2011年01月06日

殷の起源~東方へ逃げ延びたシュメール族の後裔?

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画像はこちらからお借りしました。
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 殷の起源についてはモンゴル系とする見方が多いですが、未だに解っていない事が多く、諸説あります。
 
 殷王朝は、「殷・周の起源(中間整理)」に挙げられているように、好戦性・侵略性、残酷な統治、商業活動の伝統と私権性・蓄財性が高いという特性を持っています。
この特性を見ていくと、単なる遊牧民族ではなく、中原に入る前に大規模な略奪闘争と交易活動を経験していた部族であった可能性が高いと考えられます。
今回は、殷人の源流にシュメール人が交わっている可能性を提示します。

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九夷の原点に潜むシュメール人」(成田シティジャーナル)
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 「前21世紀、東アジアにおいて夏王朝が繁栄した頃、九夷と呼ばれた異国人が、どこからともなく中国史に姿を現します。九夷については、「竹書紀年」と呼ばれる中国の古文書に記載されているだけでなく、夏王朝の存在自体が、考古学的にも最近の発掘調査から確認されたことからしても、歴史の重みを感じずにはいられません。
 
■九夷の原点に潜むシュメール人
 九夷の原点は、前20世紀、東アジアの中国に突如として姿を現した、9つの部族からなる異国人の集団にあります。九夷については 夷・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷と9部族の名前が具体的に挙げられるも、抽象的な名称しか用いられていないことから、その実在は疑う声もあがっているようです。しかしながら夏王朝と同時期、西アジアで勢力を持ち始めたイスラエル12部族も、年の月や、個別の色に結びついてそれぞれの部族がシンボル化されていました。ナフタリ族は1月の緑、ヨセフ族は2月の白、ベンジャミン族は3月の黒、ルベン族は4月の銀、シメオン族は5月の金、レビ族は6月の紫、ユダ族は7月の茶、イッサカルは8月の黄、ゼブルン族は9月の桃、ダン族は10月の青、アシェル族は11月の赤、ガド族は12月の灰と、各部族には年の月と色が割り当てられていたのです。つまり、古代社会において抽象的な名称が使用されることに何ら不思議はなく、むしろ九夷が、黄、白、赤という同じ色彩のアイデンティティーをイスラエルと共有していることに、九夷とイスラエルの関連性を垣間見ることができます。
 イスラエルのルーツは、元を辿れば古代メソポタミア南部に興ったシュメール文化圏の大都市、ウル出身のアブラハムに遡るため、シュメール人が先祖と言えます。そのシュメール人こそ、当初、東アジアを訪れた九夷の正体である可能性が高いのです。当時、シュメール文化圏では統治国家としての都市の雛型が存在していたと考えられ、人類最古の文字とも言われる楔形文字が体系的に整理されていました。また戦車を発明し、車を活用していただけでなく、高度な天文学の知識も携え、農業や灌漑、そして航海技術まで会得していたのです。ところが、シュメール国家は前21世紀頃、アモリ人によって征服され、突如として歴史から姿を消してしまいました。
 シュメール人の一部は、アブラハム一家のように北西にあるカナンの地へと旅立ち、中には後にエジプトを支配する「ヒクソス」の先駆者となった者もいたことでしょう。しかしながら、他の大勢の民は、大陸を横断して東アジア方面に移動したと考えられます。また、沿岸伝いに船で東方に旅し、東南アジアまで辿りつき、そこから内陸へと移動する民もいたのではないでしょうか。国家を失ったシュメール人の行方はこれまで歴史の謎に包まれていましたが、シュメール国家の消滅と同時期に九夷が中国史に姿を現していること、その部族の筆頭が 夷(Chuan-Yi)と呼ばれ、シュメールの頭文字ではないかと考えられること、そして後述するように九夷の文化的特徴が西アジアの中でも特にシュメールや、イスラエルと類似していることからも、多くのシュメール人は東アジアに移動し、九夷の原点となったと考えるのが自然です。
 
■東夷に合流するイスラエル難民
 長い年月を経て、九夷は徐々に大きな影響力を持つ存在となり、殷代(前17~前11世紀)には中国の東部を拠点として数を増し、やがて東夷と呼ばれるようになります。そして後漢書や「通典」の東夷序略によると、周代(前10世紀以降)では中国の東方、淮河流域周辺や泰山周辺を拠点として、その勢力はきわめて盛んになり、現地の民から恐れられるまでになりました。 東夷のルーツはシュメール人と考えられ、イスラエルの先祖でもあることから、いつしか東方に楽園の地が存在することが語り告がれたのでしょうか。その新天地を目指して、イスラエルから大勢の移民が訪れたと考えられるのが、春秋時代です。ちょうど同時期、前722年、北イスラエル王国が消滅して大勢の難民が消息を絶ったと言われていますが、シュメール人と同様に、イスラエル人の多くはアジア大陸を東に旅したと考えられます。そして前8世紀から前6世紀にかけて、大勢のイスラエル難民が中国に辿り着き、現在の江蘇省・山東省周辺に拠点を持つ九夷の仲間入りを果たして、一大勢力となっていきます。
 この膨大な数に上るイスラエル難民の流入が、実は春秋時代の引き金となった可能性があるのです。東アジア全体が混沌とした動乱に陥った春秋時代は「覇者の時代」とも呼ばれ、力ある者は誰でも実権を握り、諸侯を牛耳ることができました。その結果、東アジア各地では紛争が絶えず、国政は大いに乱れたのです。
(後略)
 
