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明治維新と「金貸しの国」フランス

明治維新以降の近代日本において、西欧諸国からの外圧と制度・思想面での影響が多大であったことは言を待たない。
そこで、幕末から明治維新にかけての日本を取り巻く外圧状況を明らかにするために、当時の西欧列強の状況を明らかにしてゆきたい。
今回は江戸末期の幕府に介入し、その後明治新政府においても、法制度や、金融制度に多大な影響を与え、思想面でも自由民権運動の中核思想となり、産業面でも、富岡製糸工場の建設などを行った、近代フランスを見ていきたいと思う。
「金貸しの自由の国」を創設したフランス革命
1789年フランス革命が勃発し、人権宣言が採択される。
このフランス革命に対してロスチャイルド、ゴールドスミス等ユダヤ人の銀行家たちが金銭支援をしていたといわれている。
おそらくそれは間違いないだろう。何故なら、この人権宣言は、あらゆる人種差別、職業差別の撤廃、所有権の不可侵を謳ったものだが、当時キリスト教は(イスラム教も)利子を取る金貸し業は認めていなかった。従って金貸し業は必然的に多くのユダヤ人の生業となってゆく。つまり、当時のヨーロッパ社会において最大の人種差別、職業差別の対象はユダヤ人の金融業者であり、差別撤廃、所有権の不可侵を謳った人権宣言は、ユダヤ人の金貸しから見れば、実に都合がいいものであったからである。


