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天皇制国家の源流5~北方の扶余族(高句麗・百済)に追われて逃げた倭人勢力(=加耶)が第一期大和朝廷~

Posted By MASAMUNE On 2012年10月23日 @ 10:36 PM In 04.日本の政治構造 | 253 Comments

天皇制国家の源流4~加耶勢力(天孫族第一派)が、出雲・近畿に先着していた新羅勢力(オオクニヌシ・ニギハヤヒ)を服属させた~ [1]では、
 
【1】最初に日本に入ったのは、九州北部に侵入した朝鮮半島南部の加耶(倭)勢力である。
【2】それに続いてor同時期に、朝鮮半島東部から新羅勢力が出雲・北陸に渡り、続いて畿内に侵入。
 
【3】新羅勢力(国つ神)が支配していた出雲・畿内を北九州の加耶勢力(高天原の天つ神)が征服し、服属させた。これが出雲の国譲りと神武東征であり、天孫族(天皇家)第一波である。
 
【4】その後、朝鮮半島西部から百済勢力が九州北西部~畿内へと侵入する。
 
という論点を明らかにしました。
今回もこれに引き続き、天皇家の源流について明らかにしていきます。
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『「日本=百済」説~原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第二章 九州・畿内のカラ語の遺跡」 [2]より引用させて頂きます。
 
 
第三章 加耶とヤマトの王朝の関係

  新羅と加耶と、そして倭

 加耶と新羅は隣接し、加耶と倭は海を挟んで接しているとされてきました。新羅中心に書かれた『三国史記』は建国以来、常に倭の侵寇に悩まされていたように書かれています。紀元前一世紀に一回、紀元後一世紀に二回、二世紀に二回、三世紀に一〇回、四世紀に三回、五世紀に一七回。これらの中で実際、九州あるいは対馬からのものは五世紀にあった数回のみで、そのほとんどが加耶からの侵入であったとみられます。それは、陸地を通じて撤退し、また一〇〇〇人にも及ぶ倭人が飢餓のため食を乞いに来たなどといった記事があり、とうていはるばる海を渡って来たとは考えられないからです。
 
 古代以来、国境を接する二国に戦いがなかったためしがありません。『三国史記』には新羅が西暦七七年「加耶兵と黄山津口(洛東江)で戦うの記事以来、数度にわたって加耶と戦っています。時には和を結ぶこともあり、二〇九年には「浦上八国が連合して加耶を襲撃、救援の要請を受けた新羅軍は八国の軍と戦い、八国の将軍を殺し捕虜となっていた加那兵六千人を返した」といった記事もあります。
浦上八国とは、その位置ははっきりと特定されていませんが、金海(金官加耶)の西側の払沿海地域にあったことは確かで、現在の統営を中心に蟾津江河口に至る一帯の地域と考えられます。逆にいえば、加耶は西側に接する地域すら完全にコントロールできず、むしろコントロールする意志さえ持っていなかったようです。金海一帯から出土した立派な鉄製武器と馬具から考えられる加耶軍団は何をしていたのでしょうか。その主力は列島に渡り、「天孫降臨」していたとしか考えられません。 
当時、九州北部から加耶にかけて韓倭連合体のようなものがあり、韓人、倭人とも区別すらできない人々が雑居していたものと思われます。
『魏志』には弁辰(加耶の前身)に関し「国は鉄を産す、韓・濊・倭みなほしいままにこれを取る」とあり、きにかかるのがとくに、「みなほしいままにこれを取る」の記述です。また、「弁辰は辰韓と雑居する」とも書いています。これから推察すると、金官加耶は緩い統制の自由港的な性格を持っていたと思われます。

 
いずれにせよ旺盛な国際交流があったのは確かで、加耶は古代の国際国家であったのです。

 春秋・戦国時代の華南での闘争、すなわち呉(南アジア人)と楚(北アジア人)、呉と越(南アジア人)、越と楚、それに小国家も巻き込んだ戦乱は一挙に大流民を生んみました。それは、呉が滅亡した紀元前五世紀の前半から加速したと思われます。彼らは半島西岸や南岸にたどり着き、そこで「韓」と呼ばれるまとまりを成しました。
  
