前回の投稿では、イエという経営体(共同体)を母体にし、支配階級だけでなく庶民も(しかも半専任で)社会統合観念を追求したという江戸時代の特徴を紹介しました。
今回からは各思想家たちの観念追求過程をまとめていきます。
まずは、仏教(禅宗)を捨てて朱子学に可能性を求めた朱子学者たち、とりわけ「山崎闇斎」の観念追求過程を学んでいきます。
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日本の江戸時代の思想を田尻祐一郎著『江戸の思想史』 [1]より引用します。
仏教が築いてきた厚みはやはり圧倒的に偉大なものであり、江戸時代の初頭においても、〈人間とは何か〉という根源的な問題に突き当たった時、人々は、禅をはじめとする仏教から学ぶことで自らの思索を深めようとした。日本の儒教もまた、禅の伝統の中から、禅に対抗することによって生まれたという出自をもっている。
藤原惺窩(一五六一〔永禄四〕年~一六一九〔元和五〕年。『新古今和歌集』の歌人である藤原定家の一一世の孫。)は相国寺で、林羅山(一五八三〔天正十一〕年~一六五七〔明暦三〕年)は建仁寺で、山崎闇斎(一六一八〔元和四〕年~一六八二〔天和三〕年)は妙心寺で、それぞれが京都の臨済宗の名利で禅の修行をすることから学問を始めている。この三人はいずれも、かつて学んだ禅を離れ、人倫の道としての儒教を選んでいくのであり、江戸期の朱子学はこの三人から発展していくことになる。
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画像 左:藤原惺窩 右:林羅山
画像はコチラ [2]からお借りしました。
江戸時代の主要な朱子学者である藤原惺窩や林羅山、そして山崎闇斎は禅を学ぶ仏教徒でした。なぜ皆、禅を捨て、朱子学に収束したのか?山崎闇斎にスポットを当てて考えていきます。
◆山崎闇斎が仏教を否定したのはなんで?
山崎闇斎のプロフィールを高橋秀元『バジラな神々』「山崎闇斎の垂加神道と現人神になる実験」 [3]より引用します。
山崎闇斎(あんさい)は浪人の子で、名を嘉(ただし)といいました。両親は鍼灸で生計をたて、嘉は乱暴者だったので叡山に修行に出したのですが、叡山に賢人はいないときめつけ、勝手に山を降りて禅宗の妙心寺に入りました。ここでも手におえない乱暴をはたらいたのですが、土佐山内家の縁戚にあたる湘南和尚(しょうなんおしょう)に師事したのです。そして湘南和尚が高知の名刹、吸江寺(きゅうこうじ)の住職となったとき、ともに高知に下りました。そこで土佐藩の財政建て直しに奔走していた野中兼山(のなかけんざん)と知り合い、南学派の谷時中(たにじちゅう)から朱子学を学びました。そして禅僧を棄てて還俗し、朱子学者として再出発し、山崎闇斎と号して京都に私塾を開いて名声を博します。寛文5年(1665)、闇斎は保科正之の賓師として招かれ、吉川惟足の神道の講義を聞いて師事したのです。
画像 山崎闇斎 画像はコチラ [4]からお借りしました。
乱暴者だったため叡山に入れられ禅を学ぶことになった山崎闇斎ですが、禅は見切りをつけ、朱子学には可能性を見出し学んだようです。ただ乱暴者だったために禅に見切りをつけたわけではなさそうです。では闇斎は禅の何に気づき見切りをつけたのでしょうか?
