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『白人の源流~ギリシア・ローマ編~5』ギリシアの『ポリス社会』

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こんにちは
御好評いただいている『白人の源流~ギリシア・ローマ編』。
 
『白人の源流~ギリシア・ローマ編~1』プロローグ:大転換の予感⇒人類史を追求する意義 [1]
『白人の源流~ギリシア・ローマ編~2』オリエントの文明の発祥である『エーゲ文明~クレタ文明』 [2]
『白人の源流~ギリシア・ローマ編~3』クレタ文明を滅ぼした『ミケーネ文明』 [3]
『白人の源流~ギリシア・ローマ編~4』ミケーネ文明を滅ぼした、傭兵と奴隷集団『海の民』 [4]
 
 
前回は、ミケーネ文明を滅ぼした『海の民』について扱いました。
今回は、その後のミケーネ文明崩壊以降からポリス社会の形成までを扱っていきたいと思います
 
 
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『海の民』が地中海沿岸を荒らしまわった結果どうなったかというと、、、
 

海の民=海賊が地中海沿岸を荒らしまわって以降、3000年前にギリシア・アナトリアをはじめとする地中海沿岸に拡散・定着して以降は、この地域には略奪集団(海賊・山賊)と彼らが作った支配国家しか残っていない状態になった。(リンク [5]より引用)

 
海の民の度重なる襲撃によって、ミケーネ文明は崩壊し、強大な国家であったヒッタイト帝国も消滅、エジプトもアジアにおける領地を放棄、後退して、ナイル・デルタに縮小。
地中海沿岸の巨大文明、国家はことごとく破壊され尽くし、それらに代わって略奪集団(海賊・山賊)による小支配国家=ポリスが形成されていくことになります。
 

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3150年前~2800年前 ギリシア暗黒時代
 
3000年前 イタリア中部のエトルリア人が印欧語族遊牧民(ヴィッラノーヴァ火葬民)に征服され、同化(ヴィッラノーヴァ文明)。
2900年前 印欧語族ドーリア人(R1a)がギリシアに南下
2800年前 コーカサス北方の草原地帯に、遊牧騎馬国家スキタイ登場(この部族の出自は、セム族or印欧語族orトルコ族?)
2800年前 ポリス成立
海の民(アカイア人orアカイア人から分派したイオニア人)の残党が、ミケーネ文明都市の要塞跡に再び流れ着き、2800年前から各地にポリス国家(12国家に分散)を建設していく。中心はアテネ・ポリス。もう一方では、印欧語族ドーリア人がスパルタ・ポリスを建設。(リンク [6]より引用)

 
この時代のギリシアを代表するポリスにアテネスパルタがありますが、両者は非常に対照的でした。
 
スパルタの方はというと、、、
 

2900年前に印欧語族ドーリア人R1aがギリシアに南下してきてスパルタをつくる。しかし、その農業生産力は乏しかったため(それでは食っていけないので)スパルタは略奪を国家戦略として生きてゆくことになる。
スパルタが男子に少年期から施した戦闘教育は掠奪教育と言ってもよいものである。スパルタが強国と化したのはそのためである。(リンク [5]より引用)

 
スパルタ [7]スパルタ人は自分たち以外のドーリア人と先住民約二万人をペリオイコイ(周辺の民)として区別し、軍事的にはスパルタ人と同等の義務を負わせながら、国政に参加することは許さなかった。
また、スパルタのほぼ中央を流れるエウロタス川流域の先住民約五万人をヘイロータイと称する奴隷身分の隷農として耕作に従事させた。
 
つまり、スパルタは、完全市民であり戦士の約五千人からなるスパルタ人と劣格市民のペリオイコイ、それに隷農のヘイロータイ約五万人から構成され、鎖国主義⇒略奪に特化した軍事国家であった。(これは元々ドーリア人が山賊集団であったことに起因している)
 
 
 
 
神殿 [8]一方のアテネは、ミケーネ文明の支配層アカイア人の残党が支配するポリスであり、その流れを汲む形で積極的に交易を展開した。その交易先は、エーゲ海や小アジア、そして南イタリアやシチリアにまで及んだ。
また、軍事力は、スパルタが陸上が主力であったのに対して、アテネは海上が主力であった。
 
 
 
 

アテネやスパルタなどのポリスは、中心市街に住む貴族や商人と、郊外に住む平民(農民)に分かれ、それぞれ奴隷を持っていた。大量の奴隷(原住民の黒人?orセム族?)には、農作業を担わせていた。
大量の奴隷(スパルタ7割、アテネ4割)を背景に、各ポリスは地中海沿岸への植民活動が盛んに行った(当時、フェニキア(3500~2500年前ごろ)も地中海南部沿岸を中心に、植民活動を盛んに行っていた)。彼らは略奪・侵入によって奪った植民地を市民に「平等に」分配した。(リンク [6]より引用)

クレタ島やアルゴリス地方をのぞいて耕作地としては貧相な土地が多いギリシア本土およびエーゲ海の島々では、ポリスの支配下にある農地だけで自給自足することは難しかった。それゆえに紀元前八世紀から紀元前六世紀にかけてギリシア人は海外への植民活動を繰り広げ、その植民都市はシリア、エジプト、北アフリカ、シチリアにまで拡大、そしてその植民地を市民に「平等に」分配するという、掠奪集団の寄せ集めであるポリス社会を統合するための「平等」観念が重要視されたことも、このギリシア・ポリス社会の大きな特徴でした。
[9]
※画像は「The Purple Chamber [10]」よりお借りしました
 
 
 
アテネを中心としてギリシア哲学、文学、演劇、医学、数学などが勃興→発展していったのもこの時期でした。哲学者のプラトン、アリストテレス、ピタゴラス、歴史家のヘロドトスなどは、この時代に登場しました。
 
この時代は、
 
 ①労働忌避 → 大量の労働奴隷の使用
 ②大量の奴隷使用による余暇 → 思索を生業とする哲学者の登場
 
が見て取れます。
 
この「労働忌避」「思索を生業とする哲学者の登場」が古代ギリシアのポリス時代の大きな特徴であり、後の西洋の思想性に繋がっていく原点ともなっているように思われます。
 
 


 
 
 
 
しかし、それぞれが都市国家単位に分立したままで一つの大きな帝国になることはなかったため、徐々に他国からの侵略に脅かされるようになります。 
 
ペルシア帝国と争ったペルシア戦争、そしてアテネとスパルタとが抗争したペロポネソス戦争、その後のマケドニアとの戦争を経て、ギリシアのポリス諸国は衰退の一途を辿っていきました。
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同時に、この時期から徐々に勢力を拡大し始めたのが「ローマ」でした。
 
次回の記事では、この「ローマ」の台頭から、その興隆について扱っていきます。
 

[11] [12] [13]