この「金貸しの自由の国」を作るに当たって、おそらくフランスは予め狙われていた可能性が高い。当時フランスブルボン王朝は、プロセイン、オーストリア、スペイン等の王朝に比して、最も弱体であり、かつアメリカ独立戦争への介入によって財政危機が深刻化していた。また「百科全書派」始めとして近代思想の「進歩派知識人」が多数存在していた。教授、弁護士、文筆家、公証人、医師などのインテリ階級は、体制に対して極めて批判的であった。金貸したちにとっていわば最も付け入り利用しやすい対象だったのである。
革命後、農業社会であった当時のフランスは、ユダヤ人の金貸しが集結することで、忽ち「金融と農業の国」(山川書店・世界史)となっていく。そして工業が未発達な当時のフランスにおける、金貸したちの有り様は、いわゆる高利貸しと、国家や海外への投機活動であった。
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バスティーユ牢獄を攻撃するパリの民衆        アルプス越えをするナポレオン
画像はそれぞれこちら [3]こちら [4]からお借りしました  
ヨーロッパ全土にフランス革命を輸出したナポレオンと金貸し
フランス革命の後、フランスはジャコバン派(左派)、ジロンド派(いわゆるブルジョア革命派)、王党派入り乱れての内戦と相次ぐクーデターによって、社会は混乱し、もともと財政危機であったフランスは1000倍もの急激なハイーパーインフレに見舞われる。この混乱の中で18世紀末ナポレオン将軍が台頭する。そしてイタリア、エジプトに遠征を始めたことを皮切りに全ヨーロッパに進撃を開始する。
ナポレオンは1799年にクーデターによって政権を獲得すると、翌年フランス銀行を設立し、フランス民法典(世界初の近代法制)を施行する。
そして1806年にはプロセイン・ロシア連合軍を破り、イギリスを除く全ヨーロッパを支配・服属下におく。そして、支配下に置いた国家に対しては、上からの民主化を実施してゆく。いわゆる「革命の輸出」である。
しかしナポレオンの栄華は長くは続かなかった。
1810年ロンドン証券取引所のフランシス・ベアリングが死去し、ロスチャイルドの三男であるネイサンが主導権を獲得すると、ナポレオンの支配下に置かれた各国の対仏同盟の過半の資金を調達し、対ナポレオン包囲網の形成の後押しをする。
そして1812年ロシア遠征からの撤退を皮切りにナポレオンは敗退を重ね、1815年には“ワーテルローの戦い”でイギリス・プロシア連合軍に敗北し、セントヘレナ島に流刑となる。
折りしも、この結果を予測していたように、イギリスのネイサン・ロスチャイルドは、英国債への投機で自らの財産を2500倍に膨張させる。当初彼は、ナポレオン軍優勢のデマを流し、暴落したイギリス国債を買占め、大儲けしたのだ。
そして、この過程で多くの投資家は没落を余儀なくされる。その隙を突いて仏ロスチャイルドは対仏同盟国に対して7億フランの賠償金を負ったフランスに大半の資金を貸付け、それに年利50%もの莫大な金利を課す。
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画像はこちら [6]からお借りしました。
イギリス・フランスで主導権を確立したロスチャイルド
この過程をどのように見たらよいのだろう。おそらく最初全ヨーロッパの金貸したちは、各国の王政を弱体化させ、各国を民主化する=金貸しに有利な世の中にするためにこぞって、ナポレオンを支持し、資金を調達したと思われる(おそらくロスチャイルドも含めて)。少なくともナポレオン単独の力では、市民兵に過ぎないフランス軍が各国の正規軍に勝利し続けたことは説明がつきにくい。
しかし王政がナポレオンとの戦いに敗北し、弱体化したと見るや、イギリスにおいて支配権を確立したロスチャイルドは、むしろナポレオンが新たな絶対者となるのを嫌って、「用済み」として掌を返し、ナポレオンを切り捨てたのだろう。そうでなければナポレオンの急速な弱体化も説明がつかない。
資金援助を受けた対仏同盟の王朝たちは息を吹き返し、各国王権(フランス含む)の首根っこをつかんだロスチャイルドは、他の投機家の没落を尻目に金融界の覇者として君臨することになる。
各国に足場を得たロスチャイルド家は1816年ウィーン会議(ポスト・ナポレオンの国際会議)の直後から、息子たちにロンドンに続いて、パリ、ウィーン、ナポリといったヨーロッパの主要都市に拠点を築かせていく。
ロスチャイルドによるフランス金融支配を確立した2月革命
1848年2月フランスに2月革命が、そしてドイツとオーストリアに3月革命が勃発し、王政連合たるヨーロッパのウィーン体制は崩壊する。第2共和制の成立である。そして同年ナポレオン3世は国民投票によって大統領に任命される。
そして、この過程で、フランス銀行はロスチャイルドに連なる200家族によってほぼ独占的に支配されることとなる。
政権基盤が弱く、左右両党派からの介入に苦しんだナポレオンは1851年軍事クーデターを起こし自ら皇帝の座に着き、政権を安定しようとさせる。第2帝政の開始である。
そして、ナポレオン2世のフランスは、父親と同様海外に覇権を求めようとする。当時は列強の植民地争奪の時代に突入していたが、政情の混乱と賠償金による財政難等の事情から、イギリスに対してフランスは工業化の面からも、植民地獲得の面からも明らかに立ち遅れていた。
しかし、ナポレオン2世のフランスは父親ほどの勢いはなく、せいぜいイギリスの後を付いてロシアとのクリミア戦争や、清とのアロー号戦争に参戦する程度であった。
しかも1861年にはメキシコ遠征に失敗し、一気に政権基盤は弱体化する。それどころかドイツ隣国ドイツの統一による国勢の強化に怯える状態であった。
実際1870年には独仏戦争によってパリは包囲され、第2帝政は崩壊する。そして自治政府であるパリコミューンが成立。政府軍との戦いによりコミューンが崩壊して後、1875年第3共和制に移行する。
1860年以降のフランス国は、このような内外からの圧力によって火の車状態で、とても海外に手を出す余裕は無かった筈の時期である。
しかしフランスが幕府を通じて日本に食指を伸ばそうとしたのは、まさしくそのような本国が火の車の時期だったのである。
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フランス2月革命 画像はこちら [8]からお借りしました
幕府軍事顧問ロッシェとグラントリアン
明治維新前夜イギリスは薩長に、フランスは幕府に対して工作を行なおうとしていた。
その工作を行なっていた幕府の最高顧問は、ロッシェという人物である。彼は幕府に深く取り入り、軍事顧問団を招き、製鉄所、造船所を建立した。彼は徳川家を議長とする、諸侯による議会政治を構想していたという。
では、ロッシェとはどのような人物なのだろうか?
ロッシェはフランスのグルノーブル出身。1828年、グルノーブル大学に入学するがわずか半年で退学し、アフリカのアルジェリアに派遣されるフランス軍の遠征軍に参加し、アルジェリア侵攻以来フランス軍に対する抵抗運動を行っていたアブド・アルカーディルに対して戦闘を停止するよう交渉した。その際彼は、フランス軍とアル=カーディルの二重スパイを務めていたといわれている。 その後、彼はアフリカ諸国で総領事を務めることとなった。特に1860年代初頭に領事を勤めたサドク・ベイ治下のフサイン朝チュニジアでは、憲法制定運動のハイルディーン・パシャに接近し、近代化=西欧化改革の助言者となった。いわば工作員そのものともいえる人物である。そしてロッシェはグラントリアンのメンバーとされる。
ではグラントリアン(大東社)とはどの様な組織なのか?
イギリスのフリーメーソンリーが正規のフリーメーソン組織である事に対して、非正規のフリーメーソン組織の代表がフランスのグラントリアンである。
仏大東社は、英米系のロッジと違い、政治活動に加わる者も少なくなかった。フランス革命に身を投じるものも数多くいた。フランス革命における陰謀家として名高いオルレアン公もその一人である。
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Grand Orient de France(大東社)                 レオン・ロッシェ
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フランスで大東社がとりわけ政治的影響を強めて行くのは、19世紀後半、第三共和制期に入ってからである。この19世紀後半はロスチャイルドのフランス支配が一層強まる時期であり、ロスチャイルドがグラントリアンに強い影響力を有していたことは、間違いない。
1875年第3共和制が成立すると1877年9月13日、仏大東社は憲章を改訂して「至高の存在への尊崇と信仰」の義務規定を撤廃し、「良心の自由と人間性の確立」を新たな基本理念と定めた。つまり無神論の肯定であり。教会と王権支配への共認闘争の宣言である。これを基本理念の逸脱と見なした英系ロッジは、仏大東社の認証を取り消した。その後グラントリアンは自由・平等・博愛を理念とする、社会民主主義勢力(一部共産主義勢力)の拠点となっていく
なお日本では西園寺公望や戦後の鳩山がグラントリアンとされている。
火の車であったフランスは日本に介入する余裕はない。グラントリアンたるロッシェは火の車である母国フランスの使徒というよりも、ロスチャイルドのエージェントとして、日本に対する工作を行いに来たという可能性が、極めて高いといえよう。

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