闇斎は、かつて自らも学んだ禅による「心」の理解のどこに欠落を見たのだろうか。
(中略)
「五倫」は、父子・君臣・夫婦・兄弟・朋友という五つの人間関係で、儒教は伝統的にこれによって、個我ではない社会的な存在としての人間をイメージする。闇斎はそれを、「人の一身に五倫備わる」と端的に言った。「一身」は、振る舞い、行動と読んでよい。私たちが何か行動するのは、必ず人間関係の網の目の中で、ある役割を担ってのことである。私がいて役割を担うのではなく、時と場合に応じた役割の総体が私だと言ってもよい。
(中略)
「心」の工夫が必要なのは、「身」(振る舞い)を修めるためであり、「身」が修まるとは、「事」に適切に対処できるということである。「事」とは「日用人事」、つまり日常的・社会的な生活そのものである。世俗生活の外でまず自己の「心」を確立させて、それから世俗に降りてくるのではない。
闇斎によれは、人間のありようを個我として捉えることが、すでに誤りである。禅は「心」の把握については深いが、遺憾なことに社会的な広がりがもてないというのではない。
禅の捉える「心」の様態は、人間は社会的(人倫的)な存在としてはじめて人間であるという事実を見失ったその出発からして誤っている、闇斎はこう言いたいのだろう。そして闇斎は、儒教の内部にも「心」の捉え方を誤ったばかりに、禅に足元を掬われてしまった潮流が生まれたということで、陽明学をも徹底して批判していった。
日本の江戸時代の思想を田尻祐一郎著『江戸の思想史』 [1]より
禅(仏教)の概念は、「個人の悟」、「己の煩悩から解脱」など個人の心を対象としていますが、人間の心において決定的な役割共認を捨象しており、現実には使えないと闇斎は気づいたのでしょう。
近世の前期までは、禅を中心とした仏教が、人間の自己中心性の克服という課題に最も深く切り結んでいた。しかし禅仏教は、その課題を唯心論的に追い込み、世俗生活(人倫)の意義づけや、世俗社会の秩序をどうただしてゆくかという問題と心の問題を結合し統一的な解決をもたらすことができなかった。
『江戸時代の思想7 イエという経営体(共同体)を母胎に観念追求がなされた江戸時代』 [5]
「心」の本体は共認ですから、社会的役割を捨象している禅では、心の解明はできません。また、個人の心を内省的に追求している禅では社会統合観念にはなり得ないと闇斎は考えたのでしょう。
そこで、社会的な役割を対象化いる朱子学の方に、個人の心・意識の統合や社会の意識の統合の可能性を見出したのではないでしょうか?
さらに言えば、当時、仏僧は庶民から嫌われていました。これも見限る原因になったと思われます。
なぜ嫌われていたかを副島隆彦氏『歴史に学ぶ知恵 時代を見通す力』より引用します。
江戸時代の僧侶達は「宗旨人別帳」という現在の戸籍制度や住民票につながる基を管理していた。江戸幕府公認の仕事であり、すべての武士、町人、百姓もどこかのお寺の檀家になって、名簿に載らなければならなかった。
先祖崇拝と仏教は実は何の関係もないが、お墓がお寺にあるのは、壇家を従えるための墓質とするためである。そのため、葬式も僧侶が取り仕切るようになった。
もし、宗旨人別帳から削除されると「無宿者」「非人」となり犯罪者扱いとなるし、先祖のお墓参りをするためには、どうしてもお寺の坊主に頭を下げなければならない。
このようにして江戸時代には、仏僧たちは民衆にひどく嫌われる存在になっていったようだ。ただし、僧侶は漢文(中国語)が読める秀才人間たちだと考えられていた。
お坊様たちの仏教の教えは偉いものだというけれども、お経というのは、難しい漢文で書かれた、いったい、何を言っているのか今の私たちにさえ全く分からない理屈です。仏僧たちは、あの中味を分かりやすく信者や檀家たちに説明するべきである。
江戸時代にはもう、お坊様のお経はアホダラ経と呼ばれていた。何を言ってるかまったく意味が分からない。
江戸時代の僧は戸籍管理する「地方公務員」と漢文を読む「学者」を兼ねた身分でした。現在で言う特権階級です。
僧の管理する宗旨人別帳から削除されると犯罪者扱いになるので、庶民はどうしても彼らに頭を下げなければならないのですが、普段唱えているお経は何をいっているかわからず尊敬に値しない。このような不全が蓄積し仏教はアホダラ教と庶民から非難を受けたのではないでしょうか。
この不満が爆発したのが明治初期の「廃仏毀釈」です。寺や仏像に火放つほどの暴動ですからよほどの嫌われていたのではないでしょうか。
以上をまとめると、「仏教は社会統合観念にはならない」「庶民もバカにしている」という2つの理由から山崎闇斎は仏教を捨て、中国の社会統合観念である朱子学を学び始めたと考えられます。
◆朱子学から神道へ
このように朱子学を学び始めた山崎闇斎ですが、学びを深めていくうちに神道に可能性を見出し始めます。それはなぜでしょうか?
