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中国の部族移動の歴史2 ~夏・商(殷)・周はどのように成立してきたか?2~

Posted By yoshi23 On 2010年12月20日 @ 2:51 AM In 14.その他 | 5 Comments

次に、前記事(中国の部族移動の歴史2 ~夏・商(殷)・周はどのように成立してきたか?1~ [1])の文化を背景にして『3代(夏・商(殷)・周)がどのように成立してきたのか?』まとめていきます!


■夏・商(殷)・周の成立過程
①夏王朝 (B.C.2070~B.C.1600)
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(画像:「中国歴史奇貨居くべし」さんの挿絵 よりお借りしています)

ヴュルム氷期終結後の気候大変動によってユーラシア大陸においては動物が激減して、人々は狩猟を生業としていては生きていけなくなったために1万年前ぐらいにユーラシア大陸南部の湿潤地帯ではコーカソイドや旧モンゴロイドによって農耕が開始され、ユーラシア大陸北部の草原地帯ではコーカソイドや新モンゴロイドによって牧畜が開始されました。
この牧畜民の中から紀元前4000年ぐらいに西アジアの草原においてコーカソイドの部族によって遊牧という生活スタイルが生まれ、これが広まり、この移動性の強い遊牧民と農耕民との交易の場として西アジアにおいては都市というものが作られるようになり、都市文明が誕生しました。この都市が都市国家に発展し、都市国家内のトラブルの裁定人として王が生まれ、紀元前3000年ぐらいに最初の王朝が西アジアにおいて生まれました。
そして紀元前2000年ぐらいに西アジアの都市国家において馬車が発明され、移動性の上昇によって大帝国が築かれることになり、またユーラシア大陸で民族の大移動が起きて都市文明がインドやシナ方面にも広まっていくことになったのです。
西アジアの大帝国の膨張によって西アジアに居住していたコーカソイドの遊牧民であったアーリア族は東方へ移動してイランやインドや中央アジアへ進出し、中央アジアに居住していた新モンゴロイドの一派であるシナチベット族がそれに押し出されてチベットやヒマラヤ、雲南、ミャンマー、タイ、長江の中上流域方面に進出しました。また、黄河上流域にも進出しました。
このうち長江方面に進出したシナチベット族は、この地域で既に旧モンゴロイドのオーストロネシア族によって行われていた農耕を取り入れ、更にそれによって得た農作物を北方の遊牧民に売りつけようとして、河川交通によって北上して黄河中流域に進出しました。そしてそれに呼応して北方の草原地帯に居住していた新モンゴロイドのトルコ族、モンゴル族、ツングース族などが黄河中流域に向けて南下してきました。
こうして紀元前2000年ぐらいに黄河中流域で都市文明が生じました。これが黄河文明で、幾つもの都市国家とその周辺で都市の住人の食料を生産する農村の集合体である小王国が形成され、それらをまとめる商業都市連盟の盟主的存在として王朝が作られました。
最初の王朝を築いたのは長江中流域方面から来たシナチベット族の氏族で、この人達が「夏人」といわれ、この王朝は「夏王朝」といわれました。この黄河中流域の商業エリアは「中原」といわれて、この「中原」の異民族間の商取引のための公用語として夏人のシナチベット系のSVO型の言語が使われ、それを異民族間で通じやすくするために表意文字である漢字が発明され、それらの漢字のそれぞれの意味に対応する夏人の言葉の音をそれらの漢字の読み音としてあてていきました。
そして「中原」に居住するようになった諸部族は商取引ではその公用語を使いつつ、その公用語をベースにして自分たちの元々の言語の語彙を組み込んで、それらを独自に漢字に対応させた混合語を作り上げるようになりました。これがシナ語の各方言の起源で、このようにして中原に住んで漢字とシナ語の方言を使い、都市国家の構成員としての義務を果たして商取引に参加する人達が出身部族は問わず「中華の民」となったのです。
『KNブログ』 [2]より引用)

・夏王朝を作ったのは、コーカソイドのアーリア族遊牧民の移動に押された北方モンゴロイドのシナチベット族とある。
・このシナチベット族は長江方面へ南下した後、黄河流域へと移動していくことからも移動生活を営んでいた遊牧民であろう。
・生活必需品である食料品を取引していたのであれば、夏の族長に集積された富を求めて、希少品を取引するネットワークが構築されていたと考えられる。
・この段階では、統一国家ではなく部族連合国家だった。
②商(殷)王朝 (B.C.1600~B.C.1040)
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(画像:「中国歴史奇貨居くべし」さんの挿絵 よりお借りしています)

