先の投稿「日本に脱出してきた徐福が作ったネットワークが大和朝廷」 [1]に日本を支配した勢力は2派あり、西の古墳人と東の古墳人であることを示しました。
●弥生人+韓人=西の古墳人、縄文人+高句麗人=東の古墳人
5世紀始め頃から、朝鮮半島情勢北部の高句麗が強大化していく。高句麗広開土王が百済・伽耶に攻め込み、攻め込まれた韓人(主に百済人)が、押し出されるように日本にやってくる。さらに、その後の金官加羅滅亡(532年)、任那滅亡(562年)の際にも伽耶人が日本に逃げ込んでくる。
これら韓人(百済人/伽耶人)と弥生人・縄文人との混血を(西の)古墳人と呼ぶ。
一方、高句麗は南進した勢いでもって日本にやってくる。高句麗は、百済や大和政権を挟み撃ちにするように東日本に勢力を築く目的で派兵。この410~480年頃の広開土王・長寿王の朝鮮半島征服時代に日本に渡って来た高句麗人と縄文人の混血を東の古墳人と呼ぶ。
東西の古墳の分布は、この東西2大古墳人の勢力分布を明瞭に示している(下図)。
前回までは、日本に脱出してきた徐福→葛城ネットワークが伽耶・百済勢力を招きいれたのが大和朝廷であることをまとめていきました。
彼らは支配して行く過程で民の生活より自分達の私権(地位・身分)を優先し、縄文体質を失っていきます。それに対して、縄文体質を残存させたのが東の古墳人(縄文人と高句麗人の混血)です。彼らが統合者となった、鎌倉~江戸時代は民の生活を考えた非常に縄文人らしい政治をします。しかし、彼らは蝦夷として正史上は抹殺されてきました。
今回は「東の古墳人」にスポットを当てます。
■大和朝廷に追われた東の古墳人(高句麗勢力)
現在でも東北地方が本州では縄文体質が最も色濃く残す地域である。
391年好太王とその子・長寿王(491没)の時代に一気に勢力を拡大し、朝鮮半島の大半を服従させた。高句麗の全盛期。475年には百済の首都を陥落(→百済人が日本へ)させたが、490年代には百済・新羅が盛り返し、領土を回復。
この高句麗全盛期の410年~480年の間に日本(新潟?)に渡り、関東に大勢力を築いたものと考えられる。
400年代、長野、埼玉、群馬を中心に、出雲、新潟から千葉、尾張にかけて、西日本に匹敵する数の古墳群が作られました。東の古墳人は、西の古墳群に匹敵する数の古墳群を東日本に築いています。
これら関東の古墳は、前方後方墳で埋葬物も馬具や武器が大半を占めており、明らかに西日本とは異なる勢力です。
この勢力は、江南人と縄文人の混血である西の弥生人とも、彼らが韓人と混血した西の古墳人とも異なる勢力、即ち高句麗と縄文人が混血した東の古墳人(関東人)と考えられる。
彼らは、高句麗と交易を続け、高句麗滅亡後は、727年を皮切りに、渤海と頻繁に交易していました。
大和政権が手を焼いていた相手は、蝦夷ではなく東の古墳人(高句麗勢)。田村麻呂が征伐したアテルイも東の古墳人です。
日本の源流を東北にみる~大和支配の外にあったもう一つの日本 [2] によると高句麗勢力は大和朝廷に追われて6世紀以降東北に移ります。
高句麗は6世紀末に唐―新羅の連合軍によって滅ぼされますが、滅ぼされた一派は北へ逃れ、沿海州方面にいた靺鞨(マッカツ)人と共に渤海という国を作ります。東北地方に高句麗勢力が入り込んできたのはこの時代からではないかと思われます。727年に始めて渤海使が出羽国に到着する以前から、日本海を挟むネットワークはあったものと考えるからです。また、同時期に百済も滅亡し、大和朝廷は国内の高句麗勢力殲滅の為に関東に百済の居住民を数百人規模で植民し、農業を広げていきます。関東の高句麗勢力がそれに伴い東北に移動した可能性もあります。
大和朝廷は後の平安時代9世紀に征夷大将軍・坂上田村麻呂を送り込み、再三東北に攻め込みます。これは一説には蝦夷(縄文人の末裔)の征伐と言われていますが、本当のところは、大和朝廷に逆らう東の勢力、高句麗残党が勢力をもった東国を意識していたのではないでしょうか?
