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米国の圧力と戦後日本史3 アメリカは占領期であっても、閣僚を完全にコントロールできていた訳ではない

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(画像はコチラ [2]からお借りしました)
前回記事(「米国の圧力と戦後日本史2 日本の徹底破壊を狙った初期占領政策(自主独立を目指した重光葵 vs 対米隷属を進めた吉田茂) [3])では、戦前の政治家の中には、GHQによる完全支配下にあっても、腐ることなく、可能性を開く政治家(ex.重光葵)がいたことや、従米派の吉田茂が、戦後の保守本流の流れを生み出してきたことを見てきました。
 
今回もまず、アメリカによる占領下においても、アメリカに対して言うべきことを言っていた政治家の一人、石橋湛山にスポットを当てます。さらに、戦後初期の日本政治に大きな影響を与えた昭和天皇が果たした役割についてみていきます。
 
そして、前回と今回の記事で、占領期のアメリカの政治支配の実態を明らかにします。
 
※以下、文章引用元は全て「戦後史の正体」(孫崎享)


 
■米軍駐留費を減額を求めた石橋湛山 
 
GHQによる占領時代、日本政府は敗戦後の経済的にかなり困難な時期であったにも関わらず、国家予算の3割を米軍の経費にあてていました。
 
このような状況で、日本政府も真っ二つに分かれます。一方が、「文句を言っても始まらない」という吉田茂を中心とする【従米派】グループ、もう一方が「正論を伝えるべきである」という石橋湛山の【自主独立派】グループです。
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(画像はコチラ [4]からお借りしました)
 
○石橋湛山は、戦前にはジャーナリストとして軍部批判・帝国主義批判を繰り返し、戦後直後から政治家として活躍します。第一次吉田内閣では、これからみるように大蔵大臣に就任しますが、後に鳩山一郎の後を継いで総理大臣になっています(在任期間は65日という超短命政権でしたが)。
 
第一次吉田内閣において、GHQが米軍駐留費を増額したことに対して石橋湛山大蔵大臣が憤慨し、マッカーサーの側近に書簡を送ります。

「貴司令部においては22年度[1947年度]終戦処理費[米軍駐留費]を、さらに増額しようという議論がされていると伝え聞いている。インフレが危機的事態にたちいることは避けられない。そうした事態になれば私は大蔵大臣としての職務をまっとうすることはとうてい不可能である」

こうした石橋湛山の主張もあり、アメリカは終戦処理費[米軍駐留費]を2割削減しました。戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は国民から“心臓大臣”と呼ばれるもアメリカに嫌われ、1947年の衆院選挙で当選した直後に公職追放されてしまいます。
 
★終戦直後の占領下という状態であっても、主張すべきことを主張する日本の政治家はいたのです。この時の彼らの共通点は、『アメリカの立場に立って、中長期的なアメリカにとってのメリット・デメリット』を説いたということにあります。 
★そして、その主張が日米の状況を冷静に捉え、未来を見据えたものであれば、アメリカも受け入れることになります。そこには、民主主義という建前上受け入れざるを得ないという事情以上に、一旦は受け入れておいた方が、支配を有利に進められるという思惑もありました。
 
しかし、アメリカに強硬に楯突く政治家に対しては、アメリカは排除に向けて動き始めます。 

石橋大蔵大臣を追放したときの首相は吉田茂です。吉田は石橋に対して「山犬にかまれたとでも思ってくれ」といったそうです。
また、「石橋先生の女婿で外交官の千葉氏がある席でケーディス民政局次長にあったところ、ケーディスが、あの当時、石橋があるシンボルになろうとしたので、われわれとしても思い切った措置に出ざるをえなかったと述べた」という証言もあります。

GHQは、日本の立場を堂々と主張する人物が、国民的人気を集め、脱米自主路線のシンボルとなることを最も恐れたいました。そして、そのような人物の登場を察知すると、「思い切った措置」に出ることになります。
終戦直後の「自主独立外交路線」を目指した重光葵に対しても、同様の対処をしたのです。
 
