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江戸時代の思想12~天下の台所大坂の商人【経営者】たちによる社会統合観念追求の場「懐徳堂」~

前回は、大衆支配のための既成観念を全的に否定し、新概念を創出しようとした、農民出身の「安藤昌益」の思想を学びました。
 
今回は町人の思想を学んでいきます。
町人の思想と言えば、本ブログでもすでに扱っている、
京都の伊藤仁斎が有名ですが、今回は大坂の町人であった「富永仲基」にスポットを当てます
 
富永仲基は大坂の商人の家に生まれ、それまでの既成思想である儒教・仏教・神道を全否定し、それに代わって大坂の商人の現実を肯定した「誠の道」を唱えました 🙄 。
 
彼が思想を追求した場が「懐徳堂」です。懐徳堂とは大阪の商人がお金を出し合って作った民間の学校で、現在で言えば総合大学あるいはシンクタンクのような教育研究機関でした(現在の大阪大学の源流の一つがこの懐徳堂です)。
 
そこでは、何が学ばれ、何が追求されていたか?
まず、富永仲基の思想を『江戸の思想史』(田尻祐一郎著 中公新書刊) [1]を手がかりに学んでいきます。
 
いつも応援ありがとうございます。



●既成思想を全否定して、現実を肯定する『誠の道』を唱えた富永仲基
日本の江戸時代の思想を田尻祐一郎著『江戸の思想史』 [1]より。
 

 一七二四(享保九)年に有力町人(五同志)の手で大坂に開かれた漢学塾で、町人に対する官許の教育機関として発達したのが懐徳堂(「懐徳」は『論語』に拠る)である。富永仲基(一七一五〔正徳五〕年~一七四六〔延享三〕年)は、その五同志の一人、道明寺屋吉左衛門の子として懐徳堂に学んだ。早熟の仲基は、十五、六歳の時に、儒教の教説を批判した書『説蔽』を著して師の三宅石庵から破門された。その後、「加上(かじょう)」説を独創し、その視点に立って仏教思想史を構想した『出定後語』を著し、さらに『翁の文』によってて儒、仏、神の教説を超えた「誠の道」を唱えた。

 

 「加上」とは、後世になればなるはど、議論は前のもの付加された部分が重なっていくことで精緻になり、より古い時代のものを装うようになるという理解である。
 
仏教をはじめその他の教えも、まず原型があって、長い時間を経て新しく付加品工されたものが、さも古いものであることを装いながら広がって今日の教義教説になったというのである。つまり教義や用語法を丁寧に分析していけば、儒教にせよ仏教にせよ、より古い単層の教説と、より後世の複雑な層を区分して、歴史的な形成と発展を跡付けることが可能だとする。
仲基はこういう方法的な自覚に立って、『説蔽』や『出定後語』を著した。とくに『出定後語』は、すべてが釈迦の真説だとされた大乗仏典について、その多くが後世の編纂になることを明らかにしたもので、仏教教学に強い打撃を与えた。
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 画像は『出定後語』
画像はコチラ [2]からお借りしました。

 
富永仲基は江戸時代の中期の思想家で、大坂の醤油醸造業・漬物商を営み、懐徳堂を創建した五同志の一人である道明寺屋吉左衛門(富永芳春)の三男として生まれました。
三宅石庵に学び、11歳で懐徳堂(官許の学問所であり、大阪大学の前身)の教授職に就くほど優秀な人でした。
懐徳堂(官許の学問所)の学風である合理主義・無鬼論の立場に立ち、儒教・仏教・神道を批判しました。 
 
儒家思想を歴史的に批判した『説蔽』(せつへい)を若くして著述。そのために石庵に破門されたといわれますが、これは、富永を批判する仏教僧側からの主張とも言われ事実としては疑われています。
 
後に仏教研究に取り組み、その成果を『出定後語』(しゅつじょうこうご)にまとめます。また『翁の文』(おきなのふみ)を著し、日本においては神仏儒の三教とは別の「誠の道」を尊ぶべきことを説きました。その学問は、思想の展開と歴史・言語・民俗との関連に注目した独創的なもので、後発の学説は必ず先発の学説よりもさかのぼってより古い時代に起源を求めることを指摘した「加上説」(かじょうせつ)が有名です。
 
