- 日本を守るのに右も左もない - http://blog.nihon-syakai.net/blog -

米国の圧力と戦後日本史2 日本の徹底破壊を狙った初期占領政策(自主独立を目指した重光葵 vs 対米隷属を進めた吉田茂)

Posted By tnaito On 2012年9月15日 @ 4:39 PM In 未分類 | 12 Comments

さて、日本の戦後史を、アメリカとの関係(アメリカからの圧力)から読み解くシリーズの1回目は、降伏直後のアメリカGHQによる占領の初期にあたります。1945年の降伏から、1951年のサンフランシスコ講和条約締結まで、日本はGHQによる占領下におかれていました。しかし、6年半に及ぶ占領期間も、ずっと同じ方針だったわけではありません。米ソ冷戦が顕在化し始めると、アメリカの占領政策も大きく転換することになります。
 
今回は、戦後日本の方向性を決定付けた、1945年から1947年にかけての占領初期を見ていきます。普段、なかなか注目することのない占領初期ですが、対米自主派が多いことに気がつきます。
 
[1]
 
(画像はコチラ [2]
 
1945年9月2日、日本は降伏文書に署名しました。
降伏文書には
「日本のすべての官庁および軍は降伏を実施するため、連合国最高司令官の出す布告、命令、指示を守る」
「日本はポツダム宣言実施のため、連合国最高司令官に要求された全ての命令を出し、行動を取ることを約束する」

ということが書かれていました。
 
以後、6年半に及ぶ占領軍(GHQ)による完全支配が続きます。日本政府には、何の決定権もありませんでした。


 
※以下、文章に引用元は「戦後史の正体」(孫崎享)
 
 
■GHQによる完全支配下でも自主路線を目指した重光葵
  
しかし、降伏文書に署名した同日(1945年9月2日)、GHQから驚くべき命令(三布告)が出されます。 

布告第一:日本全域の住民は、連合国最高司令官の軍事管理のものにおく。行政、立法、司法のすべての機能は最高司令官の権力のもとに行使される。英語を公用語とする
 
布告第二:米側に対する違反は米国の軍事裁判で処罰する。
 
布告第三:米国軍票を法定通貨とする
 
お金は米軍が印刷した紙幣(軍票)、裁判権は米軍、公用語は英語ですから、ほとんど軍事植民地です。

 
完全にアメリカの植民地としようとする布告でした。このアメリカの要求に対して、当時の外務大臣・重光葵が動きます。 

この時点でマッカーサーは、天皇、首相、両院議長意外には会わないという方針を立てていたのですが、重光は日本の閣僚としては初めて、マッカーサーと会見することに成功します。
 
「9月3日午前8時ごろ、横浜税関に到着して、マッカーサーを待ち伏せすることになった。このときマッカーサー元帥は非常に機嫌がよくて、重光さんからの話をずっと聞き入って、ややしばらく考えたうえ、『日本側のいうことはよく分かった。この布告は自分の権限で全部とりやめることにする』とはっきりいってくれた」(霞ヶ関会『劇的外交』成甲書房)

 
重光は、どのような交渉を行ったのでしょうか 

重光はまず、今回計画された三布告は、日本と連合国が合意したポツダム宣言とは矛盾しているという原則論をのべています。そのうえで、もしも条文にない措置をとるなら、それは混乱を引き起こす可能性があるとして、三布告を撤回することが結局は米国の利益になると説いています。素晴らしい交渉能力です。

  
アメリカはこの時期、条項の駆け引きにのるつもりなど全くなく、日本に敗戦国であることを徹底的に植えつけようとしていました。そこをこじあけ、理を尽くして説得することに成功したのです。もちろん勝算があった訳ではありません。不退転の覚悟で挑んだ交渉でした。
  
