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天皇制国家の源流8 高句麗広開土王に追われてやってきた応神(百済王族)が、第二期大和王朝 ~2つの百済の一つが日本列島へ~

天皇制国家の源流5~北方の扶余族(高句麗・百済)に追われて逃げた倭人勢力(=加耶)が第一期大和朝廷~
天皇制国家の源流6 朝鮮の支配部族の源流 [1]
天皇制国家の源流7 ツングース(百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越(伽耶)が大和朝廷 [2]
・・・の続きです。
百済にはかって2つの国があり、そのうちの1つ(応神)が日本に国ごとやってきたという説から、日本の天皇家の源流となったと考えられる百済の出自と、日本への進出の過程について調べました。
応援よろしくお願いします。


以下引用部分は、
『「日本=百済」説~原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第五章 史観をゆるがす「2つの百済」」からです。
まず、百済は当初相当強かったようです。

●クンナラ(百済)がわかると日韓が見えてくる。
百済に関する一般的なイメージは、高句麗から分かれた小さな国で、漢江流域に建国し、北は高句麗、東は新羅から攻撃され、ついに滅びた国という程度のものではないでしょうか?
(中略)
私は百済という歴史上のキーポイントの実体に別の角度から接近し、従来のものとは異なった面貌を明らかにしていく必要性を痛感しています。
中国史書に表れた記事だけでも、百済王は一時期新羅王を任命し、一方ではまた日本列島と遼東半島の西部地域(遼西)に分国を持ち、中国大陸沿岸を股にかけて活発な海上活動もしていました。中国の北魏とも戦い、大国唐にすら反抗しているのです。百済とヤマトの関係も今まで知られている以上に密接で、その実情に接すればするほど、従来の見方とは異なる新しい、日韓像が浮かび上がり、発見が生じます。

次に百済王族のルーツです、高句麗と同じルーツを持つ騎馬民族(ツングース/扶余系)のようです。

●高句麗と百済建国
高句麗は自らのルーツでもある扶余国を吸収し、その神話までも自分のものとします。百済建国は、そうした高句麗の始祖・朱蒙の2人の息子(沸流と温祚)からはじまりました。かれら同腹の兄弟が、父の先妻が産んだ腹違いの兄たちの嫉みと圧力に悩まされ高句麗を脱出、南下したという部分は、彼らの父が扶余から脱出し、高句麗を建国したのとちょうど同じ筋書きです。出来過ぎた作り話しのように思えますが、扶余系の北方騎馬民族の移動の波が何度も繰り返し半島に及んでいたのを物語り、またそれは事実でしょう。
騎馬民族王家の兄弟争いは、もともと遊牧民の生活様式に根を持つものでした。これら騎馬遊牧民は、普段から小家族単位で放牧生活をせざるをえません。一定地域にある牧草には限りがあるので、兄弟は共に暮らせず、互いに遠く離れて生活せざるをえない宿命を持ちます。王国も遊牧民の家族の場合と同じように王子兄弟は離れ、互いに独立し、新しい国を建国していくのが宿命です。
百済王は馬韓の後進とみなされながらも、機会あるごとに扶余に出自を持つ高句麗から分岐した国であることを主張しており、事実、百済と高句麗の支配階級の言語は同じです。この2つの支配者は同族でした。百済建国当時、百済と高句麗の間に漢の植民地・漢四郡が緩衝地帯の役割をしていました。高句麗と百済がおのおの、北と南の両面から漢の植民地を蚕食した後、ついに国境線で向いあう状態になると利害が食い違い、近親憎悪の感情も沸きたちます。
高句麗と百済はお互いが、扶余の正統継承者であることを掲げ、競争意識を持って対立していきました。いわゆる正嫡競争で、自分が扶余の正統だと言い張り、百済が最後の都となった所の地名を扶余としたことも、そのためでした。

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【地図】百済は北(百済)と南(伯済)の2つがあり、さらに遼東半島の北西側に飛び地を持っていたという。
著者は、中国の史書、広開土王碑文、そして『日本書紀』の神巧、応神の行跡などを総合的に判断して、百済は漢江流域の河南慰礼城(温さ百済)と(沸流百済)を拠点にそれぞれ存在していたと考えています。


