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市場時代の取引(交換)関係から、共認時代の期待応合関係へ

Posted By staff On 2012年10月24日 @ 11:50 PM In 12.現代意識潮流 | 390 Comments

「本能回帰・共認回帰⇒脱市場・脱洗脳の先に登場した意識潮流【自給期待】」 [1]では、次のことを提起した。

潜在思念の本能回帰・共認回帰の先に⇒脱市場・脱洗脳の意識潮流が生起し⇒そのさらに先端に登場した意識潮流が自給期待である。
自給期待の中身は、自分で生きていける能力⇒自分でモノを考えられる能力を身につけたいという期待である。そして、その能力の中身は認識力と充足力、すなわち共認形成力(類的能力)に他ならない。
この共認形成力(類的能力)の育成需要が各企業に対する中心的な期待となる。すなわち、相手(顧客)にどれだけ充足と認識を与えることができるかが、企業間競争の勝敗も決することになる。
当然、各企業においても類的能力を育成できるか否かが企業の勝敗(生き残り)を決するようになる、従って、それは業態革命を促し各企業に類的能力の形成を促してゆく。
この業態革命で求められる共認形成力は、必然的に生産体革命(共同体革命)を実現してゆく。
今や私権社会は終焉し、共認社会へと転換過程にある。共認形成力(類的能力)が全てを決する時代に転換したことを意味する。

このことは同時に、
人間関係の世界が、市場時代の取引関係(交換関係)から共認時代の期待応合関係に転換してゆくことをも意味する。
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例えば、『内田樹の研究室』「市場からの撤収」 [2]である。

今では人間に代わってコンピュータが一秒間に数千回というようなスピードで取引をしているのである。
グローバル経済はもう人間主体のものでもないし、人間的成熟を促すためのものでもない。
私たちはそのことにようやく気づき始めた。
「こんなのは経済活動ではない」ということに気づき始めた。
「こんなこと」はもう止めて、「本来の経済活動」に戻りたい。そう思い始めている。
私にはその徴候がはっきりと感じられる。
そのような人たちは今静かに「市場からの撤収」を開始している。

さまざまな財貨やサービスをすべて商品としてモジュール化し、それを労働で得た貨幣で購入するというゲームの非合理性と「費用対効果の悪さ」にうんざりしてきたのである。
目の前に生きた労働主体が存在するなら、彼の労働をわざわざ商品化して、それを市場で買うことはない。
「ねえ、これやってくれる。僕が君の代わりにこれやるから」で話が済むなら、その方がはるかに合理的である。
経済学的にはこれは「欲望の二重の一致」といって「ありえないこと」とされている。
だからこそ貨幣が生まれたとのだ、と説明される。
だが、ある程度のサイズの「顔の見える共同体」に帰属していると、実際にはかなりの頻度で「欲望の二重の一致」が生じることがある。これはやればわかる。
というか、欲望というのは自存するものではなく、「それを満たすものが目の前に出現したとき」に発動するものなのである。
だから、共同体に「いろいろな財貨やサービスや情報や技能」をたっぷり持っていて、「誰か『これ』要らないかなあ」と思っている人が出入りしていると、「あ、オレが欲しかったのは、『これ』なんだ」というかたちで欲望が発動すると「欲望の二重の一致」はたちまち成就してしまう。

この「欲望の二重の一致」とは、この周りの期待に応える充足を最大の活力源とする、人類の期待応合関係(共認関係)に他ならない。
万人が私権の獲得を目指して争う私権時代には、個人個人の欲望は常に対立することになる。だからこそ経済学では「欲望の二重の一致」は有り得ないこととされていた。
ところが、私権社会が終焉し、周りの期待に応えて充足を得るという人類本来の活力源が再生されると、「欲望の二重の一致」すなわち期待応合関係が当たり前のものとなる。
このように至る所で、期待応合関係が生起しており、その方が市場取引よりもはるかに上手く行くことに、人々は潜在思念では気づきつつある。
この期待応合関係こそ、内田氏が言う「本来の経済活動」の中身であろう。
内田氏の「欲望というのは自存するものではなく、「それを満たすものが目の前に出現したとき」に発動するもの」という論点も重要である。
期待応合関係においては、需要発(まず需要があって供給者が登場する)ではなく、供給発(供給者が登場することによって需要が生起する)という新しい構造が登場する。
そこでは、供給者が登場することによって、潜在していた自給期待が顕在化し、業態革命と生産体革命を促してゆくだろう。

『るいネット』「需要発から供給発へ」 [3]から引用する。

需要発から供給発へ認識を転換すれば市場再生のいろんなアイデアが湧いてくる。
もはや求めてもいない物的需要をむりやり刺激したところで、活力は衰弱していくばかりである。この現状を突破する「活力再生の切り口」が課題である。
そしてその切り口とは、「市場経済の分析軸として固定観念化してしまった需要はどこにあるのかという需要発の発想こそ、可能性探索を妨げる旧観念であり、供給発の発想に切り替えさえすれば答え=可能性は無限に開かれる」という「需要発から供給発へ」の発想の転換である。
需要という視点でいくら分析を重ねても、市場の突破口は見えてこない。なぜならば、類的需要は極めて普遍的に潜在している欠乏であるけれども、同時にそれは答えの供給なくして決して顕在化することはないからである。
「答え」つまり認識生産(あるいは類的供給)がなければ答え欠乏も活力再生需要も顕在化しない。逆に「答え」が与えられれば、つまり潜在需要に合致した認識生産(あるいは類的供給)がもたらされれば、人々は一気に答え欠乏を顕在化させ「なんで?なんで?」と答え欠乏を募らせていくし、活力再生の突破口を得ることで、自ら供給者になろうとしていく。
こうした答えられるようになる=供給者になることが現在の「最も大きな活力源」という構造は、普遍的に存在する。
今若者が仕事選びにおける選択基準は「給料や余暇をいくらもらえるか=需要主体になれるか」でなく「仕事のやりがい=供給主体としての充足」にあるし、そうした欠乏はこれまでは単なる消費主体としてしか見なされてこなかった、高齢者や障害者の欠乏としても見て取れる。
人間は答えさえあれば誰だって「類的生産の供給者になりたい」と思うし、「なれる」のだ。何故なら共認充足の欠乏は誰にも備わっているし、潜在的需要としては無限にあるのだから、需要の心配は全く無用であって、欠落しているのは答えと供給体制の整備だけなのだ。
そして「これまでの市場経済の需要発の発想」を超えて「類的供給体制の整備=供給者の育成」という視点で、支援金を共認形成活動に払っていけば、供給者はどんどん誕生していき、日本は世界経済のまさに最先端を切って、新たな類的生産の時代を開いていける。

この供給発(答えの供給者の登場)による自給期待の顕在化こそ、「供給者が新しい業態をつくり上げ、供給する体制をつくりさえすれば、直ちに実現していく」 [4]所以であろう。 
そして、そのことは、日本が世界の先陣を切って、新たな類的生産の時代を開いてゆく可能性を開くのである。


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[1] 「本能回帰・共認回帰⇒脱市場・脱洗脳の先に登場した意識潮流【自給期待】」: http://web.trend-review.net/blog/2012/10/002399.html

[2] 『内田樹の研究室』「市場からの撤収」: http://blog.tatsuru.com/2012/08/11_1040.php

[3] 『るいネット』「需要発から供給発へ」: http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=79426

[4] 「供給者が新しい業態をつくり上げ、供給する体制をつくりさえすれば、直ちに実現していく」: http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=267746

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