紀元前1400年頃に今度は北狄出身で中原に移住して諸侯となっていた殷人のとある氏族が他の諸侯によって新たに天子に推戴されて「殷王朝」を創始しました。「殷」という名称は後に殷を滅ぼした周によって命名されたもので、これは侮蔑的表現であるようで、本来は「殷」ではなく「商」と言ったようです。つまり殷人とは「商人」というのが本当で、夏人と同じく商人の意味そのものの部族名だったようです。
殷人、つまり商人は夏人(商人)と部族名の意味もほぼ同じであったように、殷王朝は夏王朝の制度をほぼそのまま受け継いだようで、要するに黄河中流域の中原の商業王国の連合の盟主である天子の地位が南蛮の夏人のとある氏族から北狄の殷人のとある氏族へと首がすげ替わっただけのことでした。この殷王朝を世襲した氏族名は子氏であるとも言われていますが明確なことは分かりません。
この北狄出身の殷人はおそらく元来は遊牧民であったものが中原に移住してきて畑作農耕にも従事するようになっていった部族です。何故なら、この殷人は王朝を開く前も開いた後も、何度もその居住区を変えているからです。つまり遷都を頻繁に行っているわけですが、これは牧草地を求めて移動を繰り返す遊牧民の生活スタイルが残っていたからでしょう。
また、殷王朝においては宦官、つまり去勢した男の奴隷官人階級が出現することになり、これはこの後のシナの王朝には必須のものとなっていきましたが、これは遊牧民族諸国において見られた制度です。そしてまた殷王朝においては各種の祭祀において神、つまり先祖霊を祀る際に、牛や豚や羊などの動物の犠牲を捧げる風習がありましたが、これも遊牧民の風習です。そして、時代が下ると殷王朝では戦争で捕らえた敵国の捕虜をも犠牲の供物にしていたようです。
このように去勢されたり儀式の生贄にされたりする哀れな被害者はだいたいの場合は中原の西方に住む羗族というチベット系の遊牧民の部族だったわけで、つまり殷王朝は中原の諸侯を糾合して西戎の羗族と戦争をしていたわけです。
これは言い換えると、羗族をはじめとした遊牧民が西方から中原方面へずいぶん進出してくるようになり、中原の諸侯や氏族たちとトラブルを起こすようになってきていたということでした。そもそも、殷人自体が西方からやってきた遊牧民か、あるいは西方からやって来た遊牧民に押されて中原に入り込んできた遊牧民であったのです。
これは紀元前2000年ぐらいから本格化した、西アジアから東方への遊牧民の移動の影響がとうとう東アジアにも強く及んできたということで、中原はチベット系やイラン系の西戎や、トルコ系やモンゴル系、ツングース系の北狄の遊牧民らと頻繁に接触するようになり、中原の農耕民の諸侯たちと土地問題などで揉め事を起こし、戦争が起きるようになってきたのです。
また、ちょうど殷王朝が成立した紀元前1400年頃というのは太陽黒点周期のエジプト極小期といわれる時期で、地球全体が特に寒冷化した時期でしたので、それで北方で遊牧生活を送っていた北狄の殷人が牧草が不足して中原へ移住して農耕をするようになっていたのであるし、その他の羗族などの遊牧民も牧草を求めて活発に移動して中原の農耕民とトラブルを起こすようになっていたのでしょう。
ただ戦争といってもこの殷の時代においては、それは中原諸侯と蛮族との土地トラブル程度のもので、諸侯同士が戦うようなことはあまり無かったと思われます。青銅器は使われていましたが全て祭祀用で、軍事転用はされておらず、鉄器はまだ出現していませんでした。戦いの前には占いで吉凶を占い、子孫が滅びることによって先祖祭祀を絶やすことで祖霊が祟ると信じられ、血統を絶やすような激しい戦いを極度に嫌うなど、まだまだ社会は原始的レベルにとどまっていたので、戦争も大規模化はしなかったようです。
『KNブログ』 [3]より引用)