この時の石橋湛山の言葉が印象的です。

「あとにつづいて出てくる大蔵大臣が、おれと同じような態度をとることだな。そうするとまた追放になるかもしれないが、まあ、それを2、3年つづければ、GHQ当局もいつかは反省するだろう」

 
確かに、第二、第三の石橋湛山が出てきていれば、アメリカの占領政策も大幅な変更を余儀なくされたでしょう。しかし、石橋の思いとは裏腹に、その後の日本政府は従米派が長く主導権を握り、対米追随一色に染まっていくことになります。
★アメリカの脅しが、想定以上に成功したと言えます。

■天皇制はなぜ残ったのか

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(画像はコチラ [5]からお借りしました)
アメリカは戦前から、日本の天皇にも戦争責任があると考えていました。しかし、占領をスムーズに進めるため、戦争終結以前から昭和天皇の罪は問わないという方針を決めていました。つまり、占領をスムーズに進めるという連合国の利益のために、天皇制は残されたのです。

こうした状況は、その後の天皇制に大きな歪みをもたらしました。本来、天皇は日本の「象徴」として、もっとも日本的であるべき存在です。しかし米国から見て「天皇が米国にとってだれよりも利用価値がある」ということでなければ、天皇制は廃止になってしまいます。したがってこのあと見ていきますが、昭和天皇はもっとも強固な日米同盟推進者になります。

日本国憲法は、今ではよく知られるようになりましたが、GHQによって書かれた草案を日本語に訳したもので、GHQは日本政府に対して受け入れを強固に主張します。日本政府がGHQ憲法草案を受け入れなければ、天皇が戦犯になるかもしれないし、吉田茂を初めとする現政府のメンバーも権力の座にい続けることはできないと猛烈に脅します

「あなた方がご存じかどうか分かりませんが、最高司令官は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています。(略)
しかしみなさん。最高司令官といえども、万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法が受け入れられるなら、実際問題としては天皇は安泰になると考えています。さらに最高司令官は、これを受け入れることによって日本が連合国の管理から自由になる日がずっと早くなるだろうと考え、また日本国民のために連合国が要求している基本的自由が、日本国民にあたえられることになると考えております」

この憲法草案を受け入れることが、あなた方が(権力の座に)生き残る期待をかけるただひとつの道である ということは、いくら強調しても強調しすぎることはありません」

このような強烈な脅しの結果、日本はGHQ(民生局GS)が作成した憲法草案を受け入れることになります。
つまり、戦後日本の憲法、日米同盟のありようなどは、昭和天皇や当時の政治権力者が己の地位と引き換えに決めたものなのです
 
※天皇については、コチラ↓も参照してください。
『企業の進むべき道』8~閨閥の歴史に迫る4 閨閥の頂点「天皇財閥」 [6]
天皇は、単なる象徴としてではなく、日本を代表する「財閥の頂点」に君臨し続けています。 
 
★憲法草案のやり取りや、重光葵や石橋湛山の追放などを見ても分かるように、占領初期のアメリカGHQは何度も日本政府に対して強烈に脅しています。この「脅し」は、(おそらく)アメリカの想像以上に効果があった ということなのでしょう。その後も、何度も「脅し」がかけられています。
  
★また、重光や石橋など、自主独立を目指した政治家が、占領下体制の中でも登場していたことは、注目に値します。つまりアメリカは、首相や閣僚を一人一人任命するような支配力を行使するのではなく、日本の民主主義体制の中で登場した政治家を基本的には容認してきたということです。その首相や政治家が「都合が悪ければ」強権を発動して、追放してきました。
 
(※これは、「民主主義体制」が、『支配する為に生み出され、広まっていった体制』であることを示す一例です。民主主義体制というのは、実態の支配を隠し、効率的に支配する体制としては、非常によくできた体制であったということができます。)
 
★★つまり、占領下といえども、アメリカの完全支配などというものは実現しておらず、むしろアメリカの顔色を伺う日本の政治家が(日本の政治家が作り出す圧力が)、「自主独立」を目指す政治家の芽を潰してきた ということになります。

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