hylozoism(物活論)byフィリップ・ビーズリー
前回(魔術から近代科学へ3~略奪による共認破壊→恐怖と暗黒⇒自我収束をエネルギー源として架空観念を追求したギリシアの要素還元主義者
)に引き続き今回は山本義隆著『磁力と重力の発見』「第二章」の要約投稿します。
前回は、要素還元主義が成立した背景=「自分以外は全て敵」→「精神の恐怖と暗黒」の塊→「恐怖と暗黒」から逃れるために強力に自我収束→自我をエネルギー源として架空観念(ex.原子論)を追求を、ルクレティウスの著作を紹介しながら考察しました。
今回は「要素還元論」に対するもう一方の考え方「有機体的全体論」の磁力に対する考察と、その後の魔術との関係性について考えていきたいと思います。
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当時「有機体的全体論」を唱えた代表的な人物は、科学者というよりは医者として有名だったガレノスです。彼の著作をもとに、「有機体的全体論」と磁力との関係ついて紹介したいと思います。
前回に引き続き、山本義隆著『磁力と重力の発見』(みすず書房刊) [1]「第二章」より要約します。
4 ガレノスと「自然の諸機能」
エピクロスとその原子論にたいする厳しい批判的見解を、私たちは紀元二世紀のガレノス(131~201)の著書に見ることになる。「医学の父」とか「医聖」と呼ばれるヒポクラテスにより代表される古代ギリシャ医学の思想をヨーロッパ中世とアラブ社会に伝承したのがガレノスである。
ガレノスの医学思想・自然思想とともに彼の原子論批判がもっともよく論じられているのは、紀元160年代に書かれた、そしてガレノスの「主著」と見なされている『自然の機能について』のようであるから、以下で本書を見てゆくことにしよう。その第三巻には、
吸引にも二種類のものがあって、そのひとつは空虚充填による吸引であり、いまひとつは質の親近性によって起る吸引である。ふいごに空気が吸い込まれるのと、鉄が磁石に引きつけられるのでは、吸引のされかたが異なる。(p.211)
と記されている。つまり肺が空気を吸収するのは「空虚充填」という物理的で力学的な作用であるが、胃や腸が皮膜をとおして栄養分を吸収するのは「質の親近性」による生理的な働きであり、磁力はその後者に属するというのである。ガレノスにおいて特徴的なのは、磁力がこのように身体器官の生理的な作用に準じるものとして論じられていることにある。
さてガレノスは、そのような実体の質的な変化を基本的事実として認めるか否かにこそ、おのれと原子論者だちとの決定的な対立点があると主張する。すなわち「医学・哲学の領域において、何らかの意味のあることを宣言した人々」には二つの学派かおる。一方は「生成と消滅を受ける基体となる実体はすべて一体をなしているとともに、質的変化をうける」とする学派である。
ガレノスをもその一員―というより筆頭―とするこの学派は、たとえば身体に摂取された食物が血や肉になるのは同化とともに真に質的な変化が生じているからであり、同様に生長においても量的増大とともに質的変化が生じていると考える。それにたいしてもう一方は、「実体は不変であり質的変化を起すこともありえず、分断されて微細なものとなり、あいだにある空虚な空間によって区分されている」とする学派である(p.33)。この学派は、現象に見られる変化を見かけのものと考え、それを不変な実体(原子)の離合集散により機械論的に説明しようとする。
そしてガレノスは、この二つの立場の対立をより一般的に「自然の諸機能」を認めるか否かに帰着させる。前者のつまりガレノスの立場では「自然は物体より後のものではなく、……この自然こそが動物や植物の身体を構成したのであり、この場合自然は、一方では親近性のあるものを引き寄せこれを同化するとともに、他方では異質的なものを排除するというある種の機能を駆使する(p.34.cf.p.43)」と考える。
ガレノスの「自然」すなわち身体的自然本性は身体の各部位にその機能を遂行せしめる働きの総体を指し、そしてその全体としての働きが個別の器官に先行している。個々の器官は全体の中に置かれてはじめて、その固有の役割を担いうるのである。有機体的全体論と言えよう。それにたいして後者の立場では「自然にも魂にも、何らの固有の実体も、ないしは機能も備わっていないことになり、作用を受けて変化するということのない第一の諸物体〔原子〕のある種の凝集によって、生成と消滅が仕上げられることになる(p.33f)」。要素還元主義である。