【加上説】
仲基はごく若いときに『説蔽』と題する書を著しました。この書は今に伝わらないのですが、後に刊行された『翁の文』によってその概略を知ることができます。彼の独創である「加上説」の理論で儒教を論ずる書でした。加上説とは、どんな思想も後代にいけばいくほど、後の人が勝手に自分の解釈や考えを付け加える(加上する)ので起源を遡る必要があるというものです。ちなみに、仲基は仁斎も徂徠もそれに気づかず末節を論じていると批判しています。
 
このように古い時代に起源求める姿勢から、富永は儒教は中国の思想、仏教はインドの思想であり、それら外来の思想を日本人がありがたがることに疑問を持ちます。また、神道も古すぎて現代にはあわなくなっていることに気づきます。
そして、神・仏・儒ではない新たな道として「誠の道」という新たな思想を打ち出します。
「誠の道」とは簡単に言えば、真面目に働いて、よい商品(製品やサービス)を作り、それに正しい利益を乗せて、人々に販売し、世の中の役に立って人々に喜んでいただいて、暮らしなさいという、商人や町人の現実に立脚し、それを肯定した思想です。
 
参考:WEB懐徳堂 [3] 
   るいネット 富永仲基~江戸時代大坂で儒教・仏教・神道を批判した町人学者 [4]
   副島隆彦『時代を見通す力』 [5]
  
●大坂商人がつくった学校「懐徳堂」 
神・仏・儒を等しく批判し、『誠の道』という現実を直視した新たな概念の必要性を語る富永の思想の背景には「懐徳堂」という学び舎があります。懐徳堂とは大阪の商人がお金を出し合って作った民間の学校でが、なぜ民間人が作ったのか?そしてなにを学んでいたのか?
当時の大坂の状況から考えていきます。
 
『学問所・町人塾が育んだ大阪人の進取の精神』 [6]より引用します。
 

(1)大阪の進取の精神の支えとなった学問所と町人塾
 
大阪は、その長い歴史のなかで、都市としての性格を何度か大きく変えている。
古代では幾たびか首都であり、中世には水陸の交通の要衝であった。戦国時代には蓮如の大坂本願寺建立にともない寺内町すなわち宗教都市として発展し、天正11年(1583)秀吉の大坂城築造により、日本一の軍事都市、城下町に姿を変えた。
そして、1615年の元和偃武以降、大坂は徳川幕府の方針により、経済都市としての発展が方向付けられた。
大坂は江戸時代に、天下の台所と呼ばれる大経済都市に成長した。大阪湾に面した港には諸国の船が出入りし、淀川は京の都へ、大和川は大和の地へと連なっていた。市内には縦横に水路が通い、この交通の便が繁栄の源であった。
また銅の精錬、菜種油や綿実油の製造、綿と木綿の生産、酒造業、薬種、造船など先進工業都市の顔を持つとともに、堂島米市場や両替商に代表される商業、金融の一大中心地でもあった。
大坂の市内地域ともいえる大坂三郷の町人の人口も、17世紀末の寛文5年(1665)には27万人であったのが、18世紀中ごろの宝暦9年(1759)には41万人を超えている。ほかに武士階級が約8000人いたという。領主を持たない大坂では、武士階級とは、大坂城や東西奉行所そして諸藩の蔵屋敷勤務の武士とその家族であり、常に異動(転勤)する人達であった。大坂の40万余の人口の、98パーセントが町人で、まさに商人の町であった。
 
中之島に多く設置された全国諸藩の蔵屋敷も、幕末の天保6年(1835)には111か所を数えた。諸藩から大坂へ送った廻米高も、19世紀初めの文政年間には99藩から192万石に達し、そのほか蔵屋敷を経由しない納屋米が蔵米の四分の一ほどあったといわれている。
諸藩の蔵米や国産物を販売する町人の蔵元や掛屋、そして金融機関とも云うべき両替商は徐々に力をつけ、大名貸を行っていた天王寺屋や鴻池、住友などの豪商は巨万の富を築いた。
まさしく、幕末の大坂の儒者広瀬旭窓がその著書「九桂草堂随筆」のなかで「天下の貨
、七分は浪華にあり、浪華の貨、七分は舟中にあり」といった賑わいぶりであったのである。
 
しかし、大坂の商人は経済力をつけながらも、士農工商という封建的身分制度の下位に置かれ、武家政権である幕府から、さまざまな名目で上納金を取られていた。
 
 (中略)
 
