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中国部族移動の歴史 ~北魏による華北統一以降の諸部族の弱体化と中央集権の推進~

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画像はこちら [1]からお借りしました。
 
 北方遊牧民の鮮卑:拓跋部は、北魏を建国して439年に華北を統一しました。
そして、遊牧民であったにも関わらず、遊牧民の風習を禁止して、漢化を推し進めていきました。
 
今回は、北魏が推し進めた政策・制度整備とその背景について探っていきます。
 
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◆北魏による華北統一時の状況
 
 北魏は、第三代皇帝の太武帝の在位時に華北を統一(439年)しました。
ただし、各地の諸部族は北魏に臣従したものの、豪族として土地を私有し、まだまだ勢力を保っていました。
 

~前略~
 こうした戦乱の華北を439年に統一したのが鮮卑族の北魏だったのですが、つまりこの北魏の領内には北魏王朝に臣従するようになった匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の諸部族が豪族という形で各地に分かれて勢力を保っており、それらの豪族は土地を給付して働かせている私有民をそれぞれ所有していたということになります。初期の北魏はこうしたそれぞれ文化も言語も違う諸豪族の勢力を武力で束ねた連合国家に過ぎず、華北内での戦乱は収まったものの社会構造は五胡十六国時代と本質的には変わりないものでした。
 北魏の皇帝はもともと独立して存在していた各部族を屈服させて配下にしていって、それらの諸部族の支持を得て皇帝にまで登りつめたわけですから、皇帝といっても絶対権力者ではなく各部族の発言力はかなり大きいものでした。こういう点、大和王朝の大王と似たようなものであったといえます。
 つまり北方遊牧民の集まった国家が華北に生まれたというだけのことで、これは漢帝国のようなシナ帝国とは別種の存在であったといえます。シナ帝国は4世紀初頭に滅び去っていましたし、そもそも古来のシナ人もシナ文化といえるものも3世紀前半にはほぼ消滅しており、華北は主に北方遊牧民の生息する地となって久しいのでした。
 そういった北魏の現状に不満を持ったのが他ならぬ北魏の皇帝で、471年に即位した6代皇帝の孝文帝は各部族の豪族の勢力を抑えて中央集権化を図り皇帝権力を強化することを望むようになります。そのためにまずは豪族の勢力の基盤となっている私有地や私有民を奪って豪族を弱体化して、それらの土地や人民を皇帝が独占することを望みました。
 そのために孝文帝は既に消え去って久しいシナ文化に目をつけました。シナ文化においては儒教において理想とされた社会制度は周の時代の「王土王民」「一君万民」、すなわち「土地と人民は王の支配に属し、王の前に万民は平等である」という理念を具体化した井田制というものでした。ただこれは、実際にそんな制度が周代に実施されていたというわけではなく、あくまで漢代の儒学者が理想の制度として創作したものであったのですが、とにかくシナ文化においてはそれが理想とされていたのは事実なのです。
 孝文帝は遊牧民国家であった北魏にシナ文化を導入する方針を示し、「王土王民」「一君万民」の理想の実現を図ろうとします。なぜ孝文帝が華北では既に滅び去ったシナ文化をわざわざ導入しようとしたのかというと、決してシナ文化に憧れたとか染まったというようなことではなく、単に豪族勢力を弱体化させ中央集権化を図るのに好都合であったからに他なりません。
~後略
日本史についての雑文その304 律令制の成立 KNブログより
リンク [2]

 
◆諸部族の弱体化と中央集権化の推進 
 
 北魏が国体を維持していくには、諸部族の勢力を弱体化させ、中央に権力を集中させることが最重要の課題です。そのためには、自分達の出自である遊牧民が持つ集団性は厄介なものとなります。
 そこで第6代の孝文帝は、諸部族の自集団収束軸や生産基盤(土地)を奪うべく、漢化政策を急速に押し進めました。

