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なんでや劇場レポート 「力の原理から共認原理への大転換」その2 ~同類闘争の緊張圧力⇒乾燥(→飢餓)を契機に略奪闘争勃発~

皆さ~ん、こ~んば~んは~っ!

前回は、「経済学者は、物欲と市場の無限拡大に対して何の疑問も抱かなかった」というテーマについてでした。これまでの経済学で一貫しているのが、「国力=経済学であり、市場拡大が全てに優先される第一課題であるという思い込み」だったのですが、東日本大震災や、原発事故などにより、そのような観念は崩壊しつつあります。

今回のテーマは、「同類闘争の緊張圧力⇒乾燥(→飢餓)を契機に略奪闘争勃発」です。これからの国力や市場について考えていくためにも、その原点を知るというのは、非常に重要なことです。人類は、誕生から弓矢の発明までの約500万年、他の大型動物に勝つことが出来なかったため、洞窟で隠れ住む生活を余儀なくされていました。食糧も他の動物の食べ残し程度であり、極度の飢餓状態にあったため、同類同士で争うことはタブーであり、肩を寄せ合い助け合う事で得られる、共認充足を唯一の命綱として生き延びていました。弓矢の発明により、人類の生活は大きく改変され、洞窟から外の世界へと出ることができ、食糧事情も大きく改善され、人口も増加してきます。そして。。。

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「テキスト2.私権圧力と過剰刺激が物欲を肥大させた」 [1]には、次のようにある。
「人類は、500万年の歴史を通じて、ほぼ一貫して飢餓の圧力に晒されてきた。そして、人口が増え、各部族が境界を接するようになった約6000年前、乾燥(→飢餓)を契機に、略奪闘争の幕が切って落とされ、玉突き的に、世界中に略奪闘争が広がっていった。」

人類は木に登ることができなくなったカタワのサルであり、洞窟に隠れ住むしかなかった。彼らの主要な食糧は、他の動物が食べ残した動物の骨や頭蓋骨を拾い集めて、その骨髄や脳髄をすすることであった(原始人類の洞窟遺跡から骨が出土することを根拠に、学者たちはマンモス狩をしていたと主張するが真っ赤な嘘である)。原始人類が直面した想像を絶する飢餓の記憶は、DNAにも刻印されているに違いない。

1万3000年前、弓矢の発明によって他の動物と互角に闘えるようになった人類は地上に進出し、人口が増えてゆくに従って集団分化してゆく。
ここで重要なのが、同類闘争の緊張圧力が高まっていったことである。

同類闘争の原型は哺乳類に顕著な性闘争の本能にあるが、これは個体間の闘争である。それに対して、サル・人類に固有の同類闘争は集団間の闘争である。サル・人類の第一義課題は同類闘争に勝つことであり、例えば、人類の「国力」という概念も同類闘争に勝つための物差しである。

『サル・人類の第一義課題は同類闘争に勝つことである』とはどういうことでしょうか?

猿・人類以外の一般動物が行う同類闘争は、メスを巡るオス同士の闘争と、縄張り≒食料を巡る闘争に限定されます。いずれも『個体VS個体』で闘う様式ですね。

一方の猿・人類も、メスあるいは食の奪い合いというその動機こそ同じですが、闘争様式は『集団VS集団』という形になります。
これは、樹上で個々の縄張り同士が交錯、飢えが恒常化するまで過剰繁殖し、にも拘らず死ねない、という極限状態を迎えた原始猿が、共認機能をもとに『集団形成』し、各々の集団間で闘争、勝った集団が縄張りを確保することで種として適応してきた進化過程を踏襲するものです。(詳しくはこちら:ニ.サル時代の同類闘争と共認機能 [2]

