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カタカムナに学ぶ~現代科学の『元素不変』、あるいは『生物は生物からしか生まれない』という定説は本当なのか?~

この間の原発問題を契機として、 「近代科学とは一体なんなのか?」を問い直す必要性をみなが感じ始めています。近代科学で定説とされているものも大いに疑いの余地があるのではないでしょうか?
今日は、「生物は生物からしか生まれない!」という科学界の定説を覆すカタカムナのサトリを紹介します♪
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(画像:原始生物共同体:http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=2009012801)
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以下の文章は、相似象学会誌『相似象』五号(1973年3月 シーエムシー技術開発㈱発行) [1]より紹介します。

■第5句
カムナガラ   タカマソコソギ
ソコチクネ   アカアオムカヒ
アラカミチ   ウツシヒヒラキ
カムナミチ
 この句の概要の意味は、『カムではあるけれども(カムナガラ)宇宙球(タカマ)が膨張したり(ソコ)、収縮したり(ソギ)しながらも球の底(外殻)が、長く自由に保持されて居る根元(ソコチクネ)は〈カム〉〈アマ〉との正反対向(アカアオムカヒ)によって、もとのタマの形(タカマ)が、刻々に創成を続けて(アラカミチ)居るからである。即ち宇宙球は新陳代謝的に、原形が保たれて居る、統計的な存在である。』といふ表明である。
〈ソコチクネ〉
といふ歌詞の思念は、宇宙が膨張したり収縮したりするといっても無条件にパアッと拡がったりデタラメに無限に縮むのではなく(それでは宇宙のソコは保てない)、膨張したり収縮したりしながらも、宇宙の形(ソコ)は維持(チ)され、しかも固定ではなくて自由に(ク)、保たれて居る(チク)、という意味である。その理由は、正反対向(アカアオムカヒ)のカムナミチから創成されるアラカミチに、その根(ネ)があって、刻々にバランスをとって居り、膨張する力には抗膨性が、収縮するカには抗縮性が伴っているからこそ、形状が保全されるという正反四相(トヨ)のサトリに示されている。

【参照】楢崎氏のあげた四相の相似象の例 [2]
①地表上における四相、—昼.夜.朝方.夕方
②季節の四相、—春.夏.秋.冬
③物質の四相、—気相.液相.固相.コロイド相
④人生の四相、—幼年期.青年期.壮年期.老年期
⑤電気の四相、—電子と正孔と.それぞれの正.反スピン
⑥化学結合における四相、—イオン結合.電子対結合による共有結合.金属結合.配位結合
⑦物質系における四相、—粒子相.波動相.融合相.結晶相
⑧結晶系における対象軸、—2回(180゜毎).3回(120゜毎).4回(90゜毎).6回(60毎)
⑨宇宙の四相、—線.面.立体.環境
⑩天然の四相、—アマ(始元的無限界).タカ(有限結球界).マカ(分化象).ハラ(還元象)
⑪マリ(アマの微分量)の四相、—トキ(発生するチカラ).トコロ(マトマルチカラ).
 ソコ(膨張的チカラ).ソギ(収縮的チカラ)

▼「ソコチクネ」といふ感じを、わかり易い例で述べれば、我々は、めいめいが、ゆるぎない個人として「ソコ」に確かに存在して居る、と思って居るが、その実、我々の肉体は、刻々にその一部が崩壊し、一方では新しい細胞が新生し、いつの間にか赤んぼは青年になり、いつの問にか病気になり、老化して居る。精神の方も、少しの間もずっと止っては居ず、刻々に変転し、いつか「全く別人のようになって居る。しかも、いくら変換しても、 「私」はあくまで「私」であって、他の人格になる事はない。つまり、「私」といふ存在の「ソコ」はつねに保たれて居る(ソコチクネ)。「これが私です」と科学的にとり出して示す事は不可能だが、「私」といふ者は、刻々に発生、消滅して変換しながら、「私」といふカタチを保持して居る、といふのが、「統計的存在」といふ所以であり、カタカムナ人の (イマタチ)の直観の、相似現象である。そしてそれは、我々人間の生命のみならず、地球上のすべての動植物も鉱物も、海も山も、そして諸天体も、すべてのモノに普遍の相似象であり、その根元は、「アマとカムの対向(ムカヒ)にある」といふ、「正反四相」の(トヨ)のサトリである。
 