~前略~
 孝文帝の漢化政策として、まず北魏の首都を北方にあった平城から洛陽に移し、配下の豪族たちに遊牧民の服装や言語の使用を禁じて、シナ服の着用とシナ語の使用を強制しました。更に遊牧民豪族にシナ風の姓を名乗らせ、シナ人の有力者を配下の貴族に加え、遊牧民の豪族たちにシナ人貴族との結婚を推奨して混血化を図ったのです。
 遷都は遊牧民部族の本拠地から離れた地に首都を移すことで部族社会を弱体化させるためであったし、シナ文化の強制も混血化も、遊牧民の部族社会を解体してシナ文化への親和性を高めるためでした。配下の遊牧民豪族は部族がバラバラで言葉も通じなかったので、部族連合国家である北魏の朝廷内における共通語としてはシナ語が便利であったという事情もあります。なぜ便利なのかというと、当時の東アジアで唯一の文字が漢字であり、漢字を音読するにはシナ語が一番便利だったからです。
 シナ語といっても旧来のシナ語とは違い、遊牧民の訛りが相当に入ったシナ語で、同じ漢字を音読する場合でも旧来のシナ語とはかなり違った発音になりました。これがいわゆる漢字の「唐音」というやつで、旧来のシナ語のほうの発音を「漢音」といいます。他にも江南訛りの「呉音」などもありますが、とにかくこの5世紀末に北方遊牧民が漢字を導入して共通語として新しいシナ語を作ったのです。倭国でもこの頃は倭製シナ語を公用語として使っていましたから、まぁ似たようなものです。
 またシナ語であれば北魏の豪族を構成する五胡の部族のどの部族にとっても母国語でないので共通語として公平であり、統一国家形成には適していたともいえます。同時期に仏教の国教化を進めたのも、これと同じで異国の宗教であれば諸部族をまとめる国教として相応しいという意味もあったのでしょう。また仏教の場合は部族ごとの祭祀権を超越した性格を持っていたので中央集権制との相性が良かったというのは大和朝廷の仏教受容の場合と同様ではあります。
 このようにして新しいシナ人が作り出されていったのですが、孝文帝はこのようにして北魏の遊牧民の豪族たちにシナ文化を馴染ませつつ、「王土王民」「一君万民」という理想の実現をスローガンにして、豪族たちから土地や人民を取り上げて皇帝の直轄とし、土地を均等に分けて人民に貸与して耕作させ定額の租税を納めさせ、土地を取り上げた豪族たちは官僚として皇帝に仕えさせ俸禄を与えるようにしたのです。こういう点、仏教を国教としながらも国家理念としては漢の武帝以来の儒教的なシナ帝国の国家思想を引き継いで利用しているといえます。
 人民は定められた年齢になると国家から貸与されていた土地を返還せねばならず、これによって私有地の世襲が制限されるので、豪族が多くの土地を囲い込むことが出来なくなり、皇帝への権力の集中が容易になったのです。これが均田制で、完全に私有財産が否定されたわけではありませんでしたが、豪族が弱体化し、部族社会を解体し、皇帝への権力集中を進めるには十分に効果を発揮しました。
 もともと五胡十六国時代の戦乱の中で人民は権力者に強制的に移住させられたり土地を与えられて耕作をさせられたりすることには慣れており、そうしたスタイルは定着していたといえます。その権力者が豪族から皇帝に替わったというだけのことで、人民にとってはそれほど違和感は無かったのだといえます。言うなれば均田制とは、戦乱の中から生まれてきた非常時の制度なのだといえます。
 ただ、この均田制を全国規模で実施するためには全国の人民の数や分布を正確に把握していなければなりません。そのためには戸籍が不可欠ということになりますが、戸籍を作成して均田制を実施していくためには緻密な地方行政組織とそれを支える官僚機構や交通制度などが必要となりました。そしてそれらを運用していくための体系的な法令が必要となり、晋時代に施行されていた律令が再活用されることとなったのです。
 律というのはシナ古来の法家思想に基づいた刑法典のようなもので、令というのは元来は律の補完的なものであったのですが、北魏において均田制を実施していくための行政組織の整備が進むにつれて、その規定はどんどん増えていき、それが令に盛り込まれていったので、次第に行政法としての令のほうが重要性を増していきました。
 孝文帝は599年に死去しましたが、6世紀になってからも北魏においては均田制の実施に伴って更に律令が整備されていき、行政組織や官僚機構が肥大化し発展していくようになりました。これが律令制の誕生と発展です。律令制とはその基礎を均田制に置いているので、基本的に乱世から生まれてきた体制であるといえるでしょう。そして、律令制は強力な中央集権国家を作って人民の生産力や戦闘力などを国家に効率よく集中させることが出来るシステムであったので、この律令制を効率よく運用し発展させた国家が乱世の中で勝ち抜くことが出来るという特性もありました。言い換えると、律令制は乱世の中で発展していく非常時のシステムであるのです。
~後略~
日本史についての雑文その304 律令制の成立 KNブログより
リンク [2]

