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魔術から近代科学へ14 西欧にとって魔術は科学発展・侵略拡大に必要な観念だった。

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前回記事:経済学の騙しの起点、スコラ哲学(トマス・アクィナス) [1]
 前回は「ドミニコ会の神学者トマス・アクィナスらスコラ哲学派が、「経済学の騙しの起点」であり、私利私欲の追求や利息を肯定し、その後の近代経済学の源流となったと紹介しました。
 そのドミニコ会と対立していたフランチェスコ会は従来のキリスト教の教義を踏襲し、私利私欲や利息を禁じていました。
 禁欲的で保守的な会派に見えますが、一方でフランチェスコ会の考え方は「自然と人間」or「神と人間」の関係を大きく変化させる重要な起点となっているようです。
 今回は、フランチェスコ会の代表的な人物ロジャー・ベーコンを紹介しながら、どのように価値観の転換していったか考察したいと思います。
ロジャー・ベーコンは経験や実験観察を重視したので近代科学の先駆者と言われていますが、その実相はどんなものだったのでしょうか。
 
 


 
 
山本義隆氏の著『十六世紀文化革命』(みすず書房) [2]より

第七章 ロジャー・ベーコンと磁力の伝播
1 ロジャー・ベーコンの基本的スタンス
 トマス・アクィナスと同時代に生きて、アリストテレスに同様に大きな影響を受けながら、しかし、トマスと異なり、言葉の解釈に明け暮れている当時のスコラ学の不毛を見抜いていたのが、ロジャー・ベーコンであった。彼の近代性は自然学において数学と経験をともに重視した点においても、学問の実践性と実用性を強調した点においても、同時代の知識人のなかでは一頭地を抜いている。
 ヨーロッパが十字軍運動の挫折を経験し、キリスト教世界が広大な異教徒の世界に取り囲まれていることを痛感させられ、イスラーム社会の高い技術力と経済力を思い知らされ、アラブとビザンチンに継承されていた古代からの高度な学問によって蒙を啓かれた13世紀中期にあって、いまだに脚下照顧とばかりに聖書や教父の書き残したもののみをよりどころとしているようなスコラ神学は無力である。
 ベーコンの「それゆえに私たちは、私たちと信仰なき者たちに共通の根拠を探さなければならない。それがすなわち哲学である」という『大著作』の発言は、キリスト教徒が哲学を学習することの正当性と必要性を、キリスト教世界をも対象化し相対化する広い立場から根拠づけるものであろう。
 トマス・アクィナスにおいては、哲学が重視されているにしても神の知と人間の知には断絶があり、神学は哲学の及ばない領域を有し、哲学の知識は啓示の知恵にはかなわないものとされていた。しかしベーコンにおいては、「聖書の知恵は哲学によって解明されなければならない」とあるように、聖書の理解に哲学は不可欠で、神学は哲学によってはじめて正しく理解されるのである。神学と哲学のあいだにトマスのような隔絶は認められない。哲学研究は補助的に聖書研究に資するのではなく、神学研究の中心を占めるのである。
 そしてまたベーコンの言う「哲学」には、世俗的な学問つまり数学・自然学・占星術・錬金術といった諸学が含まれていることに注意しよう。結局のところキリスト教を真に普遍的なものにし、異教徒を説得し改宗させうるまでに神学を力強く豊饒なものにするには、世俗の学問、さらには異教の学問をも研究し、あげてその成果をキリスト教神学とキリスト教会のために利用しなければならない、というのがベーコンの基本的スタンスであった。
 さらにベーコンは、自然の秘密の力を暴き出しそれを制御し操作する術を与えるもの、現代風に潤色すれば経験にもとづく自然力の技術的使用を経験学の特権と称している。
 それは「教会と国家に益する驚くべき諸々の業」であり、それゆえにもっとも重視されるべきものである。ちなみにここに言う「驚くべき諸々の業」のなかにも「消えることなく永久に光り輝くランプ」や「国家の敵対者たちにたいして、刀剣や相手に触れなければならないような武器も使うことなく、抵抗する者すべてを滅ぼしてしまうような偉大な業」や「ごく軽く触れただけでも、毒をもつ動物を殺してしまうようなもの」といった首をひねりたくなるような魔術的な技も含まれている。
 しかし魔術についてのベーコンの真意は、大衆の無知につけこんだ詐欺的な魔術から自然力を使役する合理的な技術を分離することにあった。
 畢竟するに、『大著作』全体の主張は、自然の秘密を探究しその驚異を提示しその力を技術的に応用することこそが、キリスト教社会を強化せしめ異教徒にたいして優位に立たせるための喫緊の方策であり採るべき戦略であるというひたむきな提言に他ならない。『大著作』第六部は次の宣言で終る。