 アマ界は、すべて(イマタチ)であることが原則であるが、実際の現象界では、阻止するものがあって、抵抗や干渉をうける。そこで、統計を阻止する要素とのバランスで、阻止する方が勝れば、統計的な変遷がとまって、「老化」的な現象となり、逆の場合は「成長」することになる。そこで我々に、「空間」や「時間」の経過の考へが起るわけである。
 また、この示しは、『すべての物象は~正反対向によって発生する』といふ(アカアオムカヒ)のサトリと、『すべては刻々に、カハリカサナル(互換重合)の統計的な存在である』といふ(イマタチ)のサトリとが基礎になって居る。アマの「元」は、<カム> からうつされて、アマ界に次々に「次元」をひらき、新しいミチを展開してゆく。即ち宇宙の森羅万象は、すべてアマとカムの「正反対向発生」と「互換重合」の、「統計的存在」の相似象であり、この句は、その相似象の原象を示すものである。
(アマ)は現象に対して「始元」であり、それは宇宙(タカマ)のことである。宇宙の膨脹してゆく(ハルハラ)が無限の<カム>であり、カムは頂 「アでの元をヒラクモノ」則ち、 ウツシヒ ヒラキであり、アマの「元」よりも、更にもう一段カミにある存在を示す言葉である。しかも<カム>は、刻々に、<アマ>と互換し重合することによって万象を発現する、オメタグヒ(異性親和)の「原象」でもある、といふ直観の論理は、従来の科学の論理にはなかったものである。
 ムスとかワクとかの(例へば虫がワク)などの表現に残るカタカムナ人のサトリは、現代科学の元素不変、物質不滅の、法則の範疇には入らぬものである。

この「虫がワク」という現象は、「生物は生物からしか生まれない」という科学界の定説を覆すものです。このことについて詳しく述べられている書籍『カタカムナへの道 潜象物理入門』(関川二郎著 稲田芳弘編 Ecoクリエイティブ刊) [3]より内容を紹介します。

●生命発生の問題
――――――
 上古代人の直観では、始元量(アマ)から物質や、生命質のもとになる粒子(モコロ)の自然発生を説いているが、現代人の科学常識では生物の自然発生ということは否定されて来た。いわゆる「ムシがワク」というようなことは、「昔の人は科学知識がなかったからこのような非科学的な表現をしていた」ということである。
 しかし、草食動物が緑の草だけを食べて赤い血を生産するという事実さえも、現代科学では充分に説明されていない。それは緑の葉緑素(クロロフィル)の構造中心がマグネシュウムであり、血色素(ヘモグロビン)の構造中心が鉄であるために、草食動物の生体内でマグネシウムから鉄へ元素転換する現象を肯定しない限り説明がつかないものである。(ルイ.ケルブランの生体内元素転換説)
 すなわち、葉緑素は物質として扱われるのに対し、赤血球は生命質であるから、原子転換に関連して生命質の自然発生が重大な問題となるためである。
昭和45年3月19日付を以って、工業技術院の微生物研究所所長七字三郎は、無機物質から微生物の自然発生に関わる試験と鑑定の成績書を発表した。その鑑定依頼者は科学技術庁顧問 斎藤憲三で、同年1月9日付で同研究所が受理したものである。同氏がこの種の研究に取り組みだしたのは、彼の出身地である秋田地方で酒を造るとき蒸し米の上に灰を振りかけて麹菌をつくるが、「これは、どのような理由によるものなのか」という強い疑問と関心を抱き始めたのが動機とのことである。
 この実験の成功を確認した彼は、財団法人・抗生物質研究所、東京大学伝染病研究所、国立予防衛生研究所、等で追試を依頼したところ、それぞれ「盛んに運動する物質」、「運動するもの」、「微生物」の発見を認めた。
 そこで特許庁に出願したところが、「パスツールの生物の起源の原理に反する」として受付を拒否されたため、彼は工業技術院に鑑定を依頼したという経過がある。
工業技術院での公式実験の方法は、「まず培養基の殺菌を確認する。なら灰、ぶな灰、よもぎ灰の三種を、0.5グラムずつ白金のルツボに入れてバーナーで加熱し、650度を保って、0分、10分、30分、60分の四区分で灼熱処理する。その後、これらの草木灰を培養基に
添加して、30度で1週間保持する」
 その結果、木灰(ぶな、なら)の場合は灼熱時間と関係なく微生物の存在が認められ、草灰(よもぎ)の場合は10分までは微生物の存在が認められたが、あとは認められないことが解った。
この実験は、パスツール(1822~1895)の定説を覆すことになる。ちなみに、パスツールは「発酵、腐敗は微生物の働きで生ずる」ことを証明して生物の自然発生を否定したのである。それ以来「生物は生物から」という考え方が、生物学者、医学者を初め一般人にとって[生命の起源の原理]とされている。
 なおこの実験の灼熱温度は650度であり、パスツールの定説では「生物は、100度で60分、120度で40分以上は、耐えることができず死滅する」とされている。
――――――

これらの実験結果と、そもそも「生物からしか生物が生まれない!」と仮定すると「一番はじめの生物はどうやって生まれたのか?」の疑問に全く答えられないことから考えても、「無生物からも生物は発生する」ということがわかります。つまり、近代科学の定説とされていることもそれを常識とするのではなく、あらゆる角度から可能性を追求していく必要があることをこの内容は意味しています。
では、どのように物事を捉えていけばよいのでしょうか?

