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今回の原発事故の要因を辿っていくと、原発そのものだけでなく、我々に内在する“近代科学に対する誤った認識”の危険性が以前の記事 [2]で見えてきました。
それにより、近代科学に対する認識を改める必要が明らかになりましたが、そもそも近代科学の源流はどこにあるのでしょうか?
実は、近代科学の源流はキリスト教にあります。
現代では、宗教と科学というと、対極に位置するような印象を持つ人が多いと思いますが、歴史を遡るとキリスト教と近代科学の関係が見えてきます。
本記事では、近代科学の源流がキリスト教にあること、そしてその出発点に近代科学の致命的な問題があることを提示していきます。
最初に、キリスト教が自然(地上)を否定対象として措定し、その否定意識を土台に近代科学も自然を否定(支配)対象として捉えていることの問題性を指摘している記事を紹介します。
考えてみれば(近代思想と同じく)近代科学も源流はキリスト教である。従って、近代科学の歪みの源流もキリスト教にあるはずである。以下は、『キリスト教封印の世界史』(ヘレン・エラーブ著 徳間書店刊)からの引用。
>キリスト教は人間を自然から遠ざけた。唯一至高神は地上のはるか彼方にいるという考えが広まると、人々は自然を敬おうとはしなくなった。キリスト教徒に言わせれば、地上は悪魔の領土でしかなかったのだ。
>聖書で「地上」という言葉を使う場合は、たいてい「罪」を意味する。たとえば、『コロサイ人への手紙』にはこう書かれている。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪欲、貧欲といった偶像崇拝のごときものを捨て去りなさい。そうしたものゆえに、神の怒りが下りるのです。」 ヤコブの手紙にも、同じようなことが書かれている。「それ(ねたみや利己心)は上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです」(中略)何が言いたいのかは、はっきりしている。つまり、地上は汚れている、と言いたいのだ。
>今や自然は悪魔の領土となった。(中略)自然界に神はいないという考え方は、動物の扱いに影響を与えた。聖人の仲間入りをした13世紀の学者トマス・アクィナスは、こう言った。動物には、永遠の命も生まれながらの権利もなく、「創造主のまことに正しき定めによって、その生死は我らの手にゆだねられている」。動物が悪魔の手先と見なされることもよくあった。ルイス・レーゲンシュタインは、1991年に著した『地に満ちよ』のなかで、こう語っている。「今から10世紀前には、おびただしい数の動物が、裁判にかけられ、拷問され、処刑された(絞首刑が多かった)という。大々的にそれを行ったのは宗教裁判所であり、動物は悪魔の手先になりやすいから、というのがその理由だった。」
つまり、「天上」が「神の住まう至高の世界」と措定され、それに対して、地上と自然は「悪魔の世界」として否定された。つまり「神」や「悪魔」という正当化観念(架空観念)によって、現実(自然)は否定されたのだ。
自然という現実が単に否定されただけではない。キリスト教においては最早「自然」は現実そのものではない。「悪魔の世界」という妄想世界に摩り替えられている。原始以来人類が対象化し続けてきた自然の摂理という現実は、頭から消え去ってしまっている。
次に、近代科学ではどうなったのか?