 同四世紀後半、長江河口域での最後の「南アジア人」の国・越が楚に滅ぼされます。おそらくこれを契機に、再び半島に流民が押し寄せます。これが「倭人」です。倭人は弁韓南部と対馬と九州北端を強奪します。黥面文身(入れ墨)した最も海人的要素を残した民として、黄海、山東半島、日韓海峡、それに東シナ海を故地・長江河口まで自由に行き来したことでしょう。つまり、遅れてきた韓人こそが倭人に他なりません。
 
 「韓」人や「倭」人とは何か?
華南の「越」人です。これは国名ではなく、逃れてきた時代の違うのです。
(※ちなみに「越」人とは主に長江河口域に住み、稲作と漁撈を生業とし、高床式の住居文化をもつ諸族です。)
 
 『日本=百済説』の著者である金容雲氏は韓人と倭人の違いを国として捉えていますが、時代が違うと考えれば九州北部から南朝鮮(本文中:加耶)にかけて韓倭連合体が自然と形成されていたたことも説明がつきます。

 列島へ渡った加耶族

白村江の敗戦は、漢字表記に大きな変化をもたらしました。韓好みであった日本の風潮は大きく変わり、唐を「カラ」と読むようになったのです。九州に半島との出入り口でもあった唐津という都市がありますが、これは韓津であったのが唐津に変じたものでしょう。
とにもかくにも半島と列島になじみが深く、かつ今に至るまで痕跡を残している加耶の地とは、豊富な水と温暖な気候に恵まれ、稲作の適地でした。そのうえ加耶は鉄の生産地でもありました。加耶から建国神話を携えて列島に移住した集団はおもに九州北部に国を立てるのですが、その代表が邪馬台国であったのです。
一方、加耶人に続いた百済(馬韓)系は、九州の加耶勢力圏の西南側に居住地をつくり、百済のために代理戦争までしていたのです。

  拘奴と邪馬台の戦争

『魏志』「倭人伝」で邪馬台国と対立する狗奴(くな)国が形成されたのは紀元前一世紀ごろで、百済の分国の性格を持ちます。狗奴は邪馬台と違って漢や魏に朝貢していないのですが、それは百済と魏が敵対的であり狗奴が百済の分国だったからです。
 邪馬台国の卑弥呼とその宗女(しゅうじょ・宗数的養女)台与が中国北朝の魏に三回も朝貢したのは、中国南朝と脈を通じる百済・狗奴を牽制するためでした。必然的にこれら狗放と邪馬台は戦いを繰り広げていきます。魏は直接軍隊を派遣はしなかったものの、黄幢(軍旗)を送り邪馬台国を後押しします。
 ところがその後、卑弥呼の朝貢が記録に表れていないことなどからして、結局、邪馬台国は狗奴国により滅亡したものとみえます。
 しかし、加耶系である邪馬台国の敗残勢力の一部が畿内(奈良)へ進出(節一次東征)し、先着していた新羅勢力を打倒して、もう一つのヤマト(崇神王朝)を樹立したのです。農耕民族の移動は、主として戦争または政治的圧力などによってなされます。邪馬台から大和への移動も例外ではありません。
 畿内の加耶系勢力ヤマトは急成長し、勢力を蓄えると、その首長仲哀すなわち、第一期ヤマト王朝の最後の王が、九州遠征を試みます。
それは九州に残存する加耶系勢力を助ける名目ですが、半島との鉄貿易ルートの確保が主目的です。これがヤマトタケルによる、『記紀』「景行紀」にたびたび登場する畿内勢力による熊襲征伐の実体です。熊襲は狗奴のことです。
 もちろん、狗奴の本国である百済もそれを座視しません。そのことが結局、応神勢力の渡来をもたらすのですが、それについては後ほど説明します。

