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遊牧民の中国支配史5: ~五胡十六国・南北朝の時代~ 400年に渡る戦乱により、血縁を紐帯とした部族集団が悉く解体され、現代中国の原型=3層の人民構成が形成された

◆遊牧民の中国支配史1:プロローグ ~略奪闘争(遊牧部族との混交)前夜~ [1]
◆遊牧民の中国支配史2: ~夏・殷・周の成立~ [2]
◆遊牧民の中国支配史3: ~春秋戦国時代・秦~ 550年間にもわたる遊牧部族同士の同類闘争が、心を歪ませ、思想を発達させた [3]
◆遊牧民の中国支配史4: ~漢の時代~ 冊封体制と朝貢制によって中国史上初の私権統合体制を実現した漢帝国~ [4]
 
 
「遊牧民の中国支配史」シリーズ第五弾です。
 
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400年にも渡って帝国を維持し続けた漢も、その時代晩期には徐々に綻びが顕になり、やがて崩壊します。その後、再び三国→五胡十六国→南北朝時代という長い長い戦乱の時代(AD180年からAD589年の約400年間)に突入していくことになります。
 
この長い戦乱を通じて、現代中国の原型=3層の人民構成が形成されていくことになります。
 
まずは、漢帝国の崩壊の状況から見ていきましょう。
 
 
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■ ■ ■ 漢帝国が崩壊したのはなぜか
 
□ 帝国の安定化による人口増と官僚の腐敗
漢帝国の安定した政権維持により、国内の人口が大きく増加していきます。建国時には1000万人だった人口が、後漢の最盛時にはなんと5000万人にまで膨らんでいます。
人口増を支える基盤となったのが農業ですが、領土が大きく増えていくわけではないため、農業生産が人口増に追いつかなくなっていき、農民を中心として徐々に食糧難に陥っていきます。
 
一方、漢帝国は冊封体制と朝貢制を維持すべく官僚体制が強固になっていきますが、政権の安定化と人口増⇒税収増によって支配層(官僚など)に対する外圧が低下し、官僚を中心とする支配層の間での内部権力闘争→腐敗が進行していきました。
この支配層(官僚)の腐敗によって、農民への締め付けが激化し、農民の食糧難にさらに拍車がかかりました。
 
□ 気候変動(東アジアを中心とする寒冷化・乾燥化)
人口増と官僚の腐敗による食料難に加えて、漢時代末期(2世紀)以降の東アジアを中心とした寒冷化・乾燥化によって、ついに農民の反乱が勃発します(黄巾の乱など)。
“食えない”状況なので農民は暴徒化し、中央政府に反乱を起こすだけではなく、農民同士の激しい殺し合いも頻発しました。(農村集団の秩序崩壊)
 
一方、寒冷化・乾燥化によって、モンゴル草原の遊牧民を中心に北方から様々な遊牧民が南下し、押し寄せることになりました。
 
□ 人口が5000万人から700万人になるまでの激しい戦乱状態
もともと激しい農民の反乱によって動乱状態となっていたところに、さらに戦闘能力の高い周辺遊牧民の侵入によって中国一帯は一気に戦争圧力が高まり、秩序が崩壊し、人が人を食うという大戦乱状態へと突入します。
その結果、内部人口は5000万人から700万人になるまで大激減し、ついに漢帝国は滅亡します。
 
 
■ ■ ■ 五胡十六国の時代⇒長い戦乱に突入
 
□ 小国家乱立によって遊牧民の傭兵化が進行
この戦乱状態の中で、中国各地でこれまで冊封されていた部族国家が下克上で蜂起し、様々な小国家が自立・乱立していきます。
人口が大激減した状況のなか、この戦乱状態を勝ち抜く戦略として、兵力確保のため周辺遊牧民(戦闘小部隊)の傭兵化が進行していきます。
 
戦闘小部隊の遊牧民にとっては、傭兵として国家に取り入ることで、中原での権力を手に入れ、定住→土地所有とそれによる農耕(食料生産)が可能となるというメリットがありました。
  