●2系統の百済である理由
私が、2つの百済説を信じるもっとも大きな理由は『日本書紀』の記事、すなわち漢江流域の百済本拠地が高句麗によって陥落(475年)、そして熊津に移った際、倭王(雄略)はその久麻那利(熊津)の地を百済の汶洲(文周)王に与えたという記録があるからです。
これに関する殆どの韓国歴史家は、『日本書紀』の誇大妄想的な記事とし、一方、日本の歴史学者は任那日本府説の延長上と考えているようです。しかし私は、もともと日本に渡った熊津百済系の勢力がその地を支配していたことを示すものと考えます。倭王雄略は、渡日した沸流百済系の王であったという考えです。
それと、もう一つの重要な事実は『三国史記』の百済とは別に、中国史書に伯済と記録されているものです。伯と百とは同じ音なのですが、意味には違いがあり、伯は年上の親族つまり“兄”です。それは、兄の国伯済と弟の国百済という2つの国があったことを表しているのではないでしょうか。
『宋書』『梁書』など、中国史書に記録される大陸の遼西にあった百済は、海上活動を主力にした熊津の沸流百済としか考えようがないのです。さらに彼らは、遼西だけではなく、日本列島にも分国を持って活動していたのでした。

※南北の百済について、いろんな呼び名が出てくるので対応表を付けます。
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広開土王碑に出てくる倭とは百済の分国の狗奴であるとしています。

●広開土王碑の「倭」とは?
広開土大王碑の碑文内容の内、百済・倭と関連した重要な部分を整理すると次の通りです。
①本来、百済と新羅は高句麗に服する国である。391年に倭がやってきた。大王は海を渡り百残・利残・新羅を大きく撃破し、服属させた。
②396年、大王は水軍を率いて先に利残を撃滅させ、北上し漢城百済に進撃した。阿莘王が永遠に服従すること(水為奴客)を誓い、数多くの人質と1000疋の織物を献上した。
③399年、新羅は国境倭人が数多くいることを訴え、高句麗に救援を要請する。
④400年、大王は歩兵・騎兵5万で進撃し、新羅国境で倭軍を壊滅させ、伽耶、安羅まで追撃した。
⑤404年、倭軍が帯方まで侵入して来た。帯方は3~4世紀に帯方郡のあった地域で、高句麗の南端(黄海道)で百済との国境地帯である。高句麗は再び出撃した。倭は屍を多く残して海に逃げた。
今我々の関心は、碑文に記録されている“倭”とはどこから来た“倭”かということです。私は、利残と密接な連携関係にある狗奴勢力と見ています。利残すなわち熊津百済は、九州にある分国狗奴を呼び寄せ、広開土王と戦った。それが「391年に倭がやってきた」ことに通じるものと考えています。

○「狗奴」とは「くだら」
“狗奴”の漢字の意は犬の奴隷ですが、音読みではクノ“大きい国”を意味した言葉で、まともに書けば“大奈(クンナ)”です。狗はクンで大であり、奈(奈良)は国の意です。つまり狗奴は大国のことです。狗奴は、始めからクダラ(大国)であったのです。尊大な中国人がそれを認められず、“犬の奴隷”という漢字を当てて音を表したのでしょう。狗奴国でははじめからクンナラとするのが一般化していたと考えるべきです。
応神勢力(狗奴+利残)が前王朝(崇神)を引継ぎ、河内に王朝を建てて倭国になるわけですが、ヤマトを継ぐのでクンナラの名称を使えません。それを自分の出身である半島の百済(百残・漢城百済)に対して使います。もともと兄弟国である利残と百残の仲は円満であったのです。広開土王は利残・百残を一体とみなし、同時に攻撃しているのもそのためでした。活動の内容も前者が海外進出を目指し、後者は主として半島の勢力拡張を目指しているので、互いの協力がむしろ両者にとって有利でした。応神の倭が百済(百残)に対し百済の名を譲ったのは、百済・利残の時代には利残のほうが分国だったからでしょう。