 この世において、信仰に敵対する者たちに対抗する神の教会に禅益する驚くべき有用性がこれら三つの学問〔経験学の三大特権〕から導かれることはこれまでの論考で明らかであり、信仰に敵対する者たちを打ち破るのは、武闘よりはむしろ知恵の発見なのである

 異教徒に包囲されているキリスト教社会は、言葉に拘泥し経験に学ばないスコラ学の空疎な議論を乗り越え、いまこそ実践的で実用的な「経験学」に邁進すべしというのが、クレメンス四世に具申したベーコンの熟き思いであった。こうしてベーコンは、科学の目標を自然にたいする支配力を獲得し自然を人類に役立てることに設定したのであり、これこそがベーコンをそれ以前のヨーロッパの恩想家と決定的に区別するものであった

 イスラーム社会からの侵略圧力の中で、カトリック司祭でもあるロジャー・ベーコンはキリスト教の地位回復・巻き返しを熱望していました。
 それを実現する上で、彼は以下の重要な提起をしています。
 ①異教徒を改宗させるためには「武闘より知恵の発見」→武力支配の前に観念支配が必要。
 ②科学の目標は自然支配にある。

 16世紀以降、西欧は科学を飛躍的に発展させ、その技術をもって、他の地域に侵略戦争を仕掛けますが、この2つの提起は、それを正当化or強化する結節点となっていると思われます。
引き続き、山本義隆氏の著『十六世紀文化革命』(みすず書房) [2]より

2 ベーコンにおける数学と経験
 ベーコンがオクスフォードに学んだ1230年代には、『分析論後書』をふくめてアリストテレスのかなりの著作がすでにラテン語で読めるようになっていたし、パリと異なりオクスフォードではアリストテレスは禁じられていなかった。そんなわけで、ベーコンにたいするアリストテレスの影響は大きく直接的である。しかしベーコンは自然認識における経験の契機を重視するとともに、数学の重要性をも評価する点において、当時の通常のアリストテレス理解を越えていた。
 ベーコンの自然学では、たしかに経験的方法の重要性が説かれているが、それと同時に数学の役割も強調されていることを見落としてはならない。実際ベーコンにおいては、知は数学的推論と経験的確証の二本柱からなっている。
 すなわち、一方では「経験なしには何ものをも十分には認識しえない」が、他方では「数学を知ることなしには、この世界の何ものをも認識しえない」のである。しかしそのことは、単に二通りの知があるということではなく、むしろ知が厳密かつ十全なものであるためには数学的(論証的)認識と経験的(感覚的)認識の双方が必要で、その両者がたがいに補完しあっていなければならないということを意味している。
 ベーコンは、一方ではこのように認識の確実性の根拠を数学的論証に置いているが、しかし他方では、その数学の真理性を人が確かめるのは感覚によるとしている。すなわち「数学においては、図を措いたり数を数えたりすることによって、すべてのものにたいして感覚的な例示や感覚的な検証が与えられるので、すべてのものが感覚にたいして明らかであり、このことのゆえに、数学においては疑惑は存在しえない」。したがってまた、数学的論証によって導き出された結論を人が確信をもって受け入れるのも、感覚的経験によってその論証が直接的に確証された場合のみであるとされる。
 数学的推論なくして認識の確実性は得られないが、しかし人はそれを経験で確かめることではじめて、安心して受け入れることができるのである。ただし、先にベーコンの経験には「外的感覚」によるものと「内的照明」によるものがあるとあったが、数学の真理が経験において確証されると言うときの経験は、この後者を指している。真理は内的に照明されるのである。
ベーコンは認識の確実性のため、数学の論証だけでなく、感覚的経験の重要性も説いている。
その姿勢は科学の分野だけで無く、魔術(自然魔術)の分野でも活用された。

