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米国の圧力と戦後日本史19~米国に見透かされていた中曽根の核開発~

自国の利益を優先し、米国の思惑を無視した政策に走った結果、米国の虎の尾を踏んで失脚した田中角栄政権以後、日本の政策は米国の世界戦略に振り回されてきた。(福田・大平・鈴木政権)http://http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/02/002495.html [1]
 続いて、中曽根康弘が首相になると、日米関係においては、「ロン・ヤス関係」と呼ばれるほど、米国と親密な関係を築いていくことになる。中曽根の基本的な戦略は従米路線であったのだろうか。今回の記事は中曽根がどのような政策を取ってきたのかを具体的に見ていく。


 自国の利益を優先し、米国の思惑を無視した政策に走った結果、米国の虎の尾を踏んで失脚した田中角栄政権以後、日本の政策は米国の世界戦略に振り回されてきた。(福田・大平・鈴木政権)
 続いて、中曽根康弘が首相になると、日米関係においては、「ロン・ヤス関係」と呼ばれるほど、米国と親密な関係を築いていくことになる。中曽根の基本的な戦略は従米路線であったのだろうか。今回の記事は中曽根がどのような政策を取ってきたのかを具体的に見ていく。
 
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□米国に依存しない資源確保ルートを開拓しようとしていた中曽根

 中曽根は、第一次石油危機前後(73~75年)に田中首相のもと、通産大臣として石油と結び付いた海外の権益作りの布陣を展開していた。そこでは、資源の安全保障について、軍事的安全保障の同盟関係と異なる新しい同盟関係を模索しており、中国やソ連のとの結び付きも視野に入れていたようである。
 
中曽根は、独自の外交論を唱えた。世界は米・ソの二極を中心とする軍事同盟体制を前提にした上でのデタントによって、「もう大戦争はできない情勢になっている。軍事的安全保障体制はスリーピング・エイジに入り、抑止力としてのみ働くようになっている」と考え、「資源的安全保障が、より緊切であるといえる」と主張していた。
これは、従来の日米関係の維持を意味していた外交の考え方を塗り替える見方であり、中曽根は、米国に依存しない資源の確保を目指して、アラブ諸国との関係を重視していった。
 
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日本にとって、石油は血液のようなものであり、アメリカに抵抗してでも手に入れる必要があった。1973年には、田中首相が外務省に中東寄りの声明の原案を作成させたが、この原案は中曽根にとっては不満だった。そこで中曽根は原案の修正を命じ、従来よりも中東寄りの姿勢を鮮明にした

 
【引用】対米依存からの脱却し、独自の資源外交を目指していた中曽根康弘http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=273300

 
 
 
□対米従属からの離脱を目論見、核開発をすすめていた。
 

中曽根は、軍事面ではアメリカの対ソ連戦略に擦り寄るなど、従米的な動きを見せつつも、裏で核開発を進めて、アメリカやソ連に対する抵抗力を行使できるような戦略を立てていた。
 
中曽根は、吉田内閣以降の対米従属体制から抜け出すには、原子力を利用する必要があると確信した。54年3月には、日本で初となる原子力予算が、野党改進党の予算委理事だった中曽根主導の元、提出されている。
1954年、米国水爆実験で第五福竜丸が被曝(ひばく)し、日本中に原子力に対する不安が拡がった。しかし、読売新聞と日本テレビを率いた戦後復興期の「メディア王」である正力松太郎と手を組むことで、マスコミや湯川秀樹等科学者の力を利用し、世論を和らげて強引に原子力予算を議会に通し、1956年、原子力委員会を発足させた(30年後、日本は33基の原発を稼働させ、全発電量の26%を占めて火力を抜きさることになる)。
 
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1959年、科学技術庁長官として入閣し、原子力委員会の委員長に就任する。
1970年には防衛庁長官に就任し、私的に専門家グループを招いて核武装の是非を研究させていた。中曽根はのちに著書で「当時の金で2千億円。5年以内で出来るというものだった」と明かしている。
 