□ 皆殺しの戦争が常態化
冊封されていた部族国家の蜂起⇒小国家乱立に加え、傭兵として土地所有をした遊牧小部隊が戦乱に乗じて独立⇒小国家を建国することも繰り返され、“力が均衡した”小国家が乱立することで、戦乱は一層激しさを増し、長期化していきます。
その結果、駆け引き・裏切りの連続から歯止めなく警戒心が増長し、共同体基盤を失った戦争の決着は、集団服属ではなく皆殺しが常態化していきます。
 
 
<参考>五胡十六国時代の諸国一覧
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※赤:ツングース族、青:モンゴル族、緑:チベット族
 
 
■ ■ ■ 長い戦乱を経て中国はどのような状況になったのか
 
□ 血縁を紐帯とした部族集団が悉く解体
長引く戦乱のなか、多方面から小部隊の周辺遊牧民が中原へ侵入し、中原のなかに混合そして同化していきました。
そして同時に、長引く皆殺しの戦争によって、血縁を紐帯とする集団がことごとく解体され、“流民化”が進行していきました。
 
その結果、現代中国の人民構成=3層構造の原型が形成されていくことになります。
 
□ 現代中国の原型=3層構成
[1]支配層:少数の遊牧民(戦闘小部隊上がり)
まず、長引く戦乱と集団解体を通じて、戦闘小部隊上がりの遊牧民が支配者となった荘園地主が形成されていきました。彼ら遊牧小部隊は、激しい戦乱を勝ち抜くための戦闘部隊ゆえ、厳しい集団規律を維持(統合)していました。
この、少数の支配層は、一定の血縁と集団規律を残存させた集団として存在していきます。
 
[2]被支配層:共同体基盤を失った大多数の農民
そして、この荘園地主たちは、多くの農民を抱え込み土地の耕作に当たらせます。このように荘園地主に取り込まれ、支配されていった大多数の農民は、自らの土地を捨てて逃げ出したものや戦争によって強制移住させられた“流民”であり、皆殺しの戦争や荘園地主に取り込まれていく過程で、大多数の農民は寄せ集めの集団となり、共同体基盤を完全に失うことになります。
 
[3]土地に根ざさない交易民( 幇、華僑)
一方で、この戦乱状況に対して、戦闘小部隊として生き残りを賭ける遊牧民の他に、交易民として生き残りの道を選んだ遊牧民が存在しました。彼らは土地に根ざさない交易民として、血縁集団を超えた新たな繋がり(集団)を形成していきます。(∵交易民となるためには、集団を超えた広域ネットワークの形成が重要となるため)
自分たちの利益の最大化を共通課題とするこれら交易集団は、後に幇(バン)と呼ばれ、また中原を故郷にするものは、客家と呼ばれるようになります。
これらの集団が母体となって、後の華僑が生まれていくことになりました。
 
長引く戦乱によって“流民化”が進行するのは、以前の「春秋戦国時代」にも見られた現象でした。その上でさらに五胡十六国・南北朝時代には、漢帝国の時代に始まった朝貢制によって東アジア一帯に朝貢貿易体系と呼ばれる交易圏が形成されていたため、これを基に交易民としての新たな集団形成に活路を見出す遊牧民(のちの華僑)が誕生した点が、この時代の特徴でもあります。
 
 
☆☆☆☆
 
400年にも亙る激しい戦乱によって、血縁を紐帯とする部族集団が、悉く解体された五胡十六国時代。
 
その結果、中国は、<少数の支配者>が、<多数の共同体基盤を持たない農民>をその支配下に置く一党独裁(中央集権)体制と、華僑を中心とした<商人ネットワーク>からなる、三層構成の社会を形成します。
 
そして、まさにこれこそが、日本やヨーロッパとは異なる、「現代中国特有の民族構成の原型」だといえるでしょう。
 
 
☆最後に記事の内容を図解化します
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<参考記事>
中国交易史3 (五胡十六国時代)長い戦乱→土地に根差さない商人が大量に登場 [6]
【中国】五胡十六国時代は、度重なる捕虜→強制移住によって中国とその周辺の民族が解体されていく過程にあった [7]
【中国】 春秋、五胡十六国など長い戦乱の繰り返しで、共同体を失ったがゆえに「均田制」が登場した [8]
中国の民衆史~中国の農民反乱~ [9]
 

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