 ロージャー・ベーコンは、科学の分野だけでなく、自然魔術の創始者と言われるほど、魔術関係の著作も残しています。
「ロジャー・べーコン」 [3]より

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ベーコンの重要性は、キリスト教神学に占星術と錬金術を組み込もうとしたことにある
 これは、アラビヤから渡ってきたアリストテレス的自然学に基ずいた思想である。
 当時、十字軍によってアラビヤ世界の新しい学問がヨーロッパに流入している時期であった。いわばベーコンは、中世ラテン文化の絶対主義を、アリストテレス的自然学でもって改革しようとしたのである。従来の中世ラテン文化は、死後の来世ばかりに目をやり、現世や自然、時には人間の尊厳すらも軽視する傾向にあった。
 これに対し、ベーコンはアリストテレス自然学の「自然と現実を見る目」を重要視し、これを自分の学問の方法とした。
 この考え方は重要だ。だいぶ後世のルネサンスの自然魔術やパラケルススの思想の大元は、こうしたアリストテレスの再発見に端を発しているからである。
 彼はアリストテレスが晩年に秘教に関心を持った事実を重視し、自然を理解し、それを応用することが秘教を習得する道であると信じていた。
 彼は説く、自然哲学は7つに分類される。それは、光学、占星術、重力学、錬金術、農学、医学、実験科学である。そして、こうした叡智を学ぶ方法は2つあり、一つは思弁的方法、もう一つは実践的方法である。数学は思弁的、医学は実践的であるが、錬金術は半ば思弁的で半ば実践的である。この主張は、錬金術の歴史において非常に重要な役割を果たした。ベーコンは錬金術には思弁と実践の両方が必用であると主張した。これは結果的に、錬金術には思弁と実践の二通りの解釈が可能であることも示したのである。実際、ベーコンは錬金術の思弁的側面を強調したために、これは後世の錬金術に大きな影響を与え続けた。
 ベーコンの錬金術は、「第一質料」を軽視するという嫌いがある。しかし、彼は四大元素とエーテルの重要性を認識していた。
 四大元素から物質を生成する術と「霊魂を持たぬもの」を扱う学問がある。四大元素やエーテル、その他の多くの自然に関する知識を得ることが必用だ。これは「霊魂を待たぬもの」や四大元素から物質を生成する術を究めることであり、これこそが思弁的錬金術である、と。
 これは、「霊魂を持たぬ存在」すなわち「自然界」への研究を開く起爆剤の役割をも果たし、これが自然魔術追求へともつながってゆくのである。
 そう、彼は自然魔術の創始者とも言えるわけである

さらに、
「神秘学その2 巨人達 古代・中世編 その2」 [4]より

 実験や事実の観察に依拠する科学は、反キリストとの戦いの際に、キリスト教徒の強い味方になると考えられた。当時は、黙示録的雰囲気が強く、人々は来るべき最後の聖戦の予感に脅えていた。
そんな中で、彼は、櫂(かい)も帆もない船、空飛ぶ機械、潜水機、爆薬などを発案した。
触れるだけで猛毒を持つ動物を殺す魔法陣、永久に消えない灯火、鏡や双眼鏡の発明は、魔術師の名に十分値するものだった。

さらに、ベーコンは「国家の敵対者たちに対して、刀剣や相手に触れなければならないような武器を使うことなく、抵抗する者すべてを滅ぼしてしてしまう偉大な業」を空想していました。
 ロジャー・ベーコンの発案・発明の目的は明らかに新たな戦争に備える兵器と考えられます。そして、「触れなくても抵抗者を滅ぼす業」をはじめとして、それら兵器は魔術の力によるものです。
つまり、ベーコンは神の僕として、魔術によって兵器を開発し、異教徒(イスラム教徒)を征服することを空想したのです。
 対立するドミニコ会が金融勢力と結託したのに対し、ロジャー・ベーコンが属するフランチェスコ会は武装勢力(国王や軍人)と結託した言えるのではないでしょうか。
 
 魔術がそれまでの土俗的で呪術的なものとは区別される自然魔術として改善をほどこされ、自然科学・数学によって特別な人々のものではなく、貴族・市民にも一定程度受け入れられるようになったのは、ロジャー・ベーコンの成果と言われています。
 後年(ルネッサンス時期の人ですが) ジョヴァンニ・ピコ・デラ・ミランドラが15世紀末に著した「人間の尊厳について」には、次のように書かれています。

 人間は欲することにより一切を認識し万物に君臨しうる、あるいは自然の主人にして支配者になりうるというこの想念は、中世における神と人間の関係を根本的に改めるものである。つまり、とするならば、神には許されていた奇蹟を人間が行使することも許されるであろうが、それはまさしく魔術である。すなわち人間中心説は、それと裏腹に魔術の復権をともなっていたのである。
 実際、自然との関係において人間のこの能動性・主体性を保障する理論を提供してくれるものこそ、他でもない魔術であり、古代人の知恵のうちに隠されていたものであると考えられたのだ。

 敬虔なキリスト教信者であったロジャー・ベーコンの自然魔術思想は、皮肉な事に後年、神から人間(人間主義)への移行を促します。
 一見、非科学的と思われる魔術は、自然支配(神の奇跡から人間による自然支配)のための科学発展には必須であったと考えられます。
 特に、宗教を集団の統合観念としていた民族(集団)にとっては、科学革命による自然・他民族支配のためには、この転換は重要で、最終的に魔術がすべて科学に置き換わるまで(ケプラー、ニュートンまで魔術は残り続けた)、必要な欺し観念だったと思われます。
 次回は、今回あまり触れなかったロジャー・ベーコンの磁力に対する考察と「経験が重要」と述べながら「数学を知ることなしには、この世界の何ものをも認識しえない」とも言っている彼の論理の問題性について触れていきたいと思います。

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