大坂商人は、当時の社会的地位では下位におかれつつ経済活動を行い、その上、その蓄積を支配階層の武士階級に吸い上げられていた。そうしたなかで彼らは、自らの存在価値を確認し、商業活動の正当性を確立する必要があった。そのためにも大坂商人は自分たちの学問を発展させ、独自性をもつすぐれた学問を創り上げた。

 
当時の大坂は「天下の台所」と呼ばれる、日本市場の要(流通の拠点)でした。
例えば、米をはじめとする商品相場は大坂で決まり、それが全国で使われました。
かつ、人口の98%が町人という、文字通り商人の町が大坂です。
 
このような天下の台所で、懐徳堂はどんな期待を受けて設立し、発展したのでしょうか?つづき引用します。
 

 懐徳堂の成立と発展
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 画像:三宅石庵書、懐徳堂幅 リンク [7]よりお借りしました
大坂町人の子弟も為政者なみの儒学的教養を身につけることのできる教育機関を作ろうと、五同志と呼ばれる大坂の5人の富裕町人が費用を出し合い、そのころ設立された塾の一つとして、懐徳堂は創設された。
 
享保9年(1724)、五同志の一人富永芳春、またの名を道明寺屋吉左衛門の隠居所跡である船場尼崎町1丁目の地に、朱子学者の三宅石庵(1665-1730)を学主に仰ぎ、五井蘭洲(1697-1762)が助教に、中井甃庵(1693-1758)が学問所預り人に就任した。
 
蘭洲は懐徳堂の知的な方向性を定めた学者であり思想家であった。彼は、商人の学校には真に知的なものの追求は必要ないという安易な折衷主義を排し、一貫した哲学的基礎を大切にする、本当の意味での学問的指導が行われるよう、方向付けを行った。
 
もちろん高度な講義ばかりではなく、地域の児童のための初歩の読み書きや計算も教えられ、朝8時から夜7時まで授業が行われたという。
 
しかし懐徳堂を他の学問所や塾からはっきり分ける相違点は、商人世界に道徳的認識を与えるという使命感を持ち続けたことである。
 
それを実現するため、甃庵らは幕府に対して、大坂の商人層を教育する事業の承認を求め、創設2年後の享保11年(1726)に許可されている。
懐徳堂は私的な学校から公的な学問所へと再出発したのである。懐徳堂には幕府から用地として土地が与えられ、種々の税も免除された。こうした動きには、江戸の儒者林羅山の設立した私塾弘文館が、幕府の援助を受け昌平坂学問所へと成長したことが参考となったに違いない。ちなみに昌平坂学問所が老中松平定信の学制振興策により、幕府直轄の官立学問所となったのは、のちの寛政9年(1797)のことである。
 
官許後最初の講義で、石庵は78人の指導的商人達を前に学問所の基本的哲学を述べた。題して「官許学問所懐徳堂講義 論孟首章講義」。ここで彼は「論語」では、道徳的な知識を学ぶ目的は人の道を理解することにあると述べていると説き、「論語」を読み解く鍵として「孟子」のなかに、正義の概念に基づく行為の理論があると説明した。正義の概念と人間の欲望すなわち利を求める情念とを哲学的に対比させ、「利は義なり」と結論づけた。
 
商行為によって獲得された生計は、社会の他の職業集団、それが武士であれ農民であれ学者であれ、彼らの努力によって得られた生計となんら異なるものではない。商人の行動は、社会の他の成員のそれと同様に「正義」によって評価されなければならないと講じたのである。 
江戸時代の一般的な道徳哲学では、商人は社会秩序の下位に位置づけられ、商行為の正当性は理論化されていなかった。そうした中で懐徳堂の学問的追求の方向は、制定された規則にも表れていた。学校のなかでは、いかなる人間も講義への出席は差別されなかった。また商人は商売上の急務のため講義中に退出することもできた。

●大坂の商人【経営者】たちによる社会統合観念追求の場が懐徳堂
そこではどのような追求がなされたのか?
懐徳堂の代表的な学者たちがどのような学説を展開したかをつづいて引用します。
 

二代目学主甃庵の長男であり四代目学主を継いだ中井竹山(1730-1804)は、その弟中井履軒(1732-1817)とともに懐徳堂を代表する学者となった。竹山は老中松平定信に経世済民の著作「草茅危言」を献じたことで有名である。草茅とは民間、危言には正論の意味を持たせている。
 