  
◆鮮卑王朝の発展と衰退 
 
 北魏で整備された制度は、北魏以降も土台は踏襲され、軍事面においても中央直轄の軍隊を整備して、部族兵の弱体化を図りました。そして589年には隋が鮮卑系王朝として中国を統一し、その後の唐王朝は極めて強大な国家となりました。
 ただし統合範囲が広大になると、中央からの圧力が弱い所で別の力が台頭し、安定を保持することが困難になっていきました。
 

~前略~
鮮卑王朝の変革と挫折
 匈奴や鮮卑などの遊牧民が中国を席巻した背景には、この時代に騎馬の道具や技術が大きく進歩したという事情もある。とくに重要なのは、騎手が足を乗せる「鐙(あぶみ)」の発明である。騎乗が容易になっただけでなく、安定した姿勢で騎射を行ったり、槍や剣を自由に振るったりできるようになって、戦闘力が格段に向上したのである。また、馬のひずめを守る「蹄鉄(ていてつ)」も用いられるようになり、はるかに長距離の移動が可能となった。
 このような高い戦闘力を持った遊牧民にとって、ある程度の領土を平定して政権を立てるのは比較的容易なことだった。しかし、それを維持するにはさまざまな困難がともなった。というのも、遊牧王朝の首長にとって、配下の騎馬軍はきわめて扱いが難しい集団だったからである。
 遊牧民は血縁をもとにした「部族」を基本にまとまっており、戦時には部族を構成する男子がみな兵士となる。遊牧民の王朝は、こうした諸部族の「連合体」にほかならなかった。君主が自由に動かせるのは自分の部族の兵だけで、他の部族は場合によっては反旗をひるがえす危険な存在でもある。
 そこで、鮮卑諸王朝の君主は自らの命令によってのみ動く軍隊をつくることに力を注ぐようになった。すなわち、流民に土地を与えて農村を復興させるとともに、農民を徴兵・訓練して部隊を編成したのである。その過程で部族兵は重要性を失い、6世紀後半には消滅した。
 618年に成立した最後の鮮卑王朝である唐(とう)のとき、定住民に軸足をおく中国王朝への転換はほぼ完了した。唐の総兵力は100万に達し、周辺諸国の弱体化に乗じて一時はバイカル湖やアラル海までにおよぶ勢力圏を築きあげることに成功した。
 しかし、この制度には漢の時代から解決されていない欠陥があった。税や強制労働にくわえて兵役まで課されるのは、農民にとってあきらかに過重な負担だったのである。やがて、国の管理を逃れようと地主のもとに逃げる者が続出し、税収が減るとともに徴兵も困難になってきた。また、周辺の遊牧民が勢力をもりかえしてくると、農民をかき集めた軍では太刀打ちできないことが明らかになった。
 そこで存在感を増してきたのが、金で雇った職業軍人である。傭兵は唐の成立時から多数存在していたのだが、辺境防備の必要にかられて随時拡充されてきた。そして、8世紀前半に徴兵制が廃止されるにいたり、国防を全面的に担うことになったのである。北方の遊牧民から募集した騎馬兵が、その中核となった。
 練度の高い騎馬軍を国境におくことで、防衛力はたしかに強化された。しかし、唐はこれらをコントロールすることには完全に失敗した。司令官たちは駐屯地で集めた税を政府に送らず、その金を給料として支払うことで兵を私物化し、地方官僚も勝手に任命するようになった。このような軍閥は、8世紀末には全国で50にものぼった。
 名ばかりの存在となった唐王朝はしばらく命脈を保つものの、907年には最終的に滅亡した。傭兵隊長はそのまま各地で自立し、自前の王朝を開いた。
~後略~
 
「The Purple Chamber 世界史 11. 騎馬軍団、大陸を制す」より
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