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「市場はもうウンザリ」⇒市場からの脱却が始まった

Posted By staff On 2012年10月10日 @ 9:17 PM In 12.現代意識潮流 | 197 Comments

「私たちは騙され続けてきた。しかし今や、洗脳からの脱却が始まっている」 [1]で述べた論点は、次の通りです。
【1】近世以降、金貸しは国家を支配するため大衆の共認支配に力を注いできた。
【2】その結果、大衆は洗脳され続け、金貸しに都合の良い近代社会が作られてきた。
【3】ところが、’70年豊かさの実現以降自我・私権が衰弱し続け、代わって本能回帰・共認回帰の意識潮流が生起した。この本能回帰・共認回帰の潮流は、自我・私権に基づく騙し観念と対立するので、洗脳からの脱却を促してゆく。
【4】’00年以降加速した金貸しと特権階級の暴走を見てきた大衆の間で、’11年原発災害を契機として、ついに、脱洗脳という意識潮流が顕在化した。

本能回帰・共認回帰の潮流が生み出したのは脱洗脳だけではない。
それは市場からの脱却(脱市場)という意識潮流をも生み出している。

いつも応援ありがとうございます。


例えば、『内田樹の研究室』「市場からの撤収」 [2]という記事である。

消費増税法案が成立した。
日経は一昨日の一面で、これで日本の信認が守られ、政治家たちが「消費増税の先送りという最悪の事態を避ける理性だけは残っていた」ことに満腔の安堵を示している。
税金を上げないと「日本の財政再建への疑惑」が国債格付けを下げ、金利が上昇し、国債が投げ売りされ、国家財政が破綻するからである(らしい)。
この辺の「風が吹けば桶屋が儲かる」的なドミノ倒し的破綻シナリオがどれほどの信憑性があるのか、私にはよくわからない。
国債を格付けやら金利の乱高下を材料にして国債を売り買いする機関投資家というのは、平たく言えば「ばくち打ち」の皆さんである。
世界の人々が自尊心をもって文化的で愉快な生活を営めるかどうかということは彼らの投資行動とはかかわりがない。
手前の懐が温かくなるなら、どれほどの人が寒い思いをしようと路傍で飢えようと、「それは自己責任でしょ」と言い放つ方々が金融市場というものを支配している。
消費増税ができなければ、日本国債を暴落させて、それで大いにお金もうけをしようと虎視眈々としている方々の思惑を配慮しないと、国家財政が立ちゆかないような金融システムの中にすでにわれわれは組み込まれているのである。

それが冷厳なリアリティなのだからそれに順応するほかないというのが当世の「リアリスト」たちの言い分のようである。
なるほど。
おっしゃる通りなのかも知れない。
私たち生活者にはそういうややこしいマネーゲームのことはわからない。
わかるのは消費税がいずれ10%に上がるということだけである。

貧しい人ほど税負担が重くなるいわゆる「逆進性」についての制度的な手当ては具体的にならない。
その一方で、生き延びるためには「選択と集中」が不可避であると主張する経営者の方々は、こんな高コストでは国際競争に勝てないということで、法人税の引き下げ、人件費の引き下げ、電気料金を含む製造コストの引き下げを繰り返し要求している。
「それが達成されなければ、日本を出て行く他ない。生産拠点が海外に移転すれば、雇用は失われ、地域経済は壊滅し、国庫の歳入は激減するが、それはすべて『あんたたち』のせいだよ」と経営者たちは毎日のようにメディアを通じて宣告している。
そして、メディアはだいたいどこもこの言い分に理ありとしている。
自社の経営がうまくゆかない要因をもっぱら外部の無理解と非協力に求める経営者がわが国ではいつのまにかデフォルトになったようである。
そのデフォルトに基づいて、グローバル企業が国内にとどまってくださるように、法人税を下げ、賃金を下げ、公害規制を緩和し、原発を稼働させ、インフラを整備すべしというのが当今の「リアリスト」たちの言い分である。
そうしないと、「たいへんなことになる」らしい。

