氏祖の忠久は日向国守の家に生まれ、源頼朝による薩摩国島津荘の地頭職安堵が縁で「島津氏」を名乗ったのだ。その惟宗氏とは秦氏である。やはり、源氏の鎌倉幕府とは「新羅」系政権と言えそうか。
幕末の西郷隆盛や大久保利通らは貧しくとも「藩士」であった。彼らの伝記などを通じて、薩摩藩には厳しい藩士教育の伝統があったはよく知られている。特に「兵児二才」(へこにせ)と呼ばれた青年たちの若者組が有名であろう。そこでは、藩士や戦士としての予備教育が行なわれたことは言うまでもないが、そればかりではなかった。民俗宗教的な側面が強くあった。
名門の美少年を「稚児様」(ちごさま)と称し奉り、集会や合宿、また「山野遠遊」(本来の意味の「遠足」:ワンダーフォーゲル)を行ない、戦さには稚児様を先頭に青年戦士団として戦場へ赴いた(天草の乱などでの記録がある)。この稚児様とは、八幡神の依り代であった。実は、新羅に「花郎」(元々は「源花」と呼ばれた女性、つまり巫女であった)と呼ばれる貴族の美少年を奉ずる青年戦士団がり、同様の民俗があったのだ。
三品彰英氏の研究によると、この民俗が最も残っていたのが国分と出水(いずみ。鹿児島県北西端。ここにも八幡宮がある)であった。国分とは大隅八幡宮と韓国宇豆峯神社の地である。
国分兵児の重要行事に三月の正八幡宮参詣があった。このとき、出水兵児も稚児様を奉じて参詣し、国分兵児と交友し、武道を競った。出水兵児は九月には川内の新田八幡宮にも参詣した。また、国分兵児も、九月下旬の出水八幡宮祭礼に稚児様を奉じて参詣し、出水兵児と交友した。
さらに彼らは、秋の彼岸には韓国岳のある霧島山峰へ「霧島参り」を行なっていた。新羅の若者たちが花郎を奉じて霊山の金剛山などに登っていたのと同様だ。
その他、例えば出水は六地区に分けられ、兵児二才もそれに従って編成されたが、これも聖都(ソフル)慶州が六村から成っていたという伝承を持つ新羅や、黄金の六つの卵から生まれた男子が六加羅の王となったという神話を持つ加羅の、聖数「六」に基づく。宇佐の辛島ハトメは、隼人の乱のとき「神軍」を率いて大隅に向かったが、このときハトメは八幡神の依り代である「源花」であったのだ。

つまり、薩摩の島津氏の源流は秦氏(その拠点が大分の宇佐八幡宮)である。
また、「韓国」という名を冠する神社や岳が鹿児島にあり、薩摩の若者宿には新羅の習俗が残っている。このことは、薩摩が新羅渡来の秦氏の拠点であったことを示している。

おそらく秦氏は、元は始皇帝の時代に秦に征服された遊牧部族=交易部族で、万里の長城建設のため働かされていたが、秦の支配から新羅に脱出し、そこから日本に脱出してきたのであろう。
だとすると、幕末期に金貸し(ロスチャイルド)と手を結んで倒幕を目論んだ勢力は、百済(長州)+秦(薩摩)の連合軍だったということになる。
今後、この仮説を検証してゆく。

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