よって『同類闘争に勝つこと』とは、『縄張りを確保し自集団を存続させること』になります。これは、猿も人類も一貫して同じなのです。

木から落ちた猿である人類は、当初は自然外圧に適応するのがやっとで人口も少なく、他集団と出くわすことはまずありませんでした。しかし、1万3000年前の弓矢の発明以降人口が増え続け、他集団との縄張りが(実に猿時代以来!)再び接近、緊張関係が発生し始めます。
採取部族のように自然外圧が比較的緩い地帯の部族は、ポトラッチなどで近接他部族と友好関係を結び緊張を緩和していけましたが、砂漠や高原など、自然外圧の強い地帯の部族はそうは行かず、緊張状態が継続します。
しかしこの段階では、縄張りに入ってきた他部族を追い払う程度で、決して殺したりはしませんでした。
そう言えるのは、猿も人類も『自集団の縄張りを守る』という課題はあっても『そのために同類を殺す』という本能は持っていないからですが、5700年前、ついに人類はこの一線を越えてしまうのです。

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カタワのサルである原始人類の段階では人口も少なく、同類集団に遭遇する可能性は極めて低かったが、1万3000年前の弓矢の発明以降、同類闘争の緊張圧力が働き始め、人口が急増するに従って緊張圧力は強まってゆく。そのピークに達したのが6000年前であり、その直後5700年前についに乾燥化(→飢餓)を契機に、イラン高原で人類最初の略奪闘争(戦争)が勃発する。

この略奪闘争は、西にコーカサス地方からヨーロッパへ、東は中央アジアからモンゴル高原を通ってアジア全域へと、たちまち伝播した。ところが、その略奪闘争の在り様に東西で違いがあり、それが民族性の違いを生み出している。

土地が不毛な西洋では、乾燥化によって極めて深刻な飢餓状態に陥り、略奪闘争は極めて激しい容赦の無いものとなり、皆殺しが常態となる。その結果、共同体は根こそぎ破壊され、出自がバラバラの生き残りたちが生き延びる為に寄せ集めの新たな略奪集団(ギャング集団)を形成しては他部族を襲うという形で、数百年に亙って掠奪闘争が繰り返された。その最終的な勝利者が古代ギリシア人である。そこでは、共同体体質を喪失したが故に、自我と私権(利益分配)によって集団が統合された。

古代ギリシアは最終的な勝利者でしたが、そのギリシア人が共同体を喪失していたとは、どうしてでしょうか?

古代ギリシアは、約8500年前のエーゲ海沿岸で、栽培種(大麦・小麦)の耕作や家畜(ヤギ・ヒツジ)の飼育、農業を行い、共同体部族として成り立っていました。

しかし、略奪闘争をきっかけに、様々な印欧語族が難民化、山賊化していきます。この中の少数部族、アカイア人が南下し、クレタ文明を興し、その後のミケーネ文明へと発展していきました。
ミケーネは、好戦的社会で、略奪や海賊行為などを行ったり、アナトリア西岸に植民し、都市国家を作っていきました。
やがて、海の民=地中海の海賊により、ミケーネ文明が崩壊し、それによりバラバラになったアカイア人も海賊となり、地中海沿岸の都市・国家へ襲い掛かり略奪を繰り返し、沿岸部に定着しました。
その後、アカイア人orアカイア人から分派したイオニア人の残党が、各地にポリス国家を建設していきます。そこでは、中心市街に住む貴族や商人と、郊外に住む平民(農民)に分かれ、大量の奴隷に農作業を担わせていました。
このようにして、略奪した植民地を市民に平等に分配していくことで、共同体体質は崩壊し、自我と私権に覆われた社会となっていったのです。

参考投稿

ギリシア~ローマ史まとめ① 8000年前~4000年前 略奪戦争の勃発、クレタ文明の登場 [3]

ギリシア~ローマ史まとめ② 4000年前~3200年前 ミケーネ文明登場、「海の民」 [4]

ギリシア~ローマ史まとめ③ 3200年前~2800年前 ラテン人の南下、ポリス成立 [5]

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次に、上記にある『自我と私権(利益配分)によって集団が統合された』とは、
どういう事でしょうか?