まずその当時の状況と庶民の意識はどうであったのかを副島隆彦氏『歴史に学ぶ知恵 時代を見通す力』よりポイントを要約します。
江戸時代を通してお坊様のほうが大きな神社の神官たちよりもずっと格が上だった。神社を監督するために「社僧」と呼ばれる監督僧が「別当」職として派遣されていたという事実があった。
江戸時代中期になると、仏僧たちは嫌われ、民衆は神道(神社)を信仰の対象にするようになった。
中でも、伊勢神宮が民衆の崇拝の中心となった。伊勢神宮の神官たちの中に、契沖や賀茂真淵クラスの、熱烈に天皇家を崇拝する激烈な思想の持ち主の神主たちが出現していた。
江戸時代は仏教の方が神道より上と扱われていたようです。しかし、民衆は格上である仏僧を嫌い、神道に可能性を見出していきます。これはなぜでしょうか。同著から当時の状況を抜粋します。
神道の神官たちは1千年間にわたって仏僧たちから学問のできない低い人間扱いを受けてきたこともあり、この民衆からの信仰を契機に仏僧を排撃するようになる。
吉田兼倶(卜部兼倶)は、「仏教の方が神道よりも格が上で優位である(仏が神に変じて地上に現れた)」とする本地垂迹(ほんじすいじゃく)説に対抗して、神道こそはものごとの根源であるとする唯一神道(吉田神道)をうち立てた。そして広く全国3000の神社を自分の影響下に置いた。伊勢神宮(伊勢神道)がこれに強く反発して争いになった。吉田兼倶は天皇や将軍・足利義政を味方につけて宗教界に権勢を誇った。しかしその実態は、中国から陰陽五行説を持ち込んで、これに仏教の密教儀式まで混ぜ込んだ、現世ご利益の現実的救済宗教だ。だから当時の民衆にもすごく人気があった。
”村の鎮守の森”という言葉に私たち日本人は自然に郷愁のようなものを感じる。このことはおいそれと、軽く見てはいけないと思う。きっと原始的な素朴な部族共同体の始まりがあったのだろう。村人たちの静かな心の休まる中心というのが何かあったのだろう。そこここの社や、祠を守っていた人がやがて神官、神主になっていったのだろう。
神道は民間の土着信仰と重なるところが多く、庶民の現実期待に応えてきた結果受け入れられるようになっていきました。「鎮守の杜」とも呼ばれるのもその一例でしょう。現実世界で庶民が信仰している土着的信仰に闇斎は可能性を感じ追求を始めたと考えられます。そして闇斎は神道の統合のために諸国を巡ります。
闇斎は諸国をめぐって日向神道、出雲神道、忌部神道、賀茂神道、御霊神道などを合わせ、伊勢外宮の神官、渡会延佳(わたらいのぶよし:1615~1690)にも師事し、朱子学を基調として陰陽道、気学などを応用した垂加神道(すいかしんとう、しでますしんとう)を工夫します。垂加神道では「天照大御神の道」(皇道)と「猿田彦大神の教え」(道を導く臣下への教え)からなるとします。この「道」と「教え」を正しい態度で「敬」(つつしみ)をもって貫くことによって、「宇宙の本体」と「道徳の根源」である国常立尊(クニトコタチノミコト)と合一するという「天人唯一の理」を説いたのでした。
この新たな神道を吉川惟足は承認し、山崎闇斎に「垂加」(しでます:一般的には“すいか”)の号を与えました。それで闇斎の神道は垂加神道と呼ばれます。闇斎は実証主義的な朱子学者で、人が神になりうるという神道の理論を実践したのです。『日本書記』に大国主命がみずからの奇魂(くしみたま)・幸魂(さきみたま)を三輪山に祀ったという記述に触発されて、朱子の「家礼」にしたがって霊璽(れいじ)をつくり、そこにみずからの霊魂を封じ、京都の自邸に祀りました。霊璽は中国の儒教において祖霊の御霊代(みたましろ)として用いられていたもので、神道では木主(ぼくしゅ)・神主(しんしゅ)とされ、神道の葬儀において亡き人の霊魂をとどめ、家の守護神として祀るようになるのです。
高橋秀元『バジラな神々』「山崎闇斎の垂加神道と現人神になる実験」 [3]より
山崎闇斎に関して『詳説日本史研究(リンク [6])により補足します。
闇斎一門を崎門学派と呼ぶが、この学派はやがて一種の神秘主義におちいり朱子学の思想を基本とする独自の神道説である垂加神道を説いた。
垂加は闇斎の別号で神垂冥加の語からでた。これまでの伊勢神道・唯一神道や吉川神道などを土台にしたもので、道徳性が強い。神道を儒教化したともいえるが、神の道と天皇の徳が一体であると説くことから、垂加神道は尊王論の根拠ともなった。
このように山崎闇斎は社会統合に役に立たない、かつ庶民から嫌われている仏教を否定し、より社会統合観念になりそうな朱子学に収束し、最後は庶民が信仰している神道に傾斜していきます。
これが後の尊王論となり、尊王攘夷論となり、倒幕→明治維新と社会変革を先導するイデオロギーとなっていきます。