中曽根はその研究を踏まえて訪米し、「日本への核の脅威に対し、米国の抑止力が機能している限り、核武装する可能性はまったくない」 と発言、「能力はあるが、つくらない」ことを強調した。
さらに、ロッキード社のP3C対潜哨戒機導入に関しては、当時の防衛庁長官だった中曽根康弘、官房副長官たった故・後藤田正晴などをはじめとする有力な自民党議員のほとんどすべてが、P3C導入をめぐって賄賂をもらっていたといわれているが、面従腹背を貫いた中曽根は吊るし上げられず、この事件で吊るし上げられたのは、明らさまな反米路線を歩んだ田中角栄だけだった。
 
こうして、中曽根は軍産複合体に近づくことでCIAの網を逃れ、密かに核開発を続けてきた。しかし、1982年に首相なってからは、使用済み核燃料からプルトニウムを取り出す際には、その都度米国の同意を必要であることを定めた日米原子力協定を、この先30年間は米国の同意を要しないように改めることを求めた。
この動きを見た米国は日本の核武装に対して警戒心を持ち、日本がNPTを脱退して日米安保条約を破棄する可能性もある」と難色を示した。これに対し中曽根は、「日本列島を不沈空母にする」と発言。懸案だった対米武器技術供与に踏み切った。
 
 
【引用】米国追従から脱するべく、核武装を画策していた中曽根康弘http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=273461

 
米国は日本の核開発に対して警戒感を抱いていた。これに対し中曽根は「不沈空母」発言と、武器輸出三原則を越えた武器技術供与を行ったことによりこの警戒感を拭い去ろうとした。
 
   
□経済政策においては、米国に一定擦りよりつつも独自路線を維持
 
 米国は高インフレ状態に突入しており、これを抑制すべく、1981年レーガンは金融引き締めを行った。この政策によってインフレ状態は脱却したものの、巨額の財政赤字と累積債務が発生した。これに加えて、レーガン就任以前から膨らんでいた貿易赤字も増大し、ドル相場が不安定になった。(双子の赤字)日本は、米国の貿易赤字への対応のため、70年代に日本の繊維産業やカラーテレビの輸出自主規制を受け入れてきた。中曽根政権時代においても、81年に自動車輸出自主規制を行うなど、米国の貿易赤字に対応していく姿勢を崩さなかった。
 
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 一方で、基軸通貨としてのドルの信用が揺らぐ中、先進国の中で、脱米国の風潮が見えはじめる。1984年にはフランスとドイツが軍事協定を結んで、米国中心の軍事経済網からの離脱を企てた。同時期に、G5やG10でアメリカから日本に対し、円高を誘導するよう申し入れられたが、国内では財界の反対もあり、米国の交渉は不調に終わっていたようである。
 
 
 
☆中曽根は、経済政策では輸出規制を受け入れる等、アメリカに擦り寄る姿勢を見せる一方で、円高交渉には応じない等、全面的には米国に擦り寄らなかった。軍事・外交面では秘密裏に核開発を進めていた。中曽根は核開発を進めることで、米国に対する独自性の基盤を確保しようとしていた。このような戦略に至る背景には、米国が今後衰弱していくことも見越して、日本独自の資源確保ルートの開拓と軍事の独自性を持とうとしていたことが考えられる。
 
☆海軍軍人として敗戦をおかした中曽根は、太平洋戦争の敗北の原因を資源の不足と核兵器が持てなかったことに総括していたのではないだろか。そのように総括したが故に、核兵器さえあれば米国に対し対抗する力を持つことができるという思考に陥っていたが、これは東大卒の試験エリート故の稚拙な短絡思考と言わざるを得ない。
 
☆このような場合に日本の独自性の実現基盤となるのは、本来米国の監視圧力の中で‘抑止力として機能する核兵器‘を如何に実現するかという課題であったにもかかわらず、結局は中曽根にこのような視点が欠如していたことから、日航機事件で明らかになるように、中曽根が目論んでいた面従腹背の日本独自の武器としての核開発は米国に見透かされていた可能性が高い。
 
 
 
中曽根が核開発に突っ走ったことで、どの様な結果を生み、日米関係や中曽根の政策は
どのように変わっていたのか。次回はその様子を見ていく。

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