●目に見えないものを直観で捉えるカタカムナのサトリ
――――――
一般にものごとを観察するに当たって、[微視]と[巨視]という立場があるが、少なくとも生命の発生等という問題に関しては微生物や細胞は[微視]の範囲とは言えない。すなわち電子顕微鏡でなければ見えないからと言っても、それはすでに一つのまとまった巨大な総合物なのである。
 およそ、何らかの現象が表われるのは「モノ」と「アマ」の対向によってなされるのであって、次々と対応の「モノ」が変遷することによって、一つの総合物として肉眼、あるいは電子顕微鏡で私たちの目に見える「現象」となるのである。
 微生物としても、細胞としても、そのような過渡を経過した結果であり、その過程に対する洞察なしに表われた現象だけを、どれほど微細に突ついても正当な判断は不可能であるということを私たちは知らなければならない。
 ところが微生物とか、細胞とか、染色体とかいう段階に至って初めて顕微鏡下に捉えることのできる存在になるため、それ以前の過渡の状態は客観の対称にならない。将来さらに高度の倍率の顕微鏡が作られたとしても、それは人間の目に見ることは不可能なものなのである。
 客観、実証できぬものは、従来の科学は認めないタテマエであるから、科学はすでに「巨大な総合物」であるところの微生物や、細胞を生命探求の出発点としていることになる。
 生物は海から発生したという現在の定説にしても、「海水」という物質自体がすでに大きな総合物で、海水はいろいろな物質の共存している「社会」であるから、当然いろいろな組合せによって「種」を産み出す環境になり得る。
 また、その環境条件の変化は刻々に別の種を生みだすのであって、種自体が突然変化を起こすのではないと見るべきである。

生物が巨大な総合物であることの補足:【原始生命と群れ(仮説)】
生物史から、自然の摂理を読み解く [4]
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(図:地球生命・表層環境史 
 ※出典:プルームテクトニクスと全地球史解読(熊澤峰夫・丸山茂徳)「初期生命の実像」p140 (丸山珪徳・磯崎行雄生命と地球の歴史1998を改変))
生命が誕生したばかりの原始地球の熱湯の海では、こうして徐々に独立した生物としての体裁を整えつつあった、何種類もの原始細胞が共存していたと思われる。
しかし、どの生命も不完全で、独力で生存できるものはいなかった。今日でも、細菌は持てる遺伝子が限られ充分な代謝能力がない為、何種類もの細菌が互いに助け合い補い合って、複雑な生態系を形作る事で生きている。そればかりではなく、細菌間で有用な遺伝子の交換までして、協力して細菌の世界を維持しているのは先に見たとおりである。
生まれたばかりの原始生命は、様々な物質が出入りする不完全な細胞膜を通して、互いに必要な遺伝子や物質を交換し、助け合って生きていたと考えられる。隣の細胞から必要な酵素やヌクレオチドを貰い、さらには死んだ細胞から漏れ出たDNAさえ取り込み進化して行った事だろう。これらの不完全な生命は熱水が噴出する海底に棲んでいたが、言わば全体として1つの生命であった。

「現在の科学で究極の最小の単位としている原子や、微生物や、細胞、等の現象の、それ以前の過程は客観できない。」さらに言えば、「人間の感覚器官で捕捉できないものを科学では存在しないものとしているが、カタカムナの上古代人はその過程を直観で捉えている」ということなのである。
 人間の五感にのぼらぬからと言って、それが存在しないと断定することははなはだしい不遜と言わなければならない。電気的な素量は、上古代も現代も人間の目には見えはせぬが、今ではその存在が認められて盛んに実用されている。
 上古代人の直観による把握の内容が、いかに正方向を指しているかは徐々に判明しつつあり、現在の最も進歩した物理学の内容よりも、彼らの直観の方が信憑性があることを追試によって確認し、それに基づいて相似象学が成り立ったのである。
 人類の歴史において、その直観力が最も高度に発達した頂点は、おそらく数万年前の上古代人の頃であったと思われる。そしてその優た直観力は、今日の私たちと基本的に変わりなかったと言われている大脳系の思考応力との調和的な協力によって、百才以上の寿命を保ち、それによって人類最高度のカタカムナ文化を産み得たものであろう。
――――――

『生命質の自然発生』という概念は、近代科学の前提を全く覆す認識です。例えば『虫がワク』という言葉がこの現象を顕しているわけですが、上古代人の直観には驚愕しますね。物事を考えていく上で、 「科学的常識・根拠を疑い、五感で感じ取れないことも直観で感じ取っていく」ということは非常に重要な視点であることをこの文章は伝えているのだと想います

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