結局のところガレノスの基本的な立場は、有機体としての身体各部には「引き寄せ力」「保持力」「変質(同化)力」「排除力」という「自然力(デュナミス)」が備わっていることを認め、かつこれらの力をそれ以上還元不可能なそれゆえまた説明不可能な自然の基本的事実として受け入れるということに尽きている。この点については「ガレノスが語る多くのことは説明されるべき現象を言い換えたにすぎず、ほとんど何の価値ももたない」という指摘は、還元主義の立場からすれば、当たっているだろう。
しかし、この時代の未成熟で粗雑な原子論でもって身体各部の生理的働きを性急に「説明」しようとする還元主義の試みは、どれほど巧妙にできていたとしても実際には空想でしがないであろう。それにくらべてこのガレノスの試みは、実際の観察にもとづいて生物に特有の代謝の働きを現象的にそれなりに正しく捉えたうえで、身体の各器官の働きを整理・分類する枠組を与えたことにおいて意味があったのではないだろうか。
5 磁力の原因をめぐる論争
むしろ問題は、ガレノスがおのれと原子論との決定的な分岐点をこの「自然の諸機能」を認めるか否かという問題に単純化しただけではなく、この視点をドグマ化して、無生物・無機物の物理的作用にまで野放図に押し広げたことにある。
ガレノスは「私はかつて、五本の鉄筆がたがいに一列にくっつけられているのを見たことがあるが、このとき最初の一本だけが磁石に触れており、その機能〔磁力〕は最初の一本からその他の鉄筆へと伝達されていた」と記し、そのうえでエピクロスの説明にたいする批判を延々と展開している。
その批判の鉾先は、エピクロスの原子論による説明では磁石に接触した鉄がさらに別の鉄を引きつける鉄の磁化現象を説明できないというその一点に集中している。
ガレノスは磁石の引力にたいするエピクロスの「説明」の難点をこのように暴きその欠陥を指摘することで原子論を退けているが、しかしだからといって、それにかわるより優れたないしより妥当な「説明」を提起しているわけではない。
ガレノスにとっては、磁石が鉄を引き寄せるのは、生物が飲食した食物から栄養物を吸収・摂取するのと同様の、それ以上還元不可能・説明不可能な性質―あえて言うならば生命的な働き―なのである。
エピクロスやルクレティウスが要素還元主義の原子論の立場から、磁力を論じる一方、ガレノス(医者)のように「個々の器官は全体の中に置かれてはじめて、その固有の役割を担いうるのである。」と述べ、有機体的全体論の立場を主張する者もいました。
個が原点とする要素還元論に対し、全体が原点とする有機的全体論の主張は、共同体的な価値観(精霊信仰的な自然観)を感じさせるが、磁力の説明に関しては、どちらも架空の観念にすぎず、説明しきれるものではなかったようです。
現実から遊離した科学者より、現実に人間や病気を対象としている医者の違いはあると思われるが(共認不全の度合いの違い)、結局はどちらもかなり観念的であり、空想の世界でしかなかったと思われます。
6 アプロディシアスのアレクサンドロス
磁力にたいするこのような生物態的で物活論的な見方を、私たちは、ガレノスの直後のアリストテレス主義者、アレクサンドロスにあらためて見出すことになる。
磁力と静電気力の現象面での違い、つまり、琥珀の引力は多様な物体に及ぶのにひきかえ磁石は鉄のみを引き寄せるという相違は、すでにこの頃にはかなり明瞭になっていたようである。そしてまさにこの点こそが機械論的ないし原子論的な磁力説明のアキレス腱であることを、アレクサンドロスは見抜いていた。
そしてそこから、アレクサンドロスは磁力が本質的に「遠隔作用」であることを結論づける。
アレクサンドロスによれば、第一に、磁力は直接接触している物体にたいしてみずからが動くことによって力を及ぼすという意味での「近接作用」ではない。「あるものたちは力と接触によって引き寄せる。そしてそれらは、運動を引き起すときにはみずからも動かされる。しかし磁石はそのようには引き寄せない。というのも磁石は動かないからである。」
そして第二にアレクサンドロスは、磁石が鉄とのあいだにある空気や水を引き寄せることなく鉄のみに作用する点を、琥珀の引力との決定的な違いと考える。
機械論や原子論にたいするここまでの批判は、それなりにポイントをついているし説得的である。
しかし、それではアレクサンドロス自身の磁力説明はどうなのかというと、次のようなもので、率直に言って理解しやすいものではない。
生き物が空気のなかに食物の気配や匂いを嗅ぎとり、栄養を求めて本能的に食物に引き寄せられるように、鉄がおのれの栄養を求めて磁石に引き寄せられる―より正確には、鉄が自分から磁石の方に動いてゆく―ということのようである。
ガレノスと同様ではあるが、しかし鉄と磁石の役割は入れ替わっている。つまりアレクサンドロスにあっては、磁石のみならず鉄自身が生き物に擬せられているのである。そして最後にアレクサンドロスは、「それにとって自然なものにたいする欲求を有しているものは、感覚や霊魂を有しているものだけではない。このことは霊魂を有していない多くのものにもあてはまる」と結論づけている。アレクサンドロスもまた、磁力を一種の生命的・生体的な力と見て済ませる物活論に逃げ込んだのである。