「草茅危言」のなかで竹山は、国家制度の改革を大胆に提言している。参勤交代制度の軽減、武士の世襲的特権としての俸禄制度の廃止、公的な高等教育と初等教育のための学校を全国的に建設すること、また教師は身分でなく実力で選ばれ、それに免許を与えることなどである。また貨幣制度の整備についても述べているが、この竹山の貨幣論を、より発展させたのは懐徳堂に学んだ草間直方であった。
草間直方(1753-1831)は、図版入りの日本の貨幣史「三貨図彙」を著し、貨幣論と国家財政論を展開した。これは明治初年に日本の経済構造を根本的に再編成する際、大蔵省に基本的な文献として採用されたものである。直方は商家に生まれ、大坂の両替商鴻池の丁稚として商売の道に入った。のち両替商と大名貸しの担当として大きな功績をあげ、正式に主家の養子となり、鴻池伊助と名乗った商人学者であった。
富永仲基(1715-46)は「出定後語」や「翁の文」で、聖典といわれる古典的な文献をとりあげ、権威然とした仏教や儒教、神道をも厳しく批判している。そして善であるとは日々の生業からなる現実の世界で当たり前なことをなすことであり、他人に対し同情心をもって接し、自分をしっかりと保つことであると説いた。五同志の一人富永芳春の息子であり、早世の天才である仲基の思想は、のち国学の本居宣長や平田篤胤に影響を与えている。
 
山片蟠桃(1748-1821)は「夢の代」で知られている。これは天文、地理、神代、歴史、制度、経済等を論じ、宇宙や地動説の肯定、神代への批判、唯物論による無神論など、当時としては破天荒な開明的思考と科学的合理精神に満ちた大著である。彼は懐徳堂で学ぶとともに、大坂の誇る天文暦学者麻田剛立からヨーロッパ最新の天文学を学んでいたのである。なお懐徳堂では大儒中井履軒ですら「越俎弄えつそろう筆ひつ」で人体解剖の観察を記述するなど、洋学をも研究する伝統があった。蟠桃という号は商家の番頭の音にちなみ、商人としては仙台藩の財政再建に成功したことで有名である。

大坂の商人によって設立された懐徳堂は、単に商業を道徳的に位置づけるだけにとどまらず、国家制度や貨幣制度論、思想や地理歴史、さらには宇宙論(地動説や太陽暦の提唱)にまで及ぶ、現代で言えば総合的な教育研究機関だったのです。
注目すべきは、この懐徳堂の思想家たちは、みな経営者です。
山片蟠桃(1748-1821)は、大坂の豪商「升屋」の番頭として主家の経営を立て直した実績により、仙台藩、館林藩、川越藩に招かれ、その財政再建に貢献しています。
(彼の「蟠桃(ばんとう)」という号は「番頭」の意味です) 
草間直方(1753-1831)は鴻池本家に丁稚奉公から始め、鴻池一統として大阪・今橋に両替商を開いた人。大名貸しを通じて盛岡藩、熊本藩、佐賀藩などの財政顧問を務め、また幕府が財政破綻を回避するため豪商から「御用金」を徴収、諸藩に資金を融通しようとした政策に反対、退けています。
『NPO法人江戸しぐさ』第19話「懐徳堂と逸材たち」 [8]
 
 【まとめ】
【1】当時の大坂は「天下の台所」=日本市場全体の要でした。したがって、大坂の商人は社会(=日本全体)を対象化していました。そのため、社会統合観念の必要性を感じとり、自分達で学問体系を創る学問所や塾を作りました。懐徳堂もその1つで、経営者が私財を投資してつくった総合教育研究機関でした。
懐徳堂では商人世界に道徳的認識を与えるためにどうするかだけではなく、富永仲基のような現実に立脚した思想「誠の道」、中井竹山の国家制度・教育・貨幣論、草間直方の貨幣論や国家財政論、山片蟠桃の天文学、地理学などあらゆる分野を学び、政策提言まで行なっていたようです。
 
また、彼らが観念思考の専門家(プロ)ではなく、経営者であった事も注目すべき点です。草間直方や富永仲基、山片蟠桃も経営者です。真に素人が集まり、社会をどうするかを、経営者が中心となって集まり学びあいながら、考えていく場が「懐徳堂」であると言えます。
 
次回は、富永仲基の影響を受けた国学派の本居宣長の思想を紹介します。

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