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殷・周の起源(中間整理)

Posted By staff On 2010年12月21日 @ 10:12 PM In 14.その他 | No Comments

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画像はこちら [1]からお借りしました。
引き続き、殷・周の起源を中間整理する。
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■殷の起源
以下、『図説 中国文明史Ⅱ』 [2]を参考にさせていただいた。
●夏→殷→周へと王朝が転換したが、この3部族はほぼ同じ時期に形成され並存してきた。つまり、新部族外からやってきて旧王朝を滅ぼしたのではなく、支配-服属関係だったのである。そのうち、最初に覇権を握ったのが夏で、それに服属していたのが殷・周。服属していた殷が夏を倒し、その後、殷に服属していた周が殷を倒して覇権を握った。
☆殷の起源は実はよくわかっていない(北狄=モンゴル系orツングース系という説も多いが・・・)。初期殷人の移動経路も諸説あって未だ定まっていない(前掲書では、モンゴル高原から南下して北京の西側を通り、黄河流域に至った可能性が高いとしている)。
殷人は遊牧部族発であったことは間違いないようで、初期の殷人集落は頻繁に居を移すことが特徴。
夏王朝の時代には夏が黄河中下流域を支配し、殷はその北東に拠点を置いて夏に服従していた。殷の祖である契(せつ)は夏の治水事業に功労して、商の地に封ぜられた。 自らは商族と称しており、その後3600年前に、殷族(商族)の長である湯が商族を率いて夏を倒し、殷王朝を建てる。
また、周の始祖は棄(き)という名で、後代に「姫」(き)姓を名乗る(ちなみに夏の先祖である黄帝の姓も「姫」である)。夏王朝では、棄の子孫は十数世代に亙って代々農業の役人を世襲していた(先周族と呼ばれる)。この先周族は陝西省の関中西部を流れる漆水流域に起源をもつ。
以下、殷王朝の特徴を述べる。

●殷の好戦性・侵略性
殷は好戦的な王朝であり、周辺諸部族に対して頻繁に戦争を仕掛けている。
かつ、馬に引かせる戦車や盾や青銅製の冑(かぶと)など、当時の世界でも際立って強力な装備を擁する軍隊であった。
征服されて服属した部族もあったが、羌族(チベット族)などは殷と敵対。また北方では、殷の西北部から北方はオルドス地区に隣接する位置にいた鬼族(匈奴の祖、トルコ系orモンゴル系)が殷にとって最も強敵であった。殷はようやく鬼族を征服し服属させた。(やがて殷後期になると、鬼族は南西の陝西省西部にいた周族を圧迫して、周族は岐山の麓の周原の地へと追いやられた。)
羌族は中国西北部の甘粛・青海を拠点としたチベット族。東は陝西省北部の鬼族に隣接。殷代の初期には羌族は殷に服属。ところが殷代後期になると、殷は頻繁に羌族に戦争を仕掛け、羌族を奴隷にして、農作業などの労役に従事させた。また、殷人には祭祀の場で生贄を捧げる習慣があったが、生贄にされたのは全て奴隷。殷王の祭祀では一度に300人の奴隷を生贄にしたが、最も犠牲にされたのが羌族。
この殷の侵略性・好戦性に対して周辺部族はそうとう怒りを感じていたようで、後に、周族は羌族をはじめとする諸部族と連合して、殷を倒す。
●殷の残酷な統治
殷人の世界は鬼神崇拝の世界。夥しい量の甲骨卜辞は殷人が神に伺いを立てた記録。神に捧げる生贄や殉死が習慣。その中で、殷王は政治的世界における絶対権力者であると同時に、信仰世界における最高位のシャーマンもであった。
王権と神権が合体した殷の統治は過酷を極めた。特に奴隷たちの反乱と逃亡を阻止する目的で監獄が建設され、さまざまな酷刑が設けられた。斬首、剖腹(腹を切開する)、鼻削ぎ、生け埋め、足斬り、みじん斬りの刑など残酷な肉刑が横行。
●殷には商業活動の伝統があり「商」と自称し、私権性・蓄財性が高かった。
南海やインド洋沿岸に産するタカラガイは既に夏代から通貨として使用されていたが、殷代からは本格的な流通貨幣として使用されるようになった。大量のタカラガイを私有・蓄財することは富と権力の象徴だった。

