戦後、北方領土(国後、択捉、歯舞、色丹)をめぐり、日本とロシアは対立してきたが、ある意味均衡状態を保ってきたとも言える。
ところがこの均衡状態を破るかのように、昨年11月ロシアのメドベージェフ大統領が北方領土を訪問。そして、先日セルジュコフ国防相が北方領土の択捉島と国後島を訪れた。(ニュース [1])
これに対し、日本の前原外相がロシアに抗議し、ロシア側も引かない姿勢を見せている。
北方領土問題とはそもそも何なのか?
今回は北方領土問題に横たわる本当の問題にスポットを当てる。
北方領土とアメリカ
ロシアのメドベージェフ大統領が北方領土を訪問した問題で、アメリカ国務省のクローリー次官補は「日本の主権は北方領土に及ぶ」と述べて、日本を支持する姿勢を見せたが、そもそも北方領土問題の端緒を作り、問題を難しくしたのはアメリカである。
1943年10月、日米が開戦して2年後にモスクワで開かれた米、英、ソ三国の外相会談で、アメリカは日本と不可侵条約を結んでいたソ連に対し、日露戦争後のポーツマス条約で日本が獲得した南樺太と千島列島をソ連に与える見返りに日本と戦争するよう促した。翌月のテヘラン会談ではルーズベルト大統領がスターリンに同様の提案を行う。
それは戦後の国際秩序を話し合った45年2月のヤルタ会談でも繰り返され、ソ連はドイツ降伏後の8月8日に遂に不可侵条約を破って対日参戦するのである。同盟国のドイツが敗れ、ソ連にも不可侵条約を破られて孤立無援となった日本は8月14日にポツダム宣言受諾を決めて無条件降伏し、ソ連軍は8月25日に南樺太を占領、その後9月5日までに択捉、国後、歯舞、色丹の各島を占領した。
この時米ソ間では、スターリンが北海道東北部の占領も要求したが、トルーマンがヤルタ協定にないとの理由で拒否し、反対にトルーマンが千島列島の1島に米軍基地の設置を求めたのをスターリンが拒否している。
1946年1月にGHQの指令によって日本の行政権が停止されると、2月にソ連は南樺太と千島を自国領に組み入れた。その後、米ソ間に冷戦が起きて世界は東西両陣営に分割される。西側陣営の一員として単独講和の道を選んだ日本は、1952年にサンフランシスコ講和条約によって独立するが、条約には南樺太と千島列島の放棄が明記され、千島の中に国後、択捉が含まれると政府は国会で説明した。つまりこの時点で日本政府は国後、択捉を放棄していたのである。
問題はここからだ。既に米ソが対立していたため、サンフランシスコ条約にソ連は署名しない。しかしサンフランシスコ条約は南樺太と千島の領有権をソ連に認めた。独立後の日本はサンフランシスコ条約を締結していない国々と個別に平和条約を結ぶ必要があり、55年にはソ連と平和条約交渉を始めた。
松本俊一、重光葵らが全権となって行われた交渉で、ソ連側は歯舞、色丹の二島返還では歩み寄るが、国後、択捉を加えた四島返還には同意しない。松本、重光らは二島返還で交渉をまとめようと考えるが、アメリカがそれを許さなかった。日本をソ連の「防波堤」に使おうとするアメリカは、ダレス国務長官が「四島返還を主張しなければ、沖縄も返還しない」と重光外相に迫ったのである。
結局、日本は領土問題を棚上げする形で鳩山一郎総理が日ソ共同宣言を締結した。北方領土をソ連に与えたのも、返還交渉を難しくしたのもアメリカなのである。
中略
「日本の主権は北方領土に及ぶ」と言ったクローリー国務次官補は「アメリカは日ロ双方が平和条約を締結するよう交渉を促している」とも言っているが、「北方四島は日本固有の領土」と日本側が主張し、四島返還が大前提になったのは、冷戦時代のアメリカの外交戦略によるものである。そして日ロが妥協できない事を知っているからアメリカは「交渉を促す」と言うのである。
日本を旧ソ連共産主義の「防波堤」にしようと考えたアメリカにとって、日ソ間に対立構造があることが望ましい。日本とソ連が友好国となってしまっては困るからだ。
そのためにアメリカの取った戦略(手口)は、絶対にソ連が飲まない事が明らかな条件(4島一括返還)を、日本に押し付けそれを主張させることだった。
そしてさらに問題なのは、それら(4島一括返還)は、マスコミの洗脳によって当然我々日本人が自ら考えた意思であるかのように、思わされてきた事かもしれない。