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あじさい(紫陽花)革命に可能性はあるのか?(5)~金貸しが大衆を利用するための民主主義:大衆には名前だけの民主主義~

こんにちは。もう9月だというのに相変わらず暑いですね。
前回の記事では、原発を無くして安全な社会を築きたいという大衆の願いが、いつのまにか要求主義にすり替わり、デモに参加する大衆を巻き込んで当初の想いを風化させていることを見てゆきました。
『あじさい革命』は、何も実現できないのでしょうか?




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引き続き、なんでや劇場で展開された議論の要約です。

【1】素朴な貧困からの脱出願望が私権欠乏にスリ変わる。
【2】救いの対象であった大衆が、単なる扇動の対象にスリ変わる。
これが、騙しの構造であると同時に、多くの若者が自滅していった構造でもあるが、更にもっと決定的な騙し=自滅の構造がある。

『もっと決定的な騙し』とありますね。
いったい、それは何なのでしょう??

【3】大衆は民主主義によって金貸しに利用されるだけ
そもそも、この民主主義というイデオロギーは、誰が何のために作り出したのか?
近代思想が登場した時代背景は次のとおり。
近世~近代にかけて、十字軍による略奪戦争を皮切りにして、市場が拡大してゆく。
それに伴って、力の原理の中身が武力から資本力に移行してゆく。
そして、第一権力となった資本力を武器にして、金貸し勢力が王侯・貴族から国家の支配権を奪うために作り出したのが、近代思想とりわけ民主主義である。その後、金貸し勢力はこの資本力と民主主義を武器にして、国家を動かし、自分たちに都合のいい制度・法律を作ってきた。
その中身は大きく2つある。一つは中央銀行制度による経済支配であり、もう一つが民主主義によって大衆を巻き込み、そのために大学・マスコミを支配して大衆を共認支配することである。
そして経済面では自らに都合のいい税制を作らせ、共認支配のために(大学だけでは全大衆を支配できないので)末端大衆まで組み込む学校制度を作らせていった。
その手先が学者や官僚・マスコミであるが、彼らの地位・身分は法的に聖域化されており、彼らの責任が問われることは殆どない。
このようにして、金貸し勢力は、資本力と民主主義を武器にして思い通りの制度や法律をつくってきたが、それに対して資本力を持たない大衆は何も実現できないままである。

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金貸し勢力は民主主義を支配の武器として使えるが、大衆に与えられたのは、金貸しに利用されるための民主主義、つまり名前だけの民主主義である。
これが決定的な第3の騙しである。

次の2点が重要なので補足します。
中央銀行制度による経済支配とは?
金貸しは、確実に紙幣を回収出来る『国家』を相手に金を貸し、通貨発行権を手に入れることで、『中央銀行制度』を作り出しました。
国家ではなく、民間企業である『中央銀行』が自由に紙幣を刷ることができるこの制度によって、ゼロから通貨を作り出し、その量を自由に操作することで、金貸しは経済を支配することができるのです。
民主主義による共認支配とは?
『民が主』という主張は人類古来の共認原理に立脚しているように感じられ、受け入れられやすいのですが、その実態は全く逆で、『発言権』や『議決権』を優先させることで『まず学ぶ』という人類の根本原理を捨象させるのです。『学ぶ行為』が赤ん坊の成長の源となっていることからもその重要性は理解できますが、その重要な機能を失った人類は、我がままを言うだけの無能なベイビーの集団に堕し、金貸したちの都合の良いようにマスコミを介して洗脳され、支配されて行ったのでした。

学者もマスコミも活動家も、この騙しの構造によって金貸しに利用されているが、「民主主義は絶対正しい」と信じこんでいるので、彼らは死ぬまで騙されていることに気づかない。

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それは民主主義が自我(他者否定・自己正当化)のイデオロギーだからである。このように、自我に導かれたイデオロギーが如何に恐ろしい結果をもたらすか、しっかりと見抜いておく必要がある。

この騙しの構造 😈 を図解化してみました。

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まとめると、民主主義→社会運動には三重の騙しの構造=活動家の自滅構造がある。
【1】素朴な貧困からの脱出願望が、私権欲求にスリ変わる。
【2】大衆が救いの対象から、たんなる扇動の対象にスリ変わる。
【3】民主主義は、金貸しにとっては資本支配を正当化する武器であるが、資本力のない大衆においては、利用されるだけの呪文にスリ変わる。そして、一旦、その呪文に染まってしまえば、死んでも騙されたことに気づかない。
元々、活動家の大半は大衆を救うという素朴な願いから運動に入っていったが、貧困から脱出する道は民主主義しか与えられなかったが故に、それに飛びついた。
そして一旦、この自己正当化観念に嵌れば、それは自我中毒と同義であって、脱出は極めて困難になる。

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その結果、その後の活動家たちに刻印されるのは「社会変革に対する深い不可能視」だけではない。あらゆる運動に対する拒絶感が形成され、その後は一切の関わりを絶つことになる。

昨年の原発事故以降、本能を揺さぶられた大衆の、反原発デモへの主体的な参加は、過去の運動とは一線を画する動きにも見えました。果たして、その本質はどうなのでしょうか?
今回の内容と照らし合わせて検証してみましょう。
【1】あじさい革命の願望は、私権欲求にスリ変わっているか?
この運動は、生命の危機を感じ取った大衆の、『脱原発』という素朴な願いが出発点です。
当初、主催者もその事だけを訴える事に努めていた様子がありました。
しかし主張を繰り返すうちに、原発利権や原子力規制委員会人事など、相手の私権構造に介入せざるを得なくなり、その結果、私権的要求に嵌り込んでいるフシがあります。
(参照:反原連HP [1]
原発をやめるためには、金貸しの支配構造まで踏み込むことが必須となり、そのためには徹底した『学ぶ姿勢』が求められます。東電や現政権への要求・批判に転じた反原連には、『学ぶ姿勢』が残っているのでしょうか?
【2】あじさい革命の主催者は、大衆を『扇動』したか?
実際に彼らは多くの大衆を動かしました。『仮に100万人が集まったら、政治の中枢まで声は届くはず』 [2]と明言してもいますが、果たしてその『人数』は、『脱原発』に繋がるのでしょうか?
【3】あじさい革命における『民主主義』の位置は?そして大衆にとっては呪文か?
主催者は『民主主義』を声高に掲げての運動にはしていないようですが、『民主主義による共認支配』と、そのセットである『中央銀行制度による経済支配』には全く気づいてないようです。
気づいていないということは、『民主主義』の枠の中で踊らされているのと同じこと。知らないうちに呪文をかけられているということではないでしょうか?
こうして見てゆくと、『民主主義→社会運動の三重の騙しの構造=活動家の自滅構造』が、あじさい革命にも当てはまりそうな感じですね
うーん、なんとかならないのでしょうか?
そういうわけで次回は、運動家たちはなぜそこから脱出できないのかを追究しつつ、あじさい革命の可能性を探ってゆきたいと思います。
お楽しみに。
さようなら。

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