戦前の政治家の中には、GHQによる完全支配下にあっても、腐ることなく、可能性を開く政治家がいたのです
 
 
■重光葵の自主路線 vs 吉田茂の従米路線 
 
このように、アメリカからの自主独立路線を模索した重光ですが、降伏文書証明9月2日のわずか2週間後、9月17日に外務大臣を辞任させられています。
 
1-2%E9%87%8D%E5%85%89.jpg [3]
 
1-3%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82.jpg [4]
(画像はコチラ [5]

「日本の国益を堂々と主張する」。米国にとってそういう外務大臣は不要だったのです。求められるのは、「連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう」外務大臣です。それが吉田茂でした。重光が辞任したあと、次の外務大臣は吉田茂になります。戦後の日本外交の歴史において、「自主路線」が「対米追随路線」にとって代わられる最初の例です。

吉田茂は占領期、占領後を通じて、外務大臣や総理大臣を歴任し、戦後日本の方向性を決めた人物です。その政治方針は、”保守本流”として自民党に受け継がれていきます。日本の”保守本流”とは、その誕生期から対米隷属のことを指していたのです
 
吉田茂には「マッカーサーと対等に話をすることができた」「日本の復興にならないことには、徹底的に反抗した」などのイメージが付きまとっており、脱米派の印象があります。しかし実際には、占領軍の無理難題を積極的に受け入れていました。逆に自分の意向に沿わない人物を、徹底的に追放(パージ)していきます。(「Y項パージ(吉田による追放)」と呼ばれました。)
 
吉田茂が、実際には対米隷属派であったにも関わらず、自主派に近い印象が作ったのは、高坂を初めとする日本の学者でした。占領後を通じて出版された「吉田茂論」のほとんどは、上記のようなイメージを抱くような書かれ方をしています。
 
以後、日本の政治における保守本流の原点は「吉田茂」となります。本来の保守=脱米の実現基盤をいくら探っても、その原点が(実際には対米隷属派であった)吉田茂なのですから、何か出てくる訳がありません。戦後日本の政治に対する見方は、大きく歪められてきたのです
 
 
■米国の占領政策の幹は何だったのか?
  
アメリカの対日占領政策の基本方針を理解するものとして、1945年9月22日に国務省が発表した「降伏後における米国の初期対日方針」が最も重要なものになります。
 
統治面では、日本のすべての権限が最高司令官に属することが明記されており、政治面では非軍事化、戦争犯罪人の処罰、民主化が決められています。
 
注目されるのは経済面です。 

「日本の軍事力を支えた経済的基礎〔工業施設など〕は破壊され、再建は許されない」
「計画にしたがって除去される日本の生産施設は、明細票にもとづき、用途転換するか、他国へ移転するか、またはクズ鉄にする」
つまり工業分野の徹底的な破壊です。

これは文面だけではなく、実際に実行され始めていました。1950年の朝鮮戦争、それに伴う占領政策の大転換がなければ、日本の工業生産力は徹底的に破壊され続け、浮上することはなかったでしょう。
 
 
占領初期、アメリカは日本を復興させるつもりなど毛頭無く、徹底的な破壊と隷属を求めていました。そして、そのアメリカの占領政策を後押しし、実現に導いたのは、日本人自身だったのです。
そんな中でも(占領下の厳しい状況であっても)自主独立を目指した日本人もいました。この精神は、細い糸ではありますが、その後に受け継がれていくことになります。
 
 
 


Article printed from 日本を守るのに右も左もない: http://blog.nihon-syakai.net/blog

URL to article: http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/09/2374.html

URLs in this post:

[1] Image: http://blog.nihon-syakai.net/blog/img2011/1-1%E3%83%9F%E3%82%BA%E3%83%BC%E3%83%AA.html

[2] コチラ: http://e-ooita.com/blog/2007/06/_2092.html

[3] Image: http://blog.nihon-syakai.net/blog/img2011/1-2%E9%87%8D%E5%85%89.jpg

[4] Image: http://blog.nihon-syakai.net/blog/img2011/1-3%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82.jpg

[5] コチラ: http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-1556.html

Copyright © 2014 日本を守るのに右も左もない. All rights reserved.