- 日本を守るのに右も左もない - http://blog.nihon-syakai.net/blog -

暴走の源流=平安貴族11 平安貴族の交易ネットワーク

「暴走の源流=平安貴族」シリーズの一貫として、平安貴族たちの力の基盤に目を向けてみる。
彼らは、大々的に貿易をしていたようである。
『古代朝鮮』(井上秀雄著 講談社学術文庫)「弓福の活躍と藤原政権の新羅政策」 [1]
いつも応援ありがとうございます。

弓福は、唐や日本でも活躍していた当時の国際人で、日本では張宝高の名で知られている。この弓福はその出身地さえも明らかでない新羅の地方人で、武芸をもって名をあげようと唐に渡り、その武芸を認められ武寧軍小将となった。
829年に帰国した弓福は、興徳王に謁見して「広く中国では新羅人を奴婢に使っています。清海地方に鎮守して、新羅人が唐に連れ去られないようにしたい」と申し出た。興徳王は弓福に1万の軍隊を授けて、清海鎮の太守とした。このようにして、ようやく唐の新羅奴婢の売買の禍根を絶つことができた。
弓福は神武・文聖両王を支援して反対派を倒し、彼らを王位に即けたが、文聖王は前約を破って弓福の娘を王妃にしなかった。そこで、841年、弓福は清海鎮で反乱をおこしたが、刺客のためにあえない最期を遂げた。
弓福は武人として新羅で認められたが、唐や日本では国際的な商人として高く評価されている。彼は新羅の貿易をほぼ独占し、中国・日本とを結ぶ海上交通をもほぼ独占する状態であった。
これによって得た巨大な財力をもって、中国の山東半島の新羅人町赤山村に赤山法花院を建て、寺壮を寄進するほどであった。また日本の入唐僧円仁が日本帰還の便船を依頼するほど広く海上交通を握っていた。
840年12月に、弓福は大宰府に使者を派遣し、国交を求めてきたが、太政官では新羅の家臣と国交を結ぶことができないとして追い返してしまった。ただ私貿易として、ある程度の商品を民間で交易することは黙認されていた。
841年の彼の死は、日本の貿易界にもかなり大きな波紋を投じている。
前筑前守文室宮田麻呂は、弓福の博多にある支店と貿易を行っていた。彼は、唐の商品を入手するために代価を前納していた。ところが、弓福が殺されたことを聞くと、宮田麻呂は弓福の支店にある商品を前納金のかわりに差し押さえてしまった。
弓福の博多支店はその所有権をめぐって争いがおこり、紛糾したため、朝廷は宮田麻呂の処置を不当なこととして没収した商品を返却させた。これは朝廷が国際上の問題となることを避けるため、商習慣として許されている行為を宮田麻呂の責任にしてしまったのである。彼は843年の暮れに、反乱を企てたとして伊豆に流されている。
当時、朝廷は外交関係を閉ざしていたが、平安貴族の要請によって新羅との私貿易は黙認されていた。そのため、奢侈品貿易を中心にしながらも、新羅との貿易はかなり大量かつ広範囲に行われていたとみられる。それは、宮田麻呂と弓福との売買方式がかなり高度な商慣習の上になりたっていることからも知られる。
このような私貿易ではあるが、新羅と日本の貿易が抑圧されるだけでなく、新羅を敵対国としてその侵寇の恐怖をあおる事件が起こった。それは866年閏3月に起こった応天門の変である。応天門の変の実相はなお不明な点も多いが、藤原良房・基経が政権を確立するためにこの事件を利用して、大伴・紀両氏をはじめ藤原一族さえもおさえた事件である。
乱後、藤原氏がかなり強引な政策をとったこともあって、貴族や国民の中で藤原氏に対する非難がくすぶっていた。そのような中で、同年4月、太政官は大宰府に「近頃京都でしきりに変事がおこるが、その原因を陰陽師は隣国の軍隊が来襲しようとしているからだと占った。北九州、山陰地方の警戒を厳重にするように」と命じた。同年7月15日には、これにおもねるように大宰府から「肥前の国の郡領たちが新羅にいって兵器製造の術を教わってきたが、これは対馬を占領するためのものである」と報告した。
さらに同年、隠岐国の浪人安曇福雄は、前隠岐守越智貞厚が新羅人と共謀して反逆を企てていると密告した。この密告はあやまりであることが判明したが、地方役人や民間人までが中央政界の動揺に敏感で中央政府の新羅の侵寇説などを受け入れるだけでなく、これに便乗して実体のない侵寇説を拡大したことにも注目しなければならない。
藤原良房の策謀だけでなく、その後の日本でも国内に重大な政治問題が発生すると、これを正面からとりくむことを避け、しばしば対外問題がこれに代わって登場してくる。この場合も西国の防衛強化や伊勢神宮・石清水八幡宮をはじめ全国の主要な社寺に、新羅の侵略排除を祈願させている。
さらに869年5月、新羅の海賊2隻が博多を襲撃したことから、帰化した新羅商人30名を捕らえ、「みな外面帰化に似ているが、内心は逆謀を懐き、もし新羅が侵入してくれば、必ず内応するだろう」として太政官は死罪としたが、大宰府の仲介で陸奥国などへ流されることになった。
北九州などはつねに朝鮮と交流をもち、私的な関係はいつの世にも存在する。それが危険なものとして取り上げられるのは、日本の国内政治の危機、権力者の危機だからであって、新羅からの侵略を裏付けるものはまったく見いだせない。このような危険から身を守ろうとした帰化人さえも、権力者たちは日本の安全のためと称して、彼らを抹殺しようとしたのである。

このように平安貴族たちは、かなり大量かつ広範囲に私貿易・密貿易を行っていた。
そして、その貿易による蓄財が、彼ら支配勢力の財として蓄積されてきたことは想像に難くない。
では、この交易を牛耳っていた勢力は?(続く)

[2] [3] [4]