 初期のヤマト王朝の主体

 私は畿内での王朝の変革はすべて半島の政治情勢と探く関わるとし、第一期のヤマト王朝を次のように考えています。
 ①初代神武天皇と一〇代目の崇神天皇の倭名「ハツクニシラススメラミコト」は、〝最初に国を治めた王という意で同一人物。
 ②神武と崇神二人の記録を合わせても矛盾なく一人の人物の内容になる。したがって、『記紀』に記録されている初代神武と一〇代崇神の記事は、一人のことを二つに分けて記録した。
 ③二代から九代までの天皇は、適当に名前を並べただけで、それらの業績に関する記録はないため架空である。
 加耶系がヤマトの第一期王朝を樹立したであろうというのは、神話の共通性だけではありません。はっきりした考古資料があるのです。
 以前より加耶諸国から出土した遺物が日本の古墳で発掘されたものと同じであり、金銅冠・鉄製武器・甲冑・装飾品などが同系統のものであることは知られていましたが、とくに一九八〇年代、金海市大成洞古墳から出土した銅製の大釜(銅?)や騎馬武士の帯鉤、それまで日本にしか出土しないといわれてきた太陽を象徴するとみられる巴型銅器などがありました。素人の目にも明らかに騎馬民族系のものです。中には吉野ケ里で出土した銅剣・ガラスの管玉などと瓜二つのものも少なくありません。それに加えて金海市で発掘された多くの墓は騎馬民族とともに南下したとみられる木槨墓であることが確認されています。
 列島と加耶の王者が共通の器具と思想を持っていたのは明らかです。
一九九二~九三年に日本の主要都市で開かれた「伽耶文化展」は、「日本特殊論あるいは自生論」を固守する人々に大きなショックを与えました。「百聞は一見に如かず」とはまったくよく言ったものです。製作年代も日本出土のものが半島より遅いのは考古学的に証明されています。まさか列島から半島に入ったとはいえないはずです。

加耶勢力が畿内に入り、もともといた新羅勢力を追い払い、大和朝廷をたて、崇神王朝を立てました。これが日本の天皇の第1波になります。
 
しかし、金氏の説である、九州での戦いで加耶勢力が畿内に逃げたという話は疑問に残ります。
この時代、主に争いが起きていたところは朝鮮半島でした。南朝鮮にいた加耶勢力は、北方にいたフヨ族である高句麗や百済に追われて北九州に逃れ、畿内に進出したと考えた方が自然です。
この畿内進出が、神武東征となり、加耶勢力が天孫族(天皇家)の第一波となりました。
※『日本=百済説』の著者である金容雲氏は、神武天皇=崇神天皇が同一人物である説をとっていますが、これは妥当だと考えます。
※この過程で、新羅勢力の中には服属せずor追われて、東国(中部・関東地方)に逃げ延びた勢力が相当いるはずです。

 天皇家と加耶国の建国神話は大同小異

日本の建国神話と加耶の金首露王神話のほとんどが一致しているという、この特徴を調べることで、王権の移動を考えてみたいと思います。
 一致しないというか、大きく異なる点を一つ先に挙げておくと、日本では天孫とそれにつながる神武は絶対で、それと一緒についていくものははじめから主従の関係です。天皇は唯一の存在として次々と同格であった豪族たちを臣属させることになります。
一方金首露は、卵生神話にみられるように六個の卵の一つとして降臨し、その中でもっとも優れた者として即位します。これは、大王の下に豪族があったという扶余族神話の構造ですが、それぞれが同格の加耶連合の六カ国の干(王)になり、始終一貫して加耶は連合体として存続します。
①亀旨はクジと読み「奇し・神妙」の意で、久士(布流)と同じ。
②両天孫は共通して峰に降りる。
③卵と布団はともに本体を隠す。
④卵・箱・布団などにより見えなかった実体が新たに現れるのを卵生神話といい、南方系に多く、卵から産まれた者が新しい世を開いていくことを意味する。
天皇神話は、第一期の崇神(加耶)系の神話を基に半島の王家扶余・高句麗・百済などのものをつぎ足したようにみえますが、大筋は金首露王神話ともいえます。とくに日本の植民地時代、朝鮮総督府は金首露王神話を持つ金海金氏の族譜を禁書に指定していたくらいです。