大和朝廷が数度の進行を経てようやく征圧したと言われていますが、只の縄文人支配にこれほど手間と時間がかかるとは思えません。アテルイやモレはおそらく高句麗系の騎馬民族であった可能性が高いと思われます。アテルイの肖像はそれを示しています。
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※写真はアテルイ:和議に応じて都に行くも田村麻呂に斬首されるコチラ [4]からお借りしました
※長野や埼玉、群馬の高句麗系古墳や高麗神社については
↓↓↓をご覧ください。
五世紀から始まる東国における高句麗人の足跡 [5]
高句麗の歴史(高句麗は日本にどのように入り込んできたか?) [6]
■東の古墳人(高句麗勢力)が関東・東北の武士となった?
東北の高句麗の系譜はその後、10世紀以降の武士の発生、発達へ引き継がれていきます。武士は元々は土着の農民を守る自衛団として発生したと言われています。
坂東武士は関東の出自ですが、同様に東北にも強力な武力軍事集団が居たのではないでしょうか。馬を駆使し、駆け引きと戦闘力でのし上がった武士という役割にはどうも騎馬民族高句麗の系譜があるように思われるのです。

※写真は鎌倉時代の坂東武者の姿 コチラ [7]からお借りしました。
その傍証として、平将門が高句麗(東の古墳人)ではないかという説があります。
平将門と高句麗の関係は? [8]より引用
平将門は、元・高句麗の高麗が、新羅を破った935年に、
関東地方で乱を起こしていますよね。この動きは、偶然の一致とは思えません。
彼や彼を取り巻く氏族が、高句麗~高麗と大きなつながりがあったからこそ、高麗が新羅を破った後、勢いづいた関東地方の高句麗勢力をまとめることができ、反乱を起こしたと見ることができるのではないでしょうか?
また平将門は、江戸時代には英雄として扱われたのに、明治期になると
逆賊として扱われているのをみると、
武家政権→高句麗系の覇権、天皇家政権→百済系の覇権
といった繋がりが、ぼんやりと見えてきます。
もし彼らの子孫が坂東武士だとしたら、鎌倉・江戸幕府は、彼ら関東人=東の古墳人の政権だったことになります。
そして葛城にとって、彼らは400年代から鎌倉、江戸時代を通じて、最大の敵だったと考えられます。
●では、なぜ高句麗勢力(東の古墳人)たちに縄文体質が残ったのか?
高句麗は長く狩猟生産を続けた、当時、最も原始的な部族連合であり、共認原理的なものを色濃く残しています。
『倭の正体 見える謎と見えない事実 [9]』によると、高句麗はクリルタイという部族連合を残した政治体制をとっていたことがわかります。
197年、高句麗の故国川王が死亡すると、その兄弟が王権を争った。この時期の高句麗では王位継承がモンゴルのクリルタイ方式をとり、王位継承の選挙権をもつ有力な五部族が王位継承の資格者をそれぞれ擁立し、支援部族の強力なものが王位についた。
その内政では高句麗の政治構造が五つの地域をそれぞれ基盤とする消奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂ろ部の五族であった。この五族は一定の地域を基盤とした部族国家で、高句麗はこの五族を中心とした部族連合であった。この事件を契機として、王都の移動が五族の勢力分野の変動を意味している。
さらに王位継承法がこの時期から父子存続の傾向を持ち、王直属の官僚がしだいに主要な官職につくようになり、王権の強化拡大がみられる。高句麗は滅亡の時期まで、この五族的性格を残すが、官僚体制的な性格を強めた後世の五部制への転機がこの事件であったといえる。
※クリルタイとは、蒙古語で集会の意味。北方遊牧民族の間では古くから大小の部族集会が行われていた。クリルタイ方式は部族集会で、部族長や国王の候補者選定・選挙・即位・遠征・法令の発布など重要な国政を討議・決定した。
※写真はモンゴルのクリルタイ コチラ [10]からお借りしました。
当時の高句麗の政治機構はしだいに部制=王の官僚体制になりつつあるが、なお五族すなわち有力な旧小国王が王の即位を左右し、重要な国政は彼らによっておこなわれていた。
征服王朝となった広開土王は旧民であると五族の政治介入を嫌って部制を発展させた。