高句麗広開土王に圧迫された百済の一つ南の利残(応神系)は、日本列島の覇権を狙って移動してきた。

●応神系のエクソドス「出半島」
広開土王は碑文によると
391年、大王は水軍を率いて利残を撃破して・・・、百残も攻撃した。百残の王は、広開土王の攻撃に耐えず、降参して、多くの贈り物や人質を捧げた・・・。
となっています。前に述べた通り、高句麗軍は深く南下し、先に水軍で久麻那利(熊津)付近まで錦江をさかのぼり、奇襲で利残を討ち、返す刀でソウル付近にあった百残を討ったものとみられます。
このときの利残(熊津百済)の王は、広開土王に熊津を領土化する野心がないことを知っていながらも、あえて熊津を捨てました。いったん伽耶の地に入り、新羅の国境地域を占領しつつ、広開土王の度重なる南下もあって九州に渡ります。九州には、利残の分国・狗奴国があり、すでに崇神系王朝最後の王仲哀を戦死させるほどの実力をもっていたのです。利残勢力の王は、半島の狭い熊津よりも、列島の覇権を狙っていたのです。
畿内には、仲哀の戦死で強力な勢力がいません。利残とその分国(狗奴)が合流し畿内へ進出、応神王朝(第2ヤマト王朝)が樹立されたのは、自然な成り行きともいえます。
日本列島に応神政権が樹立されるや、弓月君が120県の百姓を、阿知使臣がその息子と17県の百姓を率いて、列島に渡ります。私は、この大移動を応神エクソドス(exodus・出半島)と呼びます。

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以上を簡潔にまとめると
①百済建国後、2つの百済が存在していたこと。2つの百済は、南北に分かれており、北側は、北に領土の拡張を目指していたこと。南の百済は、南の伽耶方面への拡張と海上交易をめざし、一部は日本列島にまで進出していた(九州の狗奴国)。この2つの百済は、当初はかなり強かった。(371年高句麗に攻め込み、王を殺害した記録もある。
②しかし、4世紀末に高句麗の広開土王という、強力な王が出現し、南下し2つの百済を攻めた。北百済が侵略されたのを見て、日本列島に分国を持つ南百済は列島への脱出を決意。
③そうして、南の百済(応神勢力)が、国ごと日本にやってきた。
日本にきた応神勢力は、九州の拠点宇佐から東征し、大和ののど元である河内に拠点を構えた。そこから畿内を制圧した。その過程で威圧のために、作った物が巨大な前方後円墳だった。

※朝鮮半島での戦い慣れた応神勢力が、大和に先着していた伽耶系を服属させた。大規模な戦闘の跡は見当たらないが、日本書記に神功皇后が先妃の2人の王子を打倒したとあるので、伽耶勢力はかなりの抵抗をしたようである。南百済からやってきた応神勢力がすぐに大和に入らず河内に拠点を置いたのも、大和の伽耶勢力が抵抗したからだと考えられる。巨大古墳を建造して大和の伽耶勢力を威圧し、伽耶系の先王を絶やしたあとに、伽耶勢力を服属させたと考えられる。
※第一期大和王朝は、伽耶地域の倭人勢力の王朝だった。元々は中国の呉越地域の倭人(大きくは縄文人と同じ南方系)による王朝だった。
第二期大和朝廷は百済からの王族(元々は扶余、ツングース系)で、ここで初めて日本に騎馬民族王朝が登場することになる。(但し、伽耶地域の倭人勢力の支配層に騎馬系が入っていた可能性は十分にある)
★以上のように第二期大和王朝も、朝鮮半島からの負け組(撤退組)だったようです。それが第一期大和朝廷(伽耶≒呉越)を服属させつつ成立した。(日本書記はその過程を、敗北・撤退と見えないよう、勝利と征服過程を強調して粉飾しているように見えます。)
次回も追求を続けます、お楽しみに~。

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