■東夷の背景に潜むイスラエル文化
 イスラエルの民が東夷の背景にあるならば、必ずや、イスラエル文化の痕跡が東アジアの歴史に残されているはずです。九夷や東夷の生活習慣や思想についての記述がある後漢書、三国志、梁書、魏書、随処等の東夷伝に、少なくとも2つの決定的な根拠が記載されています。まず後漢書東夷伝によると、東夷の風習は「酒を飲み、歌舞することが好きで、時にはかんむりを冠り、錦の衣を着る」とあり、更に「器具には、俎豆を使用する」と繰り返し記載されていることに注目です。「俎」は、生贄の肉を乗せるまな板であり、豆は菜を盛るたかつきのことです。この2つの文字を合わせると、祭祀の供を盛る器の意味となります。つまり東夷では、祭壇とお供えを伴う儀式を執り行い、燔祭を伴う宗教的儀式を営んでいたことがわかります。
 次に、「政治のゆきわたったところでは、道義が行われる」だけでなく、「法は7~800年も続き、それゆえ東夷は一般に穏やかに行動し、心に慎むことを慣習としている」と記載されていることにも注目です。これらの記述からは、東夷の民が先祖代々、律法を共有していたことがわかります。イスラエルの民はモーセの律法に従って燔祭の儀式を長年執り行ってきただけでなく、トーラとも呼ばれる律法を社会全般の規律として遵守することに努め続けてきた民族です。モーセに律法が与えられた時代は、およそ前13世紀です。そしてイスラエル国家が崩壊し、大勢の北イスラエル及び南ユダ王国の民は、北イスラエルが前721年に滅びた直後の前6世紀、そして南ユダ王国は前586年に滅びたことにより、前6世紀から前5世紀にかけて多くのイスラエル難民がアジア大陸を東方に旅したと考えられます。つまり、モーセの律法を掲げたイスラエルの民が中国の淮河流域周辺に到達したと考えられる時期は、モーセの時代からちょうど7~800年後のことであり、東夷伝の記述に合致します。
 また、隋書列伝には、東夷は「衣服については一般の服装と礼服とが兼ね備わり」、「儒教の経典を学ぶことが好きで、文学や史書を愛読する」、そして「先哲の遺風がなければ、どうして能くこのような(良い風習に)なることができようか」、と書かれています。この特徴こそ、正にイスラエル民族の天性といえる勉学や宗教に対する熱意と姿勢の表れではないでしょうか。そのイスラエルのルーツを自ら悟り、東夷をこよなく敬愛したのが孔子です。このように東夷は博学であるだけでなく、宗教的儀式にも長け、そして規律正しい人種だったことがわかります。古代社会において、同様の慣習や文化的背景を持つ民族は少なく、シュメールを先祖とするイスラエル人の民族移動と東夷の関係を結びつけることにより、多くの謎を解明することができます。
(引用終わり)

ここでは、前20世紀頃シュメールの消滅と同時期に九夷が現れ、後の東夷に移動してきた可能性があるとしています。
次に、東夷と殷の繋がりについて見てみたいと思います。

倭人の南方への民族移動の開始
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遼河流域にいた ①ハプロタイプHLA-A24-B52-DRB1*1502(DR15)を高頻度に持つ倭人集団の諸部族は、前13世紀頃の、民族大移動(奥州における印欧語族の第二次民族大移動)の渦に巻き込まれ、移動を開始します。
(中略)
さて、ハピロタイプ①の倭人集団は、前13~12世紀頃からの、Ⅱのユーラシア大陸での民族移動の開始に連動した、東夷集団「九夷」の移動に合わせ、南下します。もともと、九夷は同系の夷族とも考えられる「商民族」が、南下して中原に「商(夷)」を建国した時に同様に南下して黄河河口域から山東、あるいは淮河あたりまでは到達していたと考えられます。商(殷)は、その甲骨文に窺えるように四方の部族「国家」である多くの「方」を攻めています(鬼方、召方、夷方など)が、もともと商の出身母体に近い東夷諸族の背反は王朝の経営を困難にするものであり、帝辛(紂王)は即位の初めから、山東方面の東夷の討伐に追われ、二度も大東征を行います(「人方」「夷方」)が、2回目の長征の帰還後間もなく、西方の周に滅ぼされます。周も東夷、東南夷、南夷と呼ばれる夷系諸族を討伐するのに難渋し、初代武王のあと成・康王二代を要します。
倭人の南下はこの殷周革命を惹起した九夷の南下の一環ですが、山東から、淮水、泗水にかけて南下した九夷集団に含まれていたかは不明です。山東半島周辺の人々のHLAハプロタイプが判明すれば、結論が得られるでしょうが、そのデータがありませんので、当面は半島方面への南下のみと考えたいと思います。
(後略)

また、東夷の地域では鳥がトーテムとして崇拝されており、殷人にも鳥をトーテムとする習俗や、殷王朝の始祖「契」がツバメ(玄鳥)の卵から生まれたという伝説があります。これらから、殷人と東夷が同じ出自である可能性もあります。
これらを踏まえると、メソポタミアで侵略を受けて流浪の民となったシュメールの後裔が、東方へと逃げ延びて殷人(の祖)と交わり、略奪や交易の手法を殷に伝え、冒頭に記した殷王朝における好戦性・侵略性、残酷な統治、商業活動の伝統と私権性・蓄財性が高い特性として顕現したのではないでしょうか。

List    投稿者 yamatetu | 2011-01-06 | Posted in 未分類 | No Comments » 

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