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10/9なんでや劇場レポート(2)~現在求められているのは、共認収束の新パラダイムに則った観念 ~

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「10/9なんでや劇場レポート」第二弾です。
  

10/9なんでや劇場3 現在求められているのは、共認収束の新パラダイムに則った観念 [1]より
ここまでの検討で、それぞれの時代が求めるパラダイムの軸上にある思想しか登場しなかったことがわかる。
例えば、古代思想が登場した背景にあったのは、東洋では社会統合期待、西洋では救い期待で、共に安定期待という概念で包摂することができるが、古代にはこの安定期待のパラダイムに沿った認識しか登場しなかった。性欠乏・物的欠乏⇒私権拡大を正当化したのが近代思想であるが、ここでもこのパラダイム上の認識しか生み出されなかった。

 
前回の記事 [2]では、古代宗教・近代思想が登場した背景を追求しました。
そして、古代宗教については、東洋では支配者層による長引く戦乱⇒社会統合期待から儒教が登場、西洋では皆殺しや奴隷制の常態化⇒救い期待からユダヤ教やキリスト教が登場、そして近代においては、性欠乏・物的欠乏⇒私権拡大の正当化から近代思想(平等・民主主義等)が登場したことが明らかになりました。
 
ここまでの検討から、新しい思想(観念)は、それぞれの時代が求めるパラダイム(古代なら安定期待、近代なら性欠乏・物的欠乏)の軸上でのみ、生み出されることがわかりました。
 
 
では、新しく生み出された思想は、その後どう進化するのか、しないのか。そして私権収束⇒共認収束(パラダイムの大転換)という新しい現実に、どう適応していくのかを考えていきます。
 


 

ここまでの議論は、新思想が生み出される時代の話、つまり古代宗教や近代思想の形成過程であるが、一旦出来上がった思想は、それ以降はほとんど進化していない。つまり一定の答えが出ると、部分的な改良がなされるだけで、それを大きく覆す認識は出てこなかったのである。
これは思想の停滞ともいえるが、何故、停滞するのか?
【1】一番大きくは、観念需要のパラダイムが始めから決まっているので、一定の答えが出るとそれを踏襲することの繰り返しになる。そして、専門分化の悪弊である枝葉末節に埋没してゆくことになる。
【2】安定すると観念需要の源泉である欠乏が衰弱することも、思想の停滞の原因として見逃せない。例えば、ルネサンス期のように私権欠乏を封鎖する武力支配の時代は私権欠乏は強いが、市場が拡大して私権追求が当たり前になると衰弱する。
【3】古代では教会が、近代では学者やマスコミが教宣機関として共認支配しており、それが絶対的な権力者として社会に君臨する。思想の形成過程では思想家たちは社会的な期待に応えて追求しており、追求したからといって褒美をもらえるわけではない。ところが答えが出て教宣機関が権力化すると、はじめから地位や肩書きを手に入れようとして勉強する連中ばかりになる。また、大学やマスコミに入るには試験をくぐり抜ける必要があり、試験制度の弊害がモロに出てくることになる。これも創造力の衰弱の大きなファクターである。
以上が、古代~近代を貫く、認識のプロ(専門家)の成立構造と安定期における思想の停滞構造である。
●現代は社会の至る所がガタガタになり、社会統合期待が年々強まっている。その期待の中身も潜在思念のレベルで共認収束の潮流としてはっきりと顕在化している。
ということは、この共認収束という方向での統合期待というパラダイム上の答しか今後は登場しないことは明らかである。言い換えれば、今求められているのは、共認収束という新パラダイムに則った答なのである。

 
ここでは古代~近代を貫く、認識のプロ(専門家)の成立構造と安定期における思想の停滞構造を明らかにしました。
(試験制度の弊害についてはこちら⇒実現論:序4(下) 大衆に逆行して、偽ニッチの罠に嵌った試験エリートたち [3]
 
