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世界の運命は中央アジアが握る! ロシア編⑤~ロシア最強のリーダー” ウラジーミル = プーチン “とは何者か!?

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著者:北野幸伯
 前回の記事「世界の運命は中央アジアが握る! ロシア編④~ソ連を崩壊させ、ロシア新興財閥を育てたロスチャイルド~ [2]」では、ソビエト連邦崩壊過程における国際金融資本家の存在とその戦略、ロシア人の金貸しに対する「恨み」の意識について言及し、ロシア人=プーチン、ロスチャイルド財閥、ロックフェラー財閥の三つ巴の争いに突入すると結論づけた
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 今回の記事「世界の運命は中央アジアが握る! ロシア編⑤~ロシア最強のリーダー ” ウラジーミル=プーチン ” とは何者か!?~」では、プーチンが今後展開しようと画策しているシナリオの追求に進む前段として、プーチン本人について着目し、プーチンが絶対的権力を獲得するに至るまでの経緯を明らかにしてゆく。
(なお、今回の記事は、冒頭に紹介した書籍「プーチン 最後の聖戦」を参考図書とし、各所抜粋している。)


■スパイを夢見た少年、全諜報員のトップにたつ
<スパイを夢見た少年> 

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ウラジーミル・ウラジーミロヴィッチ・プーチンは1952年10月7日に生まれた。
 
父親のウラジーミルは、第2次世界大戦時はNKVD(内務人民委員部)で働いていた。これはKGB(ソ連国家保安委員会)の前身である。
母親のマリアは、清掃員や食料品店の店員などいくつも仕事を変えている。
プーチン家は、特に裕福ではないごく普通の家庭だったのである
 
また、プーチンはエリート校では無く近所の普通の学校に通っていた。
記憶力がよく頭は良いものの、いたずらばかりしていたようである。
しかし、小6のとき柔道を習い始めてからは、次第にまじめになっていった。
 
そんなプーチンがあるとき自分の将来について夢を思い描くようになる。
スパイになる」という夢である。
当時はテレビドラマや映画でスパイは「スーパーヒーロー」として描かれており、スパイにあこがれる子どもも多かったそうである。
 
多くの子どもがスパイになることを夢見ていたが、その中でもプーチンは一味違っていた。プーチンはその夢をずっと持ち続けていたのだ。
14歳のとき、プーチンはKGBの支部に赴き、KGBの職員に質問します。
KGBのおじちゃん!僕、諜報員になりたいんだけど、どうすればKGBに入れるか教えてくれる??
この質問に対して、KGBの職員は、
大学は法学部が良い」「言動的・思想的な問題を起こさない」「スポーツで実績のあるやつはKGBに入りやすい」事を教えてくれた。
これをきいたプーチンはKGBの職員のアドバイスどおり、名門レニングラード大学の法学部に合格。柔道に打ち込み、きわめてまじめな学生になっていったのだという。
これらすべてはKGBに入るためである。
この結果、1975年に大学4年生のプーチンはKGBにスカウトされる
プーチンは少年の頃からの純粋な夢を9年越しで叶えたのである
(出展はこちら) [5]

<諜報員として東ベルリンへ>

念願のKGBに入ったあと、プーチンはレニングラード支部事務局に勤務。対諜報活動局を経て、体外諜報部に配属される。
1985年、プーチンが33歳の時、ソ連の実質支配下にあった当時の東ドイツのドレスデンに派遣されていた。それは、現地で政治関係の諜報活動を行うためで、子供の時からの夢である「スパイ」になることができたのである。
この1985年という時代は、ゴルバチョフがソ連書記長に就任し、「ペレストロイカ」政策を開始した年。
当時のドイツは、アメリカを中心とする資本主義陣営の西ドイツとソ連を中心とする共産主義陣営の東ドイツに分かれていた。
このときプーチンがいた東ドイツは、冷戦の最前線。
ものわかりのいいゴルバチョフは、アメリカに譲歩を重ねていった。そして、東欧で次々と民主革命が起こるのを阻止しなかった。その結果、1989年11月、ベルリンの壁は崩壊。東欧の国々は、次々とソ連圏を離脱していく。
プーチンは、この「祖国ソ連の敗北」をスパイとして派遣された地で、なすすべもなく見ていることしかできなかった。
1990年10月、東西ドイツ統一を向かえ、プーチンは、38歳の時、古巣のレニングラードに呼び戻されることになる。
(出展はこちら) [6]

★最前線に派遣されたプーチンは、優秀で期待も大きい人材だったのだろう。
★しかし、そこでは自分の動きとは関係なく、世の中が大きく動いていくことを目の当たりにする。プーチンにとって、この経験が「KGBでスパイ活動をしていても祖国は良くならない…」という想いを強くするきっかけになっていく。後のプーチンは後述の通り、政治の世界に進出するようになるが、この想いがあっての行動だったのか。

