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中国の部族移動の歴史2 ~夏・商(殷)・周はどのように成立してきたか?1~

Posted By yoshi23 On 2010年12月19日 @ 2:12 AM In 14.その他 | 2 Comments

>そこで、今シリーズでは、三代(夏・商(殷)・周)の時代に遡り、中国の部族移動の歴史(古代王朝(部族連合)の成立や商業部族の誕生を含む)を探っていきます。
『日本を守るのに右も左もない』 [1]
中国の部族移動の歴史シリーズ第1弾として、『夏・商(殷)・周はどのように成立してきたのか?』をまとめていきます!
まずは、B.C.4800~B.C.2000中国の文化をみていきましょう。
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(画像はこちらからお借りしました) [2]


■B.C.4800~B.C.2000中国の文化は2系統あった!
①仰韶文化→中原龍山文化(B.C.4800~B.C.2000)
<仰韶文化>

黄河中流域に仰韶文化。母系社会、殷とは文化系譜は異なる。
新石器文化、骨格はモンゴロイドの東アジア型の特徴を持つ。
集落に環壕あり。集落周囲には大量の落ち葉が堆積、当時は森林の可能性大。
臨潼姜寨遺跡では竪穴住居で草木製の屋根だが、隣接の半坡遺跡の住居は土壁のキノコ状で出入り口は鳥の巣箱のように小さいようで住居形式が異なる。
粟、黍の栽培がメイン食料、動物は鹿、イノシシなどあり。
穂摘み用の石包丁あり。オカリナ類似の土笛あり。
粘土製の球体あり。何らかの投擲道具の弾丸の可能性あり。
彩文土器の縁に記号が刻まれたものが多く出土。制作者のシンボルという説あり。
中国特有の「戈」登場。対人用の武器。
住居土中から頭骨のみの発見あり、首のない遺骨あり。首狩り風習の可能性。
埋葬された人間の両側に貝を並べて図形を描いて副葬としたものあり、それぞれ龍(ないしは恐竜)と虎と判断可能。
『知られざる人類婚姻史と共同体社会』 [3]から引用 )


<中原龍山文化>

 中国新石器時代の、少なくともB.C.5000年以前には、北方畑作農耕と南方稲作農耕の2つの文化圏が形成されました。その後、B.C.5000~3000年の間に、農耕経済と土器・石器・玉器等の製造業の発展に伴い、社会人口の増加によって、集落規模が拡大し、2つの文化圏の接触が、考古学的に認識できるようになりました。
 B.C.3000~2500年の間になると、黄河、長江流域の周辺地域では、かなり高いレベルの地方文化が、隆盛を極めます。これらの文化圏は、独自の特徴をもち発展するのですが、互いに複雑な交流をもち「多元一体」と呼ぶ巨大な中国文明を成立させます。
 B.C.3000年以降には、周辺の幾つかの地方文明が、中原地域に影響を及ぼすようになると同時に、集約集中され、中原文化圏が形成し始めるようになります。その文化圏相互の拡大と影響をみると、黄土地域の仰韶文化が、新石器時代晩期、各地の文化圏のなかで優勢な地位を占めるようになります。
 隣接する山東龍山文化圏の環濠集落にも、極度の緊張がみられます。城子崖遺址でもわかるように、集落の規模の拡大のみならず、環濠はより広くなります。さらに、この時代以降、初めて長大な城壁が、構築されます。
 中原龍山文化期(B.C.2500~B.C.2000)になると、その影響が、中原のみならず、中国の大部分の範囲に及んでいることがみてとれます。地方文明は対外関係の重点を中原に向けて、それ以外には刺激を及ぼさず、発展は停止状態になります。
 長江中流域の屈家嶺(くつかれい)文化や長江の下流・太湖流域周辺を中心とした良渚文化は、相前後して消滅します。 中国数千年の歴史の大部分は中原地域が政治活動の中心であったと同時に、文化の中心でもありました。その始まりが、B.C.2500年頃で、古代中国の中原に、最初の覇者が登場した時期と符合します。
 この時期、中原地域に現れた現象をみると、十数種類の新規陶器様式と陶器製作技術・装飾技術、精緻な石器と玉器の製作加工技術、長列の建築、墓の大規模化とその葬具・副葬品の豊富さ、死者の身分階級を如実に表す埋葬制度等があります。 その後の中原文化の中核をなす、刻字符号・龍及び動物造型・青銅器具・占卜の風習・璧等の玉器が、そろって登場します。
 結果、中原文化と地方文明との実力は、劇的に逆転します。中原勢力の軍事的優位は、周辺地帯を辺境として差別をし、汝水と漢水の間の地・汝漢(じょかん)の黄金、長江の銅資源や象牙、その他の産物の収奪と、巡狩という名の奴隷獲得の軍事行動を専らにします。また、王の遠征は、財貨獲得の経済行為でもありました。 
 こうして、地方文明は、度々の収奪によって、