ともあれこうして玄妙不可思議な磁力にたいするギリシャ哲学の立場は、大きく二つに分れることになった。
一方には、デモクリトス、エピクロス、ルクレティウスたちの原子論による説明、およびエンペドクレス、ディオゲネス、後期プラトン、プルタルコスたちによるミクロ機械論的な説明、総じて還元主義の立場からの近接作用論が置かれる。他方には、タレス、初期プラトン、アリストテレスの磁力を神的で霊的な能力と見る見解、そしてガレノス、アレクサンドロスによる生命的ないし生理的な磁力観すなわち有機体的全体論がある。この後者の二つの立場は、ともに磁力をそれ以上説明の不可能な遠隔作用として受け入れるものである。
力についてのこの対立が、近代になって重力をめぐってデカルト機械論とニュートン主義者のあいだで再現されることになるのを、私たちはやがて見ることになるであろう。
実際、近代になって再登場した機械論・原子論にもとづく議論―近接作用論―は、基本構想としてはこれらの古代の還元主義の復活・踏襲であり、他方でニュートンの重力理論は、天体間の重力を端的に自然の事実として―それ以上の説明の不可能な事実として―受け取るという立場を標榜する。『プリンキピア』でニュートンはデカルトたちの恣意的で空想的な機械論的モデル作りを「仮説の挫造」として退けた。
それにたいしてデカルト主義者たちは、物体(天体)が空虚な空間をへだてて力を及ぼしあうというようなニュートンの重力論は現象の言い換えにすぎないと批判し、その「説明」を要求したのである。
しかしそれは千数百年も後のことであり、実際には、このギリシャ哲学の到達点、とりわけ機械論的還元主義による磁力の説明は、紀元二世紀末から三世紀初めにガレノスやアレクサンドロスが批判的に言及したのを最後に、ヨーロッパ社会ではほぼ完全に見失われてゆく。
こうして「磁力を説明する」という試みはもとより、「磁石にたいする科学的な観察」でさえも、ヨーロッパではほぼ千年間見失われてゆくことになる。しかし、そのことは磁石についての関心が薄れたということを意味しない。磁力とその不思議そのものは変わらず人の関心を惹きつづけ語り継がれていった。磁石は近代物理学のもつ関心とは異なる観点から注目され続けたのである。
磁力に対する要素還元論と有機体的全体論の対立は、近代の重力をめぐって、デカルトとニュートンの間で繰り返される事になる。
一般的には、デカルトと同じく機械論(要素還元論→機械論)の立場であるコペルニクスやガリレイが「地球は磁石である」という認識を獲得したことによって、近代科学への道が開かれたと言われています。
しかし、彼らは磁力や重力のような遠隔力の説明が最後までできませんでした。
最終的に遠隔力の説明を成し遂げたのは、ガレノスの有機有機体的全体論の系譜であるケプラーやニュートンでした。
機械論的還元主義による磁力の説明は、三世紀初めを最後にヨーロッパ社会ではほぼ完全に消滅しますが(近代で復活する)、磁力を一種の生命的・生体的な力としたガレノスの有機有機体的全体論の考え方は、地球が霊魂を有した生命的存在であると考えていた魔術師たちに受け継がれていきます。
そして、霊魂論や物活論の色彩を色膿く帯びたケプラーや錬金術に耽っていたニュートンたち〈魔術師・錬金術師の系列〉によって、魔術的なものとして論じられてきた遠隔力が解明された(最終的には数式によって)という事実は、興味深い話です。
とは言え、西欧の魔術師の自然に対する考え方は、精霊信仰にあるように自然に対する畏敬の念ではなく、精霊を支配するという自然支配の考え方です。
「魔術とは [2]」より引用します。
中世の魔術師は、精霊と呼ばれる霊に自らの要求を実現させる方法を見つけました。この方法によれば魔術師は精霊を呼び出し、精霊とコミュニケーションをとる事により自らの望みが実現可能かどうかが分かります。
この場合大切なことは精霊に望みをお願いするのではなくあくまでも絶対服従!させるという事です(すなわち強靭な意思!)
これにより、自分の望みがかなうのかかなわないのか、かなうとしたらいつかなうのかという疑問はなくなります。
すなわち、精霊に”いついつまでに、この望みをかなえよ!”と命令すればよいのです。
要素還元論→機械論せよ、有機有機体的全体論→魔術にせよ、ヨーロッパ社会においては地球や自然も支配する対象としか見る事ができず、そこにおいても発生する共認非充足による心の闇や恐怖は深く、強く自我に収束するスパイラルから抜け出す事はできない構造と思われます。