<30代後半からの驚異のスピード出世>

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KGBの諜報員としてなすすべもなく、ソ連共産主義陣営の敗北を目の当たりにしたプーチンは、1990年、38歳のとき、KGBに辞表を提出ここから驚異のスピード出世を迎える事になる
1991年大学恩師がレニングラード市長に当選すると、プーチンは市の対外関係委員会議長に任命され、その後、1994年には第一副市長に昇進する。
その後1996年の市長選で市長が敗北すると、副市長を辞職(44歳)。
失業したプーチンは、ロシア連邦大統領府から声がかかり、ロシア大統領府総務局次長に任命。翌年1997年3月には、大統領府副長官、1998年5月には第一副長官に昇進した。(45歳)
そしてついに、1998年7月にはKGB後身のFSB長官に任命された(45歳)。
(出展はこちら) [8]

★プーチンは、KGB時代に諜報の最前線であるドイツに派遣されている事からも分かるように、元々優秀な人材であった。ここまで急速な出世街道を歩んだ背景には、そのような能力的背景がベースにあったと想像できる。
 
■大統領への道

<FSB長官プーチン、ベレゾフスキーに接近>
 1998年8月、若きキリエンコ首相率いるロシア政府は「デフォルト」を宣言。いわゆる「ロシア金融危機」が起こる。これで当時首相だったキリエンコは辞職に追い込まれ、変わりにプリマコフが首相となる。このプリマコフはKGBの大物で、プーチンの大先輩に当たる人物。「ロシア新興財閥」が大嫌いであった。プリマコフはスクラトフとういう検事総長と共に、7人の新興財閥の一人「ボリス・ペレゾフスキー(石油大手「ジブネフチ」、ロシア公共テレビ「ORT」等)」を追い込んでいき、ベレゾフスキーは次第に窮地に陥ってゆく。ベレゾフスキーの周りから人が消えていく一方、唯一接近していったのがFSB長官プーチンであった
 
 1999年、ベレゾフスキーの妻レーナの誕生日。例年では考えられない地味なパーティに招かざる客、プーチンはやってきた。
ベレゾフスキー:ワロージャ(ウラジーミルの愛称)。私は大いに感動したよ。だが、なぜプリマコフとの関係をややこしくするような事をするのだ?
プーチン:どうでもいいことだ。私はあなたの友人だ。それを示したかった。とりわけ他の人々に。彼らはあなたを社会から除外したいと思っているが、あなたが潔白であることを私は知っている。
プーチンはこのたった一回の訪問でベレゾフスキーのハートを鷲掴みにしたのである。これ以降、ベレゾフスキーはプーチンを次期大統領にすることを検討しはじめる。かつてエリツィンをバックアップしたように。
ベレゾフスキー:ワロージャ。大統領になれないか?
プーチン:私が?とんでもない。大統領なんて柄じゃない。自分の人生でそんな事は望んでいない。
ベレゾフスキー:なら、何が望みだ?このまま長官を続けたいのか?
プーチン:私は・・・ベレゾフスキーになりたい。
窮地に追い込まれたベレゾフスキーは「この男は裏切らないし、変な野心もない。傀儡大統領にピッタリだ。」と確信していったのである。
★政界に進出したプーチンは、更なる出世、権力の獲得には新興財閥の力が必要だと知っていた。
★なので、当時窮地に追い込まれていたベレゾフスキーに接近し、あたかも自分が傀儡大統領にふさわしい人物かのように振舞った。

<いよいよ首相の座につく>
 ロシア新興財閥嫌いのプリマコフ首相が1999年5月に解任され、続くステパシンも同年8月に解任された。そして、ついにプーチンが首相の座につく番がくる
 プーチンが首相に任命された直後、ロシアからの独立をめざすチェチェン共和国の武装勢力1500人が、ダゲスタン共和国を攻撃。一部の村を占拠するという事件が起こった。新首相プーチンは「テロリスト掃討」を名目にチェチェンへの空爆を開始。第二チェチェン戦争が勃発した。チェチェン攻撃を開始した強気なプーチンの支持率はどんどん上昇した。翌10月、ベレゾフスキーはプーチンを支える「統一」を立ち上げ、1999年のロシア下院選挙では第二位の73議席を獲得する。
 同年12月31日、エリツィンが健康状態の悪化を理由に電撃引退し、プーチンは首相から大統領代行へ。2000年3月の大統領選挙では共産党を大きく引き離し、53%の獲得で圧勝する。
 ここに” ウラジーミル = プーチン “はロシア最強のリーダーとなったのである。
★新興財閥の力を借りて大統領に就任したプーチンは絶対的な権力を手に入れた。

 
 
ここまでプーチンの出生から始まり、大統領就任までの事象を時系列順に確認してきた。
絶対権力者としてのプーチンがその後いかなる戦略の元、行動していったかは次回扱いたいと思う。お楽しみに。

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