帰納法という「科学的思考法」を提起した、16世紀末~17世紀初頭のイギリス経験論の祖フランシス・ベーコンの理想は「宇宙を支配下におく人類国家の建設」であった。同じく『キリスト教封印の世界史』(ヘレン・エラーブ著 徳間書店刊)からの引用。
>フランシス・ベーコンは当時の魔女裁判の尋問と拷問の手口を隠喩に使って自然をこう表現した。「自然は手つかずで残すよりも、人為的に(機械装置で)苦痛を与えた方が本来の性質がはっきりと現れる」「真実を追求するうちに、自然の見えない秘密が見えてくるのだ」「自然は自由を失い、奴隷となり、束縛を受けなければならない」「人間の知恵と力が一つになったとき、自然は切り裂かれ、機械と人間の手によって、それまでの姿をくずされ、押しつぶされ、型にはめこまれるだろう」
これはもう、魔女狩り、もしくは悪魔退治の世界である。自然を弄り回すことは、人間が神から与えられた崇高な使命であるとでも言わんばかりである。
「神」という正当化観念によって自然の摂理という現実を捨象し、自然を「悪魔の世界」と妄想する(キリスト教)。その上で、悪魔である自然を退治するために発達したのが近代科学。だとすれば、それが環境破壊を引き起こしたのも何ら不思議ではないと思う。
◇キリスト教⇒近代科学における自然は「悪魔の世界」 [3]
キリスト教も、近代科学も、己の頭の中にある妄想のみに依拠した自然観が形成されているのがうかがえます。
次に、近代科学の出発点は、現象事実の探求ではなく、キリスト教的世界観(天地創造)にあることを示している記事を紹介します。
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『新しい科学論』(村上陽一郎著 講談社 1979年刊)という本がある。30年近く前の本ではあるが、近代科学の原点を知る上で重要な視点を与えてくれる著作である。
以下、第二章「新しい科学観のあらまし」第一節「文化史的観点から」の一部を要約する。
>なぜ、近代科学は近代ヨーロッパにだけ生まれたのか?
キリスト教的な「偏見」や「先入観」があったからこそ、近代科学はヨーロッパに誕生したのだ。
>地動説を唱えたコペルニクスはカトリックを信仰していただけでなく、カトリック教会の組織に属していた人物である。彼の地動説はキリスト教的迷妄を打破することで生まれたものではない。その著書『天球の回転について』は所属教会から出版の後押しされている。実際、コペルニクスの『天球の回転について』を読むとわかるが、コペルニクスの頭の中には次のような基本図式が存在している。この世界を神が造ったこと、そのとき神は整然とした秩序をこの世界に与えたこと、そうした神の秩序は、自然の中の至るところに読み取ることができること、こうした基本図式こそ、コペルニクスの「先入観」であり「偏見」であった。この基本図式から外れたことを何一つコペルニクスは考えたことがない。
>ガリレオの有名な言葉がある。「神は二つの書物を書いた。その一つは聖書、もう一つは自然そのものだ」。自然は神の書いた書物だ、自然の中には神の計画を書き録した言葉が満ち溢れている。それを一語一語読み取っていくことこそ、神の意志(神が自然を造る上での設計計画)を知ることであり、それが人間に与えられた最も大切な仕事の一つだという信念。それがなかったら、ガリレオもあれほど熱心に自然に取り組むことはできなかっただろう。
>ケプラーも絶対的な信念をもっていた。神がこの世界を造ったときに数学的秩序こそ神自らの合理性を人間に示す例証になると考えて、この世界を「合理的秩序」の中に置いたという信念である。だからこそケプラーは、惑星運動の第三法則を見つけるために何年もの間(気の遠くなるような)面倒な計算を繰り返すことができたのだ。実際、惑星の運動の第三法則を見つけたとき、ケプラーは躍り上って喜んだと言われている。彼の信念(偏見)が裏切られずに報われたからであろう。
>ニュートンも然り。物理学的な仕事をした期間は、ケンブリッジの大学生であった頃から十年間くらいで、その後の関心は専ら錬金術と神学に向けられた。ちなみにニュートンは、神の存在論的証明に心血を注いだデカルトを、神への不信心に連なる可能性があるとして厳しく批判している。
>彼ら自然科学者は、キリスト教的偏見や宗教的迷妄を捨てて在りのままに自然を見たから科学的真理を見つけたのではない。神がこの世界を合理的につくりあげたというキリスト教的偏見をもっていたからこそ、近代科学を生み出すことができたのである。
>このキリスト教的偏見には、大きく二つの立場がある。
