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共認収束への大転換⇒実現の時代へ(1) ~起点となった’70年の大転換~

[1]
※るいネット「経済指標指数グラフ [2]」より
 
 
’12年以降、いよいよ実現の時代に入りました。
 
これまでの枠組みや考え方を超えた、全く新しい状況認識やそれに基づく方針を生み出していく(=それが可能になった)新たな局面に入ったということです。
またそのような期待がみなの中で大きく顕在化した時代とも言えるでしょう。
 
多くの人の「社会を良くしたい」という想いの高まりや、そのための能力UPへの希求、さらには独学の気運の高まり(詳しくはこのシリーズの後半で扱います)といった新しい潮流にそれが顕著に現れています。
 

自主管理への招待(6) 実現思考とは何か [3]より
人は、対象とイコールに結ばれた主体としてのみ存在するのであって、決して自分だけで生きているのではなく、まして観念だけで生きているのではない。従って、欲望や願望が実現されるためには、それらとイコールに結ばれるそれらの対象が、同時に存在していなければならない。
逆に、そのような実現対象が社会的に存在していないとしたら、いかなる価値も理念も決して実現されない。実現対象を獲得し得ない全ての価値意識は、非存在であるにすぎず、いずれ消え失せてしまう。
逆に、打ち消し難い課題を自らの内に孕んだ主体は、その実現対象をこの社会構造の中に見出し得るはずである。

 
 
今更古いものをかき回しても何も生み出せません。すでに多くの人がそれに気付いています。
 
但し、次代の新しい可能性を実現していくためには、まず古い枠組みに捉われることなくできる限り正確な状況認識(意識潮流や社会構造)を身に付ける必要があります。その正確な状況認識の中にこそ、新たな可能性の実現基盤を見出し得るからです。
 
 
よって今回のシリーズ「共認収束への大転換⇒実現の時代へ」では、現在の(実現期待に至るまでの)正確な状況認識を体得し、これからの可能性を提起していく内容にしていきたいと思います。
 
 
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■ 起点となった’70年の大転換
「実現の時代」を迎えるに至る、大きな転換期となった時代があります。
 
それが’70年です。
 
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経済状況で見ると’70年は高度経済成長の末期に当たります。同時に大阪万博開催の年でもあり、その前の’60年代には新幹線開通や東京五輪もありました。
この状況を端的に表すと次のようになります。
 

潮流3:’70年、豊かさの実現と充足志向 [5]より
’70年、工業生産の発展によって、ほぼ貧困が消滅し、豊かさが実現された。この豊かさの実現=生存圧力の弛緩は、生物が経験したことのない全く新たな事態である。

 
三種の神器(テレビ、冷蔵庫、洗濯機)の普及率が9割を超えるのがこの’70年前後で、これこそ「豊かさの実現」の象徴的事例と言えるでしょう。(「一億総中流」という言葉も登場しました)
 
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これは(生物史上としても)大きな転換で、「生活を確保する」というそれまでの生きる最大の目的(活力)自体が、根底から消滅してしまったことになります。
物的に満たされた(あとはどれだけ贅沢をするかくらいしか残っていない)状態になるとどうなるか。
 

潮流予測1 私権収束から共認収束への大転換 [6]より
貧困が消滅すると、私権(お金、地位など) [7]を獲得しようとする欲求=私権欠乏が衰弱してゆく。従って、物的欠乏も衰弱し、市場は縮小せざるを得なくなる。

 
つまり、(それまで右肩上がりだった)市場が一転して縮小過程に入ることになります。
それを象徴しているのが’72年、田中角栄の「列島改造論」でしょう。放っておくと市場縮小=不景気になってしまうため、国家主導で経済を活性化(=公共事業でお金をばら撒く)させようという政策です。
 
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オイル・ショックにより列島改造計画は半年で終息してしまいますが、この経済政策(主に公共事業+社会保障)自体はその後も脈々と受け継がれることになります。当然国家の財源には限りがあるため、経済活性(ばらまき)のための財源はすべて国債でまかなわれました。その結果、国債残高は年々増え続けることになります。
 
今や900兆円とも言われる国債残高ですが、その起点はこの’70年代にあったのです。
 
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※日本の国債発行残高グラフ 
 
 
図解にまとめるとこうなります。
 
★’70年豊かさ実現→市場縮小⇒国家主導でばら撒き政策→年々国債△→今や900兆円にまで膨らむ
 
※参考:国の借金とGDPグラフ(最新2010年版) 借金による水脹れを除けば、一貫して縮小している市場 [10] 
 
900兆円にまで膨らんだ国債発行の根本要因は、’70年豊かさ実現とそれに対する国家主導のばら撒き政策にあったことがわかります。
しかし、このまま借金を続けられるはずもなく、40年にも及ぶ「国家によるばら撒き政策」は、’70年以降の市場縮小に対する答えにはなっていなかったと言えるでしょう。
 

潮流予測1 私権収束から共認収束への大転換 [6]より
社会の統合を担う学者や官僚やマスコミや政治家etcの旧勢力は、この新しい状況をまったく把握できず、「市場拡大は絶対」というイデオロギーに凝り固まって暴走してゆく。
彼らは、不足する需要を補うべく大量の国債を発行して、見せかけの市場拡大に血道をあげてきた(実際、元々ゼロだった国の借金は、’70年代から急速に増大していき、今では900兆円にも達している)。
その結果がバブル経済であり、その果てが今回の国債経済の破綻であり、迫りくる米・欧・中の壊滅である。

 
 
■ 私権収束⇒共認収束への大転換
一方、’70年の豊かさ実現→物的欠乏の衰弱により、意識潮流上でも、大きな転換がありました。
 

潮流3:’70年、豊かさの実現と充足志向 [11]より
生存圧力が衰弱し、物的充足が飽和状態に達した状況での新たな(=より大きな)充足可能性は、物的価値ではなく類的価値(人と人との間に生じる欠乏)の充足の中にしかない。そして、類的価値の充足とは、共認充足に他ならない。

 

潮流予測1 私権収束から共認収束への大転換 [6]より
貧困の圧力に基づく私権の強制圧力が衰弱してゆく以上、人々が人類本来の共認原理に回帰してゆくのは必然だからである。
つまり、’70年、豊かさの実現(=貧困の消滅)をもって、人々の意識は私権収束から共認収束へと大転換を遂げたのである。従って、資本権力も衰退過程に入り、代わってマスコミの共認権力が第一権力に躍り出る。

 

新しい潮流7 同類圧力は、新しい認識によって生み出される [12]
生存圧力を克服したこれからの人類にとって、課題圧力とはもはや向こうからやってくる不全課題・不全圧力では在り得ない。今や、課題圧力とは同類圧力に他ならず、それは仲間充足がそうである様に、向こうからやってくる不全課題ではなく、自分たちで作り出す充足課題である。実際、皆でより充足できる(or鮮明なスッキリする)認識を作り出す過程は、可能性発の充足過程である。

 
 
人々の意識の大転換(私権収束から共認収束)、そして課題圧力の大転換(貧困から同類圧力)。’70年のこの大きな転換は、それまでの古い枠組みをリセットし、現在の「実現の時代」へと繋がる起点となるものでした。
 
しかし、このときの転換はあくまで意識の最基底部での変化であり、観念や社会的制度の変化にはタイムラグが生じます(実際、実現の時代に入るまでに約40年を要しています)。
この最基底部での大転換が、その後の社会状況をどう変化させていくのか、そしてそれによって意識潮流がどう変化していくのかを、次の記事より段階的に見ていきたいと思います。
 
 

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