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思想の停滞という点において、現在の近代思想は完全に行き詰まりの状態です。その根本原因は、私権収束⇒共認収束という新パラダイムへの転換にあります。
にも関わらず、近代思想で飯を食う専門家たちは、相変わらず自らの既得権益を維持するために、私権収束という旧いパラダイムの中でひたすら暴走を続けています。(最近マスコミが騒いでいるTPP問題や消費税増税はその典型でしょう)
 
これは、まさに偽ニッチの構造参考 [4])そのもので、それ自体がいずれ彼らにとっての命取りになることは間違いありません。
共認収束という新しい時代に突入した以上、その新しいパラダイムの軸上でしか答えを出せないからです。
 
 
では彼らに、今求められる、共認収束という新パラダイムに則った答を生み出すことができるのでしょうか。
 

現在のプロ(専門家)たちは私権収束という旧パラダイム上の観念群に頭の中が占められ、かつ、それを飯の種にしている以上、旧パラダイムから脱却できるはずがない。実際、彼らは旧パラダイムの現実しか目に入っていないが、それは偽物の現実、もっとはっきり云えば崩壊するだけの現実でしかない。
もちろん大衆にも旧パラダイムの残滓はあるが、’02年収束不全を契機に潜在思念のレベルでは完全に共認収束に舵を切っている。大衆がこの新しい現実に直面し直視しているのに対して、プロ(専門家)たちはこの新しい現実が全く見えていない
実現論序の文中に「現実から逃げた傍観者」という文言があるが、それどころか彼らには新しい現実が全く目に入っていないのかも知れない(例えば、学者たちには学会しか見えていないように。)
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もちろん彼らだって、同じ時代を生きており、潜在思念では共認収束の潮流をキャッチしている。ところが、現実の進路選択において、庶民の期待に応えて新理論を追求するよりも、目の前の地位=私権を選んだのが学者やマスコミ人である。私権を選んだ以上は、後は100%旧観念に嵌りこんでゆくことになるのは必然であった。
共認収束という新しい世界に生きる大衆と、私権収束という古い世界に生きる専門家は、生きる世界が全く違っているとも云える。近代社会は騙しで出来上がっているが、専門家たちも主観的には騙しているつもりはないだろう。古い世界にいると騙しているとは気づかないからだが、新しい世界からみれば専門家たちのやっていることは悉く騙しであることがわかるのである。
自我発の架空観念を使ってしか物事を考えられない病気(≒もっぱら書物を読むことで形成された観念回路の欠陥)を「観念病」と呼んでいるが、これも同様で、自我・私権の古いパラダイムの中では観念病という自覚は生まれない。共認収束という新しいパラダイムから見てはじめて、デカルトをはじめとして自我発の観念思考が病気、もっとはっきり云えば狂っていることがわかるのである。
また文中で「抽象的な社会」とあるが、そこには二重の意味が重ね合わされている。まず第一に、近代思想の社会とは自我発の観念思考が生み出した架空観念であること。第二に、専門家たちは特権階級であり、旧パラダイムの中で搾取されている民の現実(苦しみ)には直面していないということ。この二つの意味を含んでいる。

 
 
私権収束のベクトルにしがみついている専門家たちは、現実を私権収束としてしか捉えることができません。故に、共認収束という新しい現実を対象化することができないのです。
それだけでなく、私権収束⇒近代思想に立脚している限り、その問題性(騙し)に永遠に気付くことができないという非常に危険な状態でもあります。
 
事実、今年3月の大震災→原発事故という未曾有の人災を経てもなお、政治家を始めとする専門家たちは何一つ認識が転換することはありませんでした。彼らは奈落の底に落ちるまで転換することが出来ないと考えるべきでしょう。
 
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つまり彼らには、共認収束という新パラダイムに則った答え(認識)を生み出すことは不可能であることが明白になりました。
 
 
だとしたら、共認収束という新しい世界に生きる大衆自らが、共認収束に則った新しい観念(答え)をつくり上げていく必要があるということになります。これこそが共認社会実現への第一歩となります。
 
 
よって次回は、「答え=事実認識をつくってゆく過程」について扱っていきたいと思います。 
 

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