広く古代国家成立の段階で王権のあり方を考えると、東アジアでは当初から強力な王権が存在したのではありません。先にもふれたように共同体社会での王権は、この時期の支配権力を王権といえないかもしれないが共同体成員に厳しく束縛され、今日の支配権力とはまったく異質なものであった。生産力の拡大にともなって共同体を越えた強力な結合が要求され、小国家を形成する段階ではしだいに武力が重視されてくるが、扶余や高句麗の場合『魏志』東夷伝に伝えられるようなシャーマン的機能がなお王権の主要な性格であった。この小国家の連合したものが広開土王時代の高句麗である。
この時期には政治の実権が小国家の王たちにあって、彼らの合議により、ときには彼らの武力闘争によって国政が決定された。各地を征服し領土を拡大した広開土王時代には、先に述べたように被征服地域の豪族たちが高句麗の国政上の実権が誰にあるにせよ、形式的な代表者である広開土王に恭順の意をあらわすものも少なくなかった。さらには種族的な対立感情を越えて、この王のもとで新しい国家建設の希望をいだく者さえあらわれた。広開土王のように特殊な能力のある王であれば国政の実権を五族から奪って王権を確立したいという欲望を禁じえないであろう。
征服王朝の出現は古代国家への第一歩である。部族連合国家では支配階級の中に三つの階層が成立し、各階層間の矛盾が発生する。形式的には最頂点をなす王が、中間層の中央貴族に擁立され、実質的な支配権力をもっていなかった。下層をなす地方豪族は国政に参加することなく、中央貴族に隷属しなければならない。
このような支配階級の矛盾を含む部族連合国家が征服王朝に転化するのは、この碑文に示されているように、王の政治的才能と被征服地域における強大な統一国家形成の期待とであろう。古代国家の英雄時代とは、まさに被征服地域の豪族をも巻き込む統一国家礼賛の時期であったのであろう。
もう1つの傍証として、高句麗の婚姻様式 [11]を紹介します。
高句麗は母系制の集団だったようです。
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韓国の歴史 [12]
「その17、三国時代の生活③ 高句麗、その二 鉄が歴史を動かした」より
>また当時の結婚様式をみてみます。現在の韓国社会では女性の再婚に対する偏見がまだ残っているといえます。(そうなんですか?私にはその辺はまだよくわかりません・・・by Mie)しかし高句麗時代は再婚がかなり自由に行われたようです。これは高句麗だけではなく三国共通の現象だったようです。そして結婚してしばらくは妻の家に住む母系中心社会の伝統が一般的でした。
結婚して妻の家に住み、子どもが大きくなると独立して場合によっては妻の家で一生を過ごすのが伝統でした。男は結婚にこぎつけるまで手間ひまをかけ、やっと妻のお父さんの許しが出るとその義理の父は妻の家の隣に新婚夫婦の小屋を造ってくれます。そこを婿やといいます。
高句麗の女性はよく働きました。だから娘が嫁に行ってしまうとその家では労働力の損失になるわけでその損失補てんのためにも新郎は新婦の家にしばらく滞在して自分の労働力を提供したのでした。体を張って礼を尽くすというのが一種の伝統だったのですね。また嫁の立場からすると子どもを自分の実家で産んで育てるという気軽さがあったのでお互いに得になったのでしょう。こうした結婚の伝統は朝鮮後期である17世紀まで続きました。しゅうとめと嫁とが同居する伝統は、むしろわずか200年にも満たない新しい伝統です。
※写真は高句麗王家の婚姻様式 コチラ [13]からお借りしました。
このように高句麗では部族連合に近い政治体制や母系集団が残存していたりと共認原理的なものを色濃く残しています。
加えて、百済や伽耶が滅ぼされる過程で王族+農民が亡流してきたのに対して、高句麗勢は広開土王・長寿王の朝鮮半島征服時代に勢いに任せて侵略のためにやってきました。つまり、高句麗からやってきたのは軍隊(武人)であり、女がいませんでした。
そこで、現地の縄文人の女を媒介として高句麗軍の男たちは縄文人の中に溶け込んでいったと考えられます。
これが、日本、とりわけ関東・東北に縄文体質が残っている理由です。
■最後に
私権時代にあっても支配者の縄文体質(→民の生活第一)が濃いのは、大和時代と鎌倉・江戸時代だけであり、奈良平安と明治以降の日本の支配者には縄文体質(→民の生活第一)は見られません。
そして、奈良・平安・明治以降、裏で政権を動かしてきたのが日本の闇勢力=葛城ネットワークです。
今後は葛城ネットワークが奈良時代以降どのように日本を支配してきたのかを明らかにしていきたいと思います。