このように、殷は極めて好戦的で、当時最強の武器を擁する陸軍国家であった。また支配様式は力の原理と神権に基づく過酷な恐怖政治であり、さらに商業が盛んであった。
☆以上の特異性から考えて、殷は単なる遊牧部族ではないだろう。中原に入る前に大規模な掠奪闘争を経験していなければ、ここまで好戦的で残虐な支配にははならないのでは?
おそらくは、4000年前~3500年前頃、西方からイラン系部族に侵略されて中原に逃げのびた部族が、殷族(商族)ではないだろうか? そうでなければ、ここまでの好戦性や残虐性は説明できないのではないか? その商業(交易)活動についても、西方のイラン系部族から取り入れたものと考えるべきだろう。
☆だとすれば、殷の起源については、次のような仮説が成り立つ。
☆殷(商)は甘粛・青海地方のチベット族が、4000年前~3500年前にイラン系部族に侵略されて黄河中流域に逃げ延びた部族だったということが、まず考えられる。但し、西方のイラン系部族に侵略されたという点ではトルコ系の可能性も残る。
さらに、注目すべき説として、このころ既に、旧満州や黄河流域にはコーカソイドが来ていたという説もある。「匈奴の出自と龍トーテム」 [3]  
☆西方から中国までやって来た印欧語族が建てたのが殷であるという可能性も検討の余地があるのではないだろうか? もしそうだとしたら、殷の好戦性や過酷な支配、当時の世界で最も強力な武器を有する軍隊であったことや「商」という自称もスッキリと説明できるのではないか?
■周の起源
殷は、東方の夷族を服属させて周族のいた陝西省の関中平原へ進出。夏王朝の遺民である周人は北方へ逃げ、羌族の拠点甘粛へ。2世代の後、再び南下して陝西省へ。ここに水源を見つけて農業を起こした。この部族が周という名を得る。
ところが、殷に征服され服属した鬼族(後の匈奴)に押されて、周人は再び、岐山の麓の地(周原)へ移り住む。ここは、夏殷の時代には、周原は姜(きょう)姓の羌族の居住地で「姜原」と呼ばれた。周族がこの地に移住したため「周原」という名になった。
そこで、周族は西南・西北の部族と連合して、次第に殷に対する包囲網を形成する。周原の先住民である羌族および西北の羌族と同盟を結んで、周原から関中西部にかけての親殷勢力である犬戎(秦人の祖先)を追い払う。さらに、西南の巴・蜀などの部族の支持を得て、後に3050年前、殷を倒して周王朝を建てる。滅ぼされた殷族(商族)は、宋・魯ら各地に離散させられるが、彼らが後に、中国における商族のネットワークを形成する。
殷が周辺部族を討伐し続ける好戦的で侵略性の高い王朝であり、また残酷な支配を続けたのに対して、周はそれでは国家の社稷を維持できないと考え、周王は「徳を敬い民を保つ」統治に転換。これが後に孔子が理想化した徳治政治。
このように、周王朝を建てた部族は夏王朝(チベット族)の生き残りor夏に服属していたチベット族の一派らしい。
それが、元は同族のチベット族(羌族)をはじめとする周辺部族(南方系やモンゴル族等の北方部族も含む)と同盟を結んで殷を滅ぼし、建てたのが周であろう。

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[2] 『図説 中国文明史Ⅱ』: http://www.sogensha.co.jp/booklist.php?act=details&ISBN_5=20253

[3] 「匈奴の出自と龍トーテム」: http://enjoy.pial.jp/~kokigi/hitori/inougo/ryutotem1.htm

[4] Image: http://www.rui.jp

[5] Image: http://www.rui.jp/new/kousei/kousei_19.html

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