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『今こそパラダイム転換が求められる時』シリーズ-3~社会運動の総括1 現実否定の自己欺瞞」~

『今こそパラダイム転換が求められる時』シリーズ第3弾です。
シリーズ第1弾~「必要意識⇒課題意識には、不全発と可能性発の二通りある!」~ [1]
シリーズ第2弾~不全発の『変革の必要』から、実現発の『認識の必要』への大転換」~ [2]
ネットを通じて、たくさんの人々が「いったい本当のところはどうなっているの?」と事実収集に向かい、原発事故の危険性が日に日に明らかになってきました。このまま、事実を元にした新しい認識が拡がって行けば、それが多くの人々の意識となり、自ずと社会の構造は皆の意識を元に組み変わっていくはずです。
しかし、一方で官僚→マスコミによる事実の隠蔽工作も顕著化してきています。歪められた情報が混ざり合う中、どうすれば事実を、社会の構造を正確に捉え、それを伝えていけるのか?を考えなければならない段階に入ってきました。
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今までは、自分たちの考えや要求を伝えるには「社会運動」がひとつの答えでした。つい先日も反原発デモが大々的に展開されていましたが、しかし、この「社会運動」というものは本当に効果があるのでしょうか?環境運動しかり、学生運動しかり、世界中でも過去様々な社会運動が実現していないところを見ると、社会運動には社会運動を実現させない何かがありそうです(リンク) [3](リンク) [4]。 
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以下、るいネットからの引用です(リンク) [5]

不全発の変革意識に対する疑問が浮上した所で、改めて社会運動を総括してみる必要がある。
考えてみれば、史上、社会運動は一度も実現されたことがない。つまり、史上の「社会運動」は全て偽物である。とすれば、「社会運動」の奥には大きな欺瞞が隠されている筈である。

社会運動は遡れば、古代思想運動にまで行き着きます。では、社会運動の源流となるその古代思想はどのようにして出来たのか?古代思想以前の原始時代から、その違いを俯瞰し、比較していきたいと思います。
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1.原始時代は、祈るだけしか出来なかったが、それは近代の「否定するだけ・要求するだけ」とは全く異なる。原始人は、集団が一丸となり、潜在思念の全てをかけて自然を対象化しているのに対して、近代人は自我に基づいて社会を否定しているだけである。
同類闘争という観点から見ても(そこでは当然、敵に対する否定意識が存在するが)、それは直ちに闘いに直結しており、近代の様に要求するだけという状態は有り得ない。

原始時代は武器も何もなく、圧倒的な自然外圧の前では、ただただ祈るしかありませんでした。しかし、そうやって現実そのものを直視し、同化しようと試み続ける中で、自然の様々な変化の中から、一定の法則を見つけ出すようになり、ついに火や水といったものを使いこなせるようになります。こうして、現実を直視し続けることが不安を払拭し、充足のイメージを沸き起こしていく原動力となりました。
これは、世界中でも賞賛された、東北大震災後の人々の様子に似ています。大震災という大きな外圧の変化にも、パニックになって自分のことだけを考えるということではなく、ただただ目の前の現実を直視して、皆で大きな外圧状況を必死に生き抜こうとしたその様子です。福島原発事故においても同様で、国民の間では、事実は一体どうなっているのか?何処まで危険なのか?と現実直視の意識が相当高まってきています。あとはそれを皆に伝え、共有し、形にしていく場が必要です。
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では、かつて自らの意識や要求を伝えてきた社会運動の源流となる古代思想は、どのようにして成立したのでしょうか?

2.古代の思想運動(孔子、釈迦、キリストetc)
原始人は、絶対的な自然圧力を前にして、とことん自然を対象化した。しかし、古代人は自然圧力ではなく(自然圧力に比べれば変革が容易な筈の)敵対的な現実の共認圧力を絶対的な壁として不動視し、その現実を否定的に捨象した。
換言すれば、古代人は現実の共認圧力を捨象して全く対象化しようとはしなかった。そして専ら、頭の中の本源回路を代償充足させる為の、感応観念(価値観念や規範観念)に収束した。
彼らは、何故、現実の共認圧力を対象化できなかったのか?
それは、共認圧力というものが、単なる対象物ではなく、自分自身(の生み出したもの)に他ならないからである。
つまり、彼らが否定する現実とは、彼ら自身の私婚・私権の共認や、力の追共認に基づいて作られた現実である。従って、現実を否定する以上、自分自身の存在(自我や私権や力を求める下部意識)の否定に向かわざるを得ない。
実際、彼らは頭の中だけで自らの存在(下半身)を否定して、感応観念に収束した。観念の倒錯である。しかし、現実の存在(自らの下半身)を頭の中で否定することはできても、現実に否定することは出来ない。そうである以上、頭の中だけで現実=自らの存在を否定するのは自己欺瞞であり、その自己欺瞞の故に意識と存在(思想と現実)は必然的に断絶し、分裂することになる。

孔子は身分序列という【変えられない現実】の中で上手く生きていく為の論語を、釈迦やキリストは、奴隷制という【変えられない現実】があるという前提条件の元、あの世や神といった、頭の中だけで充足出来るような感応観念を作り出しました。
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ただし、この観念が成立してしまうと、観念が自らの隠し持った欲求を否定することになり、矛盾を生じてしまいます。例えば、ある奴隷がその身分から開放されたいと思っています。しかし、現実は開放されることなど無い。だから「こんな世の中はおかしい。神の前では皆平等だ」という観念を頭の中で信じ込むとします。しかし一方で、別に奴隷になりたくてなったわけではないのだから、心の底では身分序列の優位性を味わいたいという気持ちも実は持っている。そうなると「神の前の平等」は矛盾を生じて頭の中の架空観念としてしか存在し得なくなり、現実場面では何も実現しなくなってしまいます。
つまり、古代の思想運動は【変えられない現実】を前提に作った観念なのだから、当然現実は変わらないのです。この観念が後の社会運動の礎となっていきます。だから、社会運動では何も変えることが出来ない。次回はその辺りを確認し、現実否定⇒現実直視へと繋がる、観念パラダイムの転換の必要性を探っていきたいと思います。

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