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『民主主義』『市民運動』という騙しとその犯罪性 4 ~社会運動という騙し~

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(画像はコチラ [2]からお借りしました)
これまでのシリーズでは、過去の市民運動の代表である、環境運動や環境団体について扱い、実体とその犯罪性について紹介してきました。
今回は’60年安保闘争、’69年全共闘運動などに代表される社会運動に焦点を当てて総括します。社会運動とは社会を変えるための運動だと思われていますが、本当にそうだったでしょうか?
改めて社会運動に焦点をあてると、その騙しの構造が明らかになってきます。
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■社会運動が騙しの理由

近世・近代に至って市場拡大という現実(自我・私益の拡大)の可能性が開かれると、現実否定の感応観念の内部に自我・私益が取り込まれ、倒錯観念は自我・私益を正当化した欺瞞観念(恋愛・人間・自由・個人etc)に姿を変えた。とりわけ、
「権利」とはただ要求することを正当化した架空観念
である。
しかし、近代思想家は古代宗教家と同じく、現実そのもの(=自我・私益・力そのもの)を直視しようとはしなかった。なぜなら、それらの都合の悪い本質部分は、あくまで否定すべきものとして捨象したからである。そして、開かれた現実の可能性を、欺瞞観念(恋愛・人間・自由etc)の実現の可能性だと都合良く錯覚した。これは、明らかに「現実」のスリ代えである。
しかし、(スリ代えられたものであっても)「現実」の可能性が開かれた以上、その出口を塞いでいる身分制度を解体すれば、「当然」新しい社会を実現することも可能に見える。こうして、社会運動が登場した。
●しかし、都合の悪い現実を捨象している限り、意識と存在が断絶した自己欺瞞の運動になることは、古代の思想運動と変わらない。(注:半ば現実に開かれているが故に、その欺瞞性がより強く意識される)
●また、都合の悪い現実を捨象している限り、現実から乖離した思想(or社会)が実現される事は有り得ない。
社会変革と云いながら、社会の構造については(あるべき社会の空想図以外)殆ど何も考えていない(注:これも古代以来の現実否定⇒現実捨象の倒錯思考の故である)。
そこにあるのは、単に自らの欺瞞観念の出口を塞いでいる身分制度や資本制度を破壊せよという要求だけである。つまり、単に自分に都合の良い要求をつきつけることを、「社会を変えよう」という言葉にスリ代えただけである。
●つまり、「社会変革」という言葉それ自体が、欺瞞観念なのである。だからこそ、人々は「社会運動」の奥に、何かしらいかがわしさを嗅ぎ取ってきたのであろう。又、だからこそ、「社会変革」の旗の下には、壮士~活動家に至るまで、(ごく少数の例外を除いて)自己欺瞞の強い不満分子しか集まらなかったのである。(注:この点は、現在、ネット上で社会系サイトに発信している者たちも、大半が同根である。)『社会運動の自己欺瞞』 [3]より引用

思想家は都合の悪い現実を捨象したがゆえに、私権獲得が最大の活力源であるという私権社会のパラダイムから抜け出せず、それを前提としたあるべき理想社会だけ描いていたということになります。
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(画像はコチラ [5]からお借りしました)

その後、市民運動は、’70年、貧困の消滅(豊かさの実現)を契機に急速に衰弱していった。つまり、市民運動は、貧困の圧力→私権圧力が強いときにはそれなりに盛り上がり、私権圧力が衰弱するや否や衰退していったわけで、これは、市民運動が私権欠乏をエネルギー源にしていたという証である。
私権欠乏に立脚している限り、どれだけ市民運動を続けても、私権社会が永久に続くだけであって、私権社会から共認社会への転換など、実現するわけがない。
『市民運動という騙し。それも、すべての可能性の芽を摘みとる破滅的な騙し。』 [6]より引用

これは、社会運動も同じです。社会運動という耳障りの良い言葉を使って、私権獲得が目的だったことを示しています。これが社会運動の騙しです。
これらの運動は現実を直視することなく理想社会だけを描いており、社会の構造を殆ど考えていません。
次回は、社会の構造を捉えるためには、何が必要なのか?を扱う予定です。

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