画像はこちら [1]よりお借りしました。
中国大陸には、多様な民族とそれらによる王朝が存在し、滅亡してきました。
それらの中でも、日本との関わりが深いのは、日本から遣隋使・遣唐使を送った隋や唐であり、これらの王朝を立てたのは漢民族ではない鮮卑族です。
そこで今回は、鮮卑族の出自について押さえていきます。
東胡(とうこ)
内モンゴル自治区の東方を領域とした狩猟牧畜民族。
東胡をロシア語のツングースの転音だとする説、胡の東方の部族という意味だとする説、また、部族連盟の呼称か、北アジア東部の狩猟遊牧民族の総称かで論が分かれている。
中国の学会は蒙兀室韋(もうこしつい)の言語が契丹語と似ており、服飾や弁髪など風習が鮮卑族と同じであることから、モンゴル(蒙古)族の起源を東胡とする説に傾いており、鮮卑、鳥丸、契丹、室章などを東胡系に分類している。
『史記』趙世家
武霊王十九年春正月、今、中山は我が腹心に在り、北に燕あり、東に胡あり、西に林林胡、樓煩(ろうはん)、秦、韓の辺境がある(周囲は敵ばかり)。しかるにこれを援ける強兵はいない。社稷(しゃしょく=国家)を亡くすではないか、如何するのだ?
武霊王が「胡服騎射」を採用すべきだと考えた一節だが、東に胡あり、西に林胡、樓煩とあるが、この東胡・林胡・樓煩は『三胡』と総称された。注記をみてみよう。
注記 正義:趙の東、瀛州の東北にある。営州の境、すなわち東胡、鳥丸の地。
服虔が言うには「東胡とは鳥丸の先祖、後に鮮卑族となるなり」
鳥丸(うがん=鳥桓)は、東胡の後裔。東蒙古高原の鳥侯秦水(遼河上流)一帯で匈奴に服属していたモンゴル(蒙古)系部族だとされる。一説には、東胡のなかで烏桓山に拠った部族が「鳥桓」、鮮卑山に拠った部族が「鮮卑」を称したとも言われる。
この史記の注記に従えば、中国説が適確だと思えるが、蒙古族がトルコ系の一種族である可能性が高いとされることから、中国説が定説とされるには到っていない。
東の胡か、胡の東かで東胡の解釈が全く異なるが、「胡」とはなにを意味するのだろう。
胡桃(くるみ)、胡椒(こしょう)、胡麻(ごま)、胡瓜(きゅうり)、葫(にんにく)、胡葱(あさつき)、胡豆(そらまめ)、胡坐(あぐら)、胡散臭い(うさんくさい)、胡言(でたらめ)、胡弓(こきゅう)等々、日本語として定着しているが、遣唐使が日本に持ち帰ったものである。唐代では「胡」は、西域の異民族の総称とされたのだ。
だが、胡の古字は「鬍(ひげ)」を象意しており、本来は、顔面が髭で覆われた風貌からトルコ系の遊牧民族を指したものと思われる。東胡の北方に丁霊(ていれい)がおり、後には突厥(とつけつ)、鉄勒(てつろく)などが現われるが、いずれも「トルコ=テュルク」の音訳である。また、商代には鬼方(きほう)、犬戎(けんじゅう)、薫育(くんいく)、春秋時代に匈奴、昆夷などが登場するが、これらもトルコ系の遊牧民族だとされる。
~(引用者中略)~
紀元前771年、周の幽王が犬戎に攻め殺されたことで周は滅亡し、東周時代(春秋時代)に時代が移行する。それほど強力な部族だったようだが、春秋時代に強勢となった秦によって犬戎は領土を奪われ、秦に吸収、あるいは羌族か匈奴に合流したものと思われる。
中国のウェブサイトに匈奴の論文が掲載されていたので、胡人に関する部分を紹介する。
『匈奴史話』(http://www.grassy.org/BBS/BrowTheme.asp?ThemeID=5940)
匈奴という名称は、ラマ人やインド人の蛮族に対する名称「フン族」を起源とする。
匈奴人は紀元前九世紀から同八世紀には、すでに中国人から「厳允」と呼ばれていたと思われる。更にその前には「草粥」、あるいは「胡人」と呼ばれていた。
歴史の黎明期には、中国人は胡人が当時の中国辺境、すなわち山西省北部と河北省北部の民族だと知っていた。従って、北戎とは「北部の戎」、現在の北京市西部と西北部に分布して暮らしていた胡人の部落をいう。その他の部落は紀元前四世紀に趙国の中国人に帰服したが、趙の武霊王は彼らから山西省最北部(大同市)を奪取したのである。
どうやら東胡の西にいた胡とは、匈奴のことだったようだ。
これで東胡がトルコ系の遊牧民族であれば、東胡とは「東の胡」だと断定できるのだが、東胡の領域はアルタイ諸語系の雑居地域だったようで、ツングース語、テュルク語、モンゴル語が併用して使用されていたのだろう。東胡の後裔とされる種族の言語が一定ではない。
そもそもアルタイ諸語とはアルタイ山脈からとった学術用語だが、蒙古の領域はアルタイ山脈の東部から広がっており、一部族が一言語とは限らないところに分類の難しさがある。
東胡は鮮卑族の祖とされるが、鮮卑族の慕容氏を祖とする吐谷渾(とよくこん)の族人は羌族である。また、南北朝の北朝から唐朝に続く北魏王室は鮮卑族の拓跋氏だが、拓跋氏の言語は古代トルコ語である。民族や種族に執着せず、親族中心の部族単位で自由に進むべき道を選べたのかもしれない。
古代、中国東北地方は粛慎(しゅくしん)地と呼ばれていたが、粛慎は民族名でも単一の部族名でもなく、そこを領域とする大小幾多の種族の総称であり、同様に、東胡も民族名や単一部族の呼称ではなく、その地域内に暮らす種族の総称だと推察する。
~(引用者後略)~
※「史記」「匈奴史話」の原文は引用元参照
「堀貞雄の古代史・探訪館 古代史(日中韓) 三国関連古族 東胡(鬼方、犬戎) [2]」より
「史記」には、鮮卑の祖は東胡であると記されています。この東胡は中原(黄河中流域)から見て、東北部となるモンゴル高原東方で暮らしていた牧畜狩猟の諸部族と考えられます。
※冒頓単于率いる匈奴が東胡を攻め滅ぼして服属させた際に、東胡の中で烏丸(うがん)山に逃れた部族が烏桓、鮮卑山に逃れた部族が鮮卑となったと言われています。
なお、紀元前3世紀~紀元後3世紀頃にかけての中国大陸は、漢(前漢・後漢)、匈奴、烏丸、鮮卑その他の部族は、同盟を結びつつも、隙あらば攻め込んで服属させたりと、極めて高い緊張状態にありました。
>民族や種族に執着せず、親族中心の部族単位で自由に進むべき道を選べたのかもしれない。<
というよりも、略奪支配と服属が頻繁に繰り返された結果、多様な部族の混交状態になったのではないでしょうか。
最後まで読んでくれてありがとうございます。
応援もよろしくお願いします。