一つは、神の力は「創造」のときに全面的に働いただけで、あとは自然界は神の最初の計画通りに動いているという立場(静的創造論)。もう一つは、神の力は「創造」の時だけでなく、今も働きつづけいてるというもの。この世界には常時神の手の介入があり、「創造」という神の行為も最初に創造された時だけに限定する必要はないという立場(動的創造論)。
>両説はお互いを、「神への冒涜」であるとして攻撃する。
静的創造論から見れば動的創造論は、神が最初に行った創造の手直しをしなければならないと主張し、神の全能性を冒涜しているように見える。動的創造論からすれば静的創造論は、神の働きを最初の創造の一点に限定することになり、神の遍在性(いついかなるときにも神はその力を示ししつつ存在すること)を冒涜しているように見える。
>デカルトは静的創造論に立ち、それに対してニュートンやパスカルらは、「デカルトはできることなら神なしですませたかったに違いない」としてデカルトを攻撃している。一方でニュートンはライプニッツから、「お前の言い分を聞いていると、まるで神は最初の創造の時に、計画違いをし、そのため繰り返し創造をやり直さなければならないと言っているようだ。それは神の全知全能に対する侵害である」と非難されている。<
(要約終了)
◇キリスト教的妄想から生まれた近代科学1 [5]
左からコペルニクス像、ガリレオ肖像、ケプラー肖像、ニュートン肖像
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コペルニクス、ガリレオ、ケプラー、ニュートン、デカルト、パスカル、ライプニッツ・・・
近代科学の発展に寄与した人たちとして、教科書にも出てくる名前が並びますが、彼らを追究に向かわせたのは、“神が創りしたもう合理的世界の証明”だったのです。
そして、この根拠なき前提を疑うことなく追究に向かう姿勢が、近代科学の構造的欠陥の元凶となっているのです。
近代科学の祖たちの探求原動力は、キリスト教的妄想であったという事実。しかも、お互いを「不信心者」として非難し合うに至ってはイデオロギー対立そのものである。これが近代科学の祖と呼ばれる、デカルト・ニューロンらの実相だったのだ。
この事実を知れば、誰もがそこに倒錯性(or邪さ)を感じるはずだ。
「神が創造した合理的な秩序があるはず」という不動の妄想を出発点として、それを証明するために自然を観察する。このスタンスは、現実の自然を直視してその背後にある自然の摂理に同化しようとする姿勢とは追求ベクトルが180度異なる。
要するに、妄想発の結論ありきで、それに都合の良い自然現象を探すというのが近代自然科学の認識論的原点なのではないか。
しかも、そのことは現代に至るまでの近代科学全体を貫く支配的パラダイムである疑いが濃厚である。というのは、都合のよい結論を導くために都合の良い実験データを収集する。この現代の科学者に見られる態度は、近代科学の祖たちの思考スタンス(神という妄想の証明のために頭を使う)と本質的には同じだからである。
現実とは切り離された妄想の正当化。そういうベクトルが近代科学には刻印されているのではないだろうか。
◇キリスト教的妄想から生まれた近代科学2 [10]
事実に基づかない妄想や願望を説明(正当化)することを目的としているのであれば、都合のよい事象にのみ着目し、都合の悪い現象は捨象or否定することになるのは必然です。
この構造は3月に起きた原発事故で、妄想であることが露呈した原発の「安全神話」にも当てはまります。
結局“神”が“近代科学”に代わっただけで、現実の中に立脚点を持っていない点は、現代に至っても、何ら改善されていないのです。
【参考】
◇神に代わった近代科学 [11]
近代科学によって利便性が向上したようにも思えますが、公害問題や原発事故から見えてくるのは、一部の人間や地域の利便性向上のために、捨象された厄介事を他の多くの人たちや地域が背負わされているという構造です。
(これは、近代市場が豊かさをもたらしたように見えて、実際は単に富の偏在を促進しただけで、先進国の一部の人間のみが快美性を享受し、多くの後進国の人々が苛烈な搾取労働などのしわ寄せを受けて苦しめられているのと同様です。)
原発事故も単なる“原発”の問題でなく、現実否定を出発点としている近代科学のパラダイム自体が破綻していることの現れであると言えます。
現代が大転換期であることを認識し、歴史事実に目を向けて自然の摂理に学んでいくことで、改めてみんなの役に立つ叡智を積み重ねていくスタートにつけるのだと思います。
最後まで読んでくれてありがとうございます。
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