
12年以降、いよいよ実現の時代に入りました。人々が社会をどうする?を自ら考え、答えが欲しい、答えを出そうという気運が高まっています。
しかし、この気運はある一つの事象のみによってもたらされたものではありません。’70年の貧困消滅に始まりその後100年をかけて転換(私権原理→共認原理)していくの大きな流れの一部なのです。
このシリーズの狙いは、まさに‘70年貧困の消滅に始まる共認収束の大潮流を謙虚に学び、近50年の状況を歴史段階的に読み解くことで、次代の新たな可能性の提示を試みるところにあります。
今回も前回に引き続き、大きな画期的な年であった’02年を取り上げます。
‘02年、私権拡大の終焉は、収束不全を顕在化させ、私権によって統合された集団を尽く統合不全へと陥らせました。
’02年 私権拡大の終焉
↓
①収束不全(集団の統合不全) ⇒ ②脱集団 → 「社会の当事者」になろうとする意識が発現
この事象が現在の潮流にどの様に繋がっていくのか、今回の記事では触れてみたいと思います。
<旧い価値意識からの脱却>
しかし’02年、私権拡大の可能性が閉ざされたことによって、ついに自我肥大=自我中毒も自らの誘引先を失い、出口を塞がれて終息する。
従って、’02年の私権の終焉とは、正しくは自我の終息(=自我中毒からの脱却)である。
自我は他者否定と自己正当化の塊であり、従ってまた身勝手な要求の源泉である。心底の自我が(否定意識や要求意識もろとも)終息すると、心底が収束不全に陥り、すぐさま共認収束を加速させて次の収束先=仕事課題に収束する。こうして課題収束の潮流が生起した。
<5.自我と遊びを終息させた’02年の収束不全 [1]>
‘90年のバブル崩壊以降、人々の私権への期待は低下の一途を辿りましたが、一方で私権拡大の可能性(これまでの価値意識)を捨てられない人々(自我中毒者)も少なくはありませんでした。しかし、そんな人々の想いも’02年の私権拡大の終焉をもって完全に終息します。これはこれまでの価値意識から脱却したことで’70年から始まっていた根源回帰の潮流、真っすぐ充足できる課題に向かえるようになったことを意味します。
<課題収束への流れを確かなものにした同類探索の引力>
この同類探索の引力が、全てに優先する外圧探索の本能に発していることは間違いない。ところが、’70年以降、人類が私権収束から共認収束へと大転換した結果、人類の主要な外圧は、自然圧力から同類圧力(期待や評価あるいは同類闘争の圧力)に転換している。
加えて、危機発にせよ、可能性(共認収束)発にせよ、羅針盤となるのは常に同類である。従って、心底に収束不全を孕んだ人々は収束先が見えるまで、同類探索を続けるしかない。
いまや、人々は答え探索⇒同類探索以外に(自由時間に)することはない。それほどに、同類探索は全てに優先する最先端課題になっており、その引力は絶大である。だから、いじめられても同類から離脱できないのは当然だったし、マスコミが第一権力になったのも当然だったのである。
この同類探索こそ、共認収束の先鋒である。そして、この同類探索こそ、絶えず充足できる課題を探索し、原点たる期応充足を課題収束へと上昇させた力の源である。
この同類探索の中心的な対象は、同類の期待や考えや評価であり、従って、同類探索とは、本質的には共認探索であるともいえる。そしてその引力は永久に持続するものであって、決して何か一つの課題に収束して終わるわけではなく、絶えず今以上に充足できる課題を探索させ続けている。
<6.同類探索の引力が、期応収束を課題収束に上昇させた [2]>

‘70年のパラダイム転換(私権収束→共認収束)によって生起した同類探索は、’02年の収束不全の顕在化を受け、絶大なものとなりました。この現象は、SNSやtwitterの普及率、さらにはマスコミの偏向報道が明らかになってきた近年、より確かな情報を求めて人々がネットに収束していることからも見て取ることが出来ます。
参考記事:全てに優先する外圧探索の本能 [3]
<課題収束する世代の登場>
’70年以降時代を経るごとに高まっていった同類探索の引力、それに加え自我が終焉したことによってみんなで充足できる課題に真っすぐに向かっていきました。このようにして課題収束が顕在化したのが’02年だったのです。
同類探索に導かれ、’02年を境に時と共に高まっていく課題収束。その最先端にいるのは、かつてのような強い私権圧力に晒されていない若い世代であり、社会の当事者としてより対象の広い課題へと向かおうとしています。
参考記事:「役に立ちたい」欠乏の転換 [4]
参考記事:仕事の種類は二の次 [5]
今回の内容を図解にまとめたものが以下になります。

次回はその同類探索によって増大する情報量とそれが引き起こす情報中毒について扱っていきます。ご期待下さい。