だが、「消費税を上げる」と「賃金を下げる」という二つのことを同時的に行うと何が起こるか。
想像することは難しくないと思うのだが、税金を上げて、賃金を下げることで何が起こるかについて、私が徴した限り、人々はあまり想像力を駆使している様子がない。
「ベーシックインカム」とか「軽減税率」とかいうことをぼそぼそ言っているだけである。
メディアや財界のかたがたがそれについて想像力の行使を惜しむようなので、私が彼らがに代わって想像してみる。
消費税が上がって、賃金が下がると何が起きるか。
もちろん国民の消費行動はクールダウンする。内需が縮小する。国内市場相手の「小商い」はばたばたと潰れてゆく。「貧困ビジネス」とグローバル企業だけが生き残る。
「それでいいじゃないか」とたぶん政官財メディアのみなさんは思っておられるようである。
「選択と集中だよ。国際競争力のないやつらはマーケットから退場する、それがフェアネスだ」と豪語するであろう。
だが、私の想像はもう少し先の出来事に及んでいる。
「国際競争力のないやつら」が「マーケットから退場」したあと、「どこ」に行くのか、ということをあまり彼らは考えていない。
マーケットから退場した人々は「いくら安い賃金でもいいから使って下さい」と懇願する「安価な労働力」を形成すると考えているのであろう。だから、弱者の退場は人件費コストのカットに直結すると考えている。
でも、私はそれだけではすまされないと思う。
マーケットから退場させられるより先に、自主的にマーケットから撤収する人々が出てくる。
「国民たちの市場からの撤収」が起きるのではないかと私は予測している。
「もうマーケットはいいよ」というのが現に国民のおおかたの実感である。
額に汗して労働してわずかな貨幣を稼ぎ、その貨幣で税金の乗った高額の商品を買わされるという市場中心の生き方そのものの被収奪感にもう「うんざり」し始めている。
これは健全なリアクションだ。
というのは、「労働を貨幣に替える。その貨幣で商品を買う」という行為だけに経済活動が限定されているというのは、人類史的にはかなり最近の出来事だからである。

「円高」とか「国債格付け」とかいうことは、すでに実際の国富の多寡や生産物の質や市場の需要と無関係に語られている。
こういうファクターを決定しているのは「現実」ではなく「思惑」である。「未来予測」であり、同一の未来予測を共有するプレイヤーの頭数である。
「貨幣で貨幣を買うゲーム」は「ゲームの次の展開」だけが重要であり、「次はこういう展開になる」という「まだ起きていないことについての予測」が反転して「これから起きること」を決定する。
不思議なゲームである。
ここで流れる時間は、人間的時間の流れとはもう違うものである。
ある意味で時間は止っているのである。
だから、この「貨幣で貨幣を買うゲーム」のプレイヤーにはどのような人間的資質も、市民的成熟も求められない。
そこで必要なのは適切な「数式」と高速度の「計算」だけである。
だから、金融工学についての十分な知識をもっていれば「子ども」でも株や債券の売り買いについての適切なアルゴリズムを駆使して巨富を築くことができる。
現に、そうなっている。
今では人間に代わってコンピュータが一秒間に数千回というようなスピードで取引をしているのである。
グローバル経済にはもう人間主体のものでもないし、人間的成熟を促すためのものでもない。
私たちはそのことにようやく気づき始めた。
「こんなのは経済活動ではない」ということに気づき始めた。
「こんなこと」はもう止めて、「本来の経済活動」に戻りたい。そう思い始めている。
私にはその徴候がはっきりと感じられる。
そのような人たちは今静かに「市場からの撤収」を開始している。
さまざまな財貨やサービスをすべて商品としてモジュール化し、それを労働で得た貨幣で購入するというゲームの非合理性と「費用対効果の悪さ」にうんざりしてきたのである。