  日韓神話の比較で探る「記紀」の意図

『記紀』 の神話は後で詳しく説明しますが、藤原不比等の采配でつくられ、加耶系(金首露)を主としながらも、扶余、百済神話の一部をところどころに挿入したもので、いみじくも加耶系の崇神王朝を百済系の応神、継体が乗っ取った史実を反映しているのです。
 天皇神話について『古事記』『日本書紀』の内容は完全には一致していませんが、大筋は次のようになっています。
①高天原→②天孫降臨→③久士布流(添の山)→④ニニギノミコトの妃(木花咲耶)→⑤海幸・山幸→⑥神武東征→⑦五伴緒→⑧亀に乗った土着民→⑨熊野上陸
 天孫降臨から神武東征まで各段階での話はすべて半島諸国の建国神話を反映しています。それら韓国の建国神話を統合したものが檀君神話です。天皇家が加耶、百済王家によって王朝交替されていながらも万世一系を掲げていくので、前王朝の神話を受け継がざるをえないためです。新王朝の天皇は、入り婿となり祖神と神話を受け継いでいるのです。
 とくに加耶神話が日本のそれとよく似ているのは、後述しますが『記紀』の編者の藤原不比等が加耶系であって、その神話を知っていたためかもしれません。これは、もともと一つの扶余系の神話から派生したもので、それぞれの国により降臨の場所が異なり、時代が下るたびに少しずつ変わっていったことを示しています。天皇系の神話の場合には檀君と金首露王神話のコピーであることを示唆しています。万世一系によって継承される天皇を標榜し、加耶も百済も同じ北方系の王家出身のため、いくら王朝が変わっても扶余系の神話の大筋はそのまま引き継がれていったのです。
 韓国史に登場する古代国家の神話のほとんどが個別の建国神話を持っているのです。それを国名のない民族神話としてまとめたのが、モンゴル来襲で民族としての一体感が形成されたときの檀君神話でした。しかし、日本のようにほかの神話を抹殺しませんでしたので、いくつもの神話が同居しています。
 藤原不比等の時代には檀君神話がなかったと思われますが、彼の手許には加耶神訴をはじめとする半島諸国の建国神話や豪族たちの家門神話がありました。彼は、それをもとにして国土創造神を天孫降臨と天皇家の家門神話に結びつけ、見事に一系にし、ほかのものを焼いてしまいました。 その結果、韓国神話のつまみ食いが行なわれ、天皇神話は半島諸国の神話を少しずつ反映している結果となっているのです。それが日本古代史の一部であるとも考えられるのは、半島・列島の民族移動と国家形成の仕方が酷似しているためでもあるのです。
 いずれにせよ、両国の神話の構造がこれほどまでに一致することから、列島と半島の王家の出自は同じであろうと考えざるをえません。

朝鮮の歴史書(特に加耶神話)と『古事記』『日本書紀』の内容は驚くほど一致します。
これは第一期天皇家が朝鮮から入ってきたからに他ありません。しかも、これを隠すためか藤原不比等は古事記以前の著書を全て焼いてしまいました。
これは歴史的大罪としか言いようがありません。
しかし、事実を知る方法が全くなくなったわけではありません。事象を構造的に捉え組み立てれば事実を組み立てていけると思います。
  
<まとめ>
○「韓」人と「倭」人は同じ「越」人
韓人と倭人は国が違う民だと考えがちですが、この認識は違うようです。
呉が追われてやってきたのが韓人、それから100年後、越が追われてやってきたのが倭人と、やってきた年代により、呼び名を分けていたようです。
 
○天皇家の第一派は加耶の民
南朝鮮から北九州にいた韓倭連合体(加耶勢力)は、北方系の扶余族に追われ、畿内に入り、もともといた新羅勢力を追い払い、大和朝廷=崇神(神武)王朝を立てました。これが日本の天皇の第1波になります。
これは「古事記」と「日本書紀」が朝鮮の歴史書(特に加耶神話)と似ていることからも確かなことでしょう。

 
今回の仮説を元に、次週も天皇家の源流を探って行きます。


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