・・・ポイントは『平等・分配』です。
略奪闘争が継続、拡大してゆく段階では、より強大な戦力をもつ集団が覇権を
握ります。
そのためには、戦闘人員の増強が有効な手段の一つなので、逃亡奴隷や滅亡部
族の生き残りを集め、生死を賭けた闘いに挑ませるわけですが、ただでは人は
集まりませんよね。
そこで「(略奪してきた女を含む)戦利品は平等に分配する」という約束事=契
約を交わして戦力増強し、戦争勝利して覇権を握ったのが古代ギリシアです。
つまり「自分(たち)が生き残るためには、他を殺しても良い、略奪しても良
い」という人類には本来備わっていなかった自我(自己中意識・観念)や私権
意識のもとに闘い、勝利し、利益配分の約束を果たしながら、大規模の集団の
秩序、統合を実現した。という構造が統合の実態なのです。

(ちなみに、その平等分配契約が西洋の一夫一婦制や平等観念の原点であり、
ギリシアの民主制もギャング集団の掟と全く同じなのです。
参考:9/18なんでや劇場5 自我が全ての中心という西洋人の意識が原点となって近代市場が形成された [6]

それに対して、比較的肥沃な東洋では皆殺しではなく支配・服属という形が主流になる。従って、勝者はもちろん服属した氏族も、氏族集団としての本源性(共同体性)を強く残すことになる。

この東洋と西洋の違いという認識は極めて重要であるが、東洋人の中でも、島国ゆえに一七〇〇年前まで略奪闘争に巻き込まれることなく原始文明を発展させてきた日本人の心の底に残る本源的な共認体質は、極めて貴重である。自我・私権性の強い西洋人が作り上げた私権文明は終焉を迎えたということは、逆に云うと、次代は本源性を最も強く残した日本人が世界をリードすることを示している。

東洋と西洋で本源性が異なるのはなぜでしょうか?

略奪闘争の伝播ルートには二つあります。一つはメソポタミア・エジプト・アラブへというルート、もう一つは中央アジア~モンゴル高原へというルート。
イラン高原は急速に乾燥していったことにより、極めて深刻な食糧危機に陥り、そこでの略奪闘争は皆殺しが常態となりました。
彼らは元々遊牧なので簡単に移動する。わずか10~30年間で、略奪集団がメソポタミア等に拡散します。ここで重要なことは、誰が勝っても誰が敗けても、殺し合いから逃げ延びて略奪集団(山賊・泥棒)に転じた者たちが大量に発生したことです。

参考:2/6なんでや劇場(3) 5500年前、イラン高原で最初の略奪闘争(戦争)が勃発 [7]

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一方、モンゴル高原はイラン高原ほど乾燥が激しくありません。従って、ここでは掠奪闘争というより覇権闘争の色彩が強く、皆殺しも発生したが、それより支配・服属という形が主流になります。従って、勝者はもちろん服属した氏族も、氏族集団としての共同体性を強く残すことになります。
インドを征服したアーリア人も「我々は神である」と言ってインド先住民を支配したわけで、大して殺戮していません。だからインド人にも共同体体質が残っています。
そして、共同体性を最も色濃く残しているのは日本。これは、東洋から更に離れている日本にまで、殆ど略奪集団による侵略がなかったからです。
また、とりわけ共同体体質が強かった縄文人たちは、朝鮮からやってきた支配部族に対して抵抗せずに受け容れています。それは共同体体質故に、秩序収束⇒規範収束(身分序列や生活規範)が強いからです。

参考:10/17なんでや劇場(3) 武力時代の東洋の共同体質⇒秩序収束⇒規範収束 [8]

●なんでや劇場資料『私権圧力と過剰刺激が物欲を肥大させた』図解

図解2-①「略奪闘争の発生と国家の形成」

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略奪闘争の勃発について見てきましたが、いかがでしたでしょうか?歴史的には、人類はこの後6000年、私権時代を送ることになります。そして、現代が私権時代の終焉を迎えようとしている時です。この歴史的な大転換において、次代の進むべき道を指し示すには、歴史事実の認識が重要となってきます。次回も引き続いて私権時代初期の歴史について扱っていきたいと思います。

では…さようなら~~っ!!

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