・(夏王朝時代からあった)北方モンゴロイド系モンゴル族の遊牧民の商部族が夏に代わって(討って)、部族連合の長となった。
・宦官奴隷(=子孫を残せない)を使用していたことから、父系がより確立していたと推測される。
・大規模な戦争はなかったようだが、他部族を捕えて奴隷や生贄にするなど掠奪性は見られる。
③周王朝(B.C.1046~B.C.770)
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(画像:「中国歴史奇貨居くべし」さんの挿絵 よりお借りしています)

この殷の時代にモンゴル高原から南下して中原の北側に氏族連合体を形成していた北狄の遊牧民の部族であった周族は殷王朝の攻撃を受けて西方に逃れ、中原の西方にあった岐山の地で姫氏を盟主とした都市国家連合を形成しました。そして周族は羗族と連合して中原に侵攻し、殷王朝を倒して中原を支配下に置き、紀元前1027年に中原の諸侯から姫氏が天子に推戴され「周王朝」が創始されたのです。
周王朝も殷王朝と同じく、夏王朝以来の中原の氏族社会をそのまま受け継ぎ、中原の諸侯の盟主として交易の保護に努めました。ただ、殷と違っていた点は、まず王都を黄河中流域からやや西にズレた鎬京に定めた点でした。これは周王室の力の源泉が西方の蛮族の後ろ盾によるものであったことを示していました。
そして周の時代においてもまだ青銅器は祭祀専用で鉄器も出現していませんでしたが、戦争の前に占いをするようなことは頻繁ではなくなり、先祖祭祀への強いこだわりも薄くなり、その分、戦争への歯止めは徐々に失われていったのでした。
そうはいってもこの周代においてはまだ諸侯同士の戦争は無く、戦争に繋がるようなトラブルはやはり中原の諸侯や氏族と周囲の蛮族との間の土地争いに起因するものが主でした。周王朝は殷王朝に比べて対外的に積極的であり、中華の民が周辺の蛮族のエリアへ植民していくことを奨励しました。つまり中原を拡大していく方針を示したのです。
ただ、耕作地の拡大といってもこの時代はまだ農業生産力が低く、また蛮族の土地を中華に編入するとしてもそこは氏族単位で管理しなければいけないわけで、現地の蛮族の氏族と折り合いをつけて中華へ編入していくやり方が主となり、この周代の中原拡大方針はまだまだ非常に穏健でゆっくりしたもので、周辺蛮族とのトラブルもそれほど多くなかったようです。
その中でも周王朝が特に進出に熱心だったのは中原の東側の黄河下流域、山東半島、淮河、遼河方面、つまり東夷の居住するエリアでした。殷を討伐した際の功臣であった羗族の首魁であった太公望を山東半島に斉王として封じたり、殷の遺臣であった箕子を朝鮮王に封じたりしたのも、周王室の東方開発熱の現れだったといえるでしょう。
この場合、進出とか開発といっても、それは現代的なものとはニュアンスが違うのであって、あくまで中原の都市国家の商業ネットワークの東方への拡大ですから、まずは中原の都市国家から商人が東方の蛮族の土地に派遣されて、現地民と交易を始めます。そして交易ポイントとして都市国家を作り、その周辺の蛮族の氏族に中華の民になるようにリクルートしていくのです。
だから当初は広大な蛮族の居住区の真ん中にポツンと都市国家が孤立した状態から始まることになります。太公望や箕子などはおそらく自分の同族のいくつかの氏族も引き連れて都市国家へ赴いたでしょうが、それでも東方開発地はこの周代においてはまだまだ相当寂しい感じであったろうと思われます。
『KNブログ』 [4]より引用 )

・北方モンゴロイド、モンゴル系の遊牧民の周部族が西方モンゴル系羌族と連合して殷を打倒
・周の後ろ盾は西方遊牧民勢力が西方遊牧部族から皇后を迎えることで関係を保持していた。
→父系王朝
※西方遊牧部族から皇后を迎えることをやめようとして、怒りを買い、攻め込まれて力を失った。
注)共通で本文の年代については『夏商周断代工程』に倣っています。
夏王朝の成立以前に父系社会へ転換しており、遊牧民が部族連合をとりまとめている。また遊牧から掠奪と交易(商業)が生じていることが伺えるが、遊牧から交易へと転じたのか、掠奪から交易へと転じたのか?掠奪から交易へと転じたのかについては追って調査していきたい。
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