この市場からの脱却という意識潮流が登場したのは何故か?
そのために、まず、これまで人々が市場に収束してきた構造を明らかにする。

市場社会とは、人々を私権の強制圧力で追い立てた上で、私権拡大の可能性を囃し立て、あらゆる手段を駆使して人々の欲望を刺激し続ける社会であり、それによって私権闘争(利益競争)を加速させた社会である。
ところが、この過剰刺激による物的欠乏の肥大化は、誰もが私権の獲得に収束する絶対的な私権欠乏があってはじめて成立する。そしてその私権欠乏は、飢餓の圧力を下敷きとする絶対的な私権圧力の下ではじめて成立する。
つまり、過剰刺激による物的欠乏の肥大化は、飢餓の圧力に基づく絶対的な私権圧力が働かなければ、成立しない。
’70年頃、先進国ではほぼ豊かさが実現され、飢餓の圧力が消滅した。すると、たちまち私権圧力が衰弱してゆく。
そうなると、これまで、私権の強制圧力によって追い立てた上で利便性や快美性を囃し立て、過剰刺激によって水膨れさせてきた物的欠乏は、衰弱してゆかざるを得ない。
それは、市場の縮小を意味する。市場(と金貸し支配)の終焉の始まりである。
市場を支配してきた金貸し勢力は、存亡の危機に陥り、それ以来40年間、今日まで何の打開策も見出せないまま、危機感に駆られて暴走し続けてきた。
一方、社会の深層では、私権圧力と物的欠乏は衰弱し続けてゆく。
そして、私権圧力の衰弱は、市場活力を衰弱させると同時に、他方で、新たな活力を再生してゆく。それが、根源回帰による活力の再生であり、本能回帰・共認回帰の大潮流である。
本能回帰の潮流は、’70年代以降のヒッピーや環境運動を含む自然志向に始まり、’90年代の健康志向、’02年以降の節約志向(「もったいない」)と、’11年「食抑」意識と、どんどん広がってきた。
共認回帰の大潮流は、’70年代の仲間収束を皮切りに、’80年代には(私権追求に代わる)やりがい志向を顕在化させ、’90年代半ばには自我発の性欲を衰弱させて一気にセックスレスを蔓延させたが、’02年になると課題収束の潮流を顕現させて遂に遊び第一の価値観を終焉させた。
『るいネット』「市場の縮小と根源回帰の大潮流」 [3] 「共認回帰による活力の再生→共認収束の大潮流」 [4]
つまり、誰もが市場に収束していたのは、飢餓の圧力に基づく絶対的な私権圧力が働いていたからである。
市場収束の前提条件であった飢餓の圧力は’70年頃に消滅し、私権圧力は衰弱してゆく。それに代わって生起した本能回帰・共認回帰の潮流は、私権獲得のための市場収束と真っ向から対立し、市場からの脱却を促してゆくことになる。
本能回帰・共認回帰する意識から見れば(内田樹氏の言葉を借りれば)「市場はうんざりするもの」だからである。
例えば、’70年代のヒッピーは自給志向的・共同体志向的であり、’70年代豊かさが実現された時から、既に脱市場の潮流は登場していたのである。
とはいえ、脱市場の潮流は70~’00までは大きな潮流とはならなかったが、それが’11年の東日本大震災と原発災害以降、急速に顕在化したのは、ここに来て、市場が終焉するという状況認識が(潜在思念の次元で)大衆的に共認されたからであろう。
市場の縮小が始まって以降、金貸しと私権エリートは誤魔化しの経済成長を演出してきた。
’70年代は列島改造などの公共事業、’80年代は福祉などのバラマキによって市場をムリヤリ拡大させてきた。
ここまでは、大衆もほとんどは、私権も市場も拡大するものと思っており、市場が終焉するとは夢にも思わなかった。
ところが、’90年代(日本では’85年~)それも限界に達し、金融市場のバブル化によって市場を拡大させるしかなくなった。
日本では’90年にバブルが崩壊し、それ以降’90年代は、半数の人々は私権拡大の可能性は消えたと感じていたが、残る半数が最後の期待を繋いでいた世界バブルも’02年に崩壊する。
それを見て、私権拡大の終息が大多数の状況認識となって共認され、続いて、’08年リーマンショック、さらに’11年の東日本大震災と原発災害を契機に、ついに市場の終焉が潜在思念の次元ではほぼ共認された。
それによって、市場からの脱却(脱市場)という意識潮流が顕在化したのである。

もう一つ、金貸しと私権エリートの暴走も大衆の市場から脱却を促している。
’02年世界バブルが崩壊して以降は、追い詰められた金貸しが延命する手段は、国民から搾り取れるだけ搾り取って生き延びるという路線しか残っていない。
とりわけ、世界で最も生産力が高い(豊かな)日本の国民が収奪のターゲットになっている。
本能回帰・共認回帰する大衆にとっては、市場は何の意味(魅力)もなく、逆に収奪されるだけの世界である。
「市場はもうウンザリ、アホらしくてやってられない」⇒「もう市場から脱却してしまえ」という意識潮流が生じてきたのも当然だろう。

以上が脱市場の意識潮流が顕在化した理由である。
つまり、脱洗脳も脱市場も原因は同じである。
【1】大衆の本能回帰・共認回帰と、【2】金貸しと私権エリートの暴走である。
では、脱市場・脱洗脳の意識潮流はどこに向かうのか?

次回は、それを明らかにしてゆきたい。


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[1] 「私たちは騙され続けてきた。しかし今や、洗脳からの脱却が始まっている」: http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/10/002388.html

[2] 『内田樹の研究室』「市場からの撤収」: http://blog.tatsuru.com/2012/08/11_1040.php

[3] 「市場の縮小と根源回帰の大潮流」: http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=260775

[4] 「共認回帰による活力の再生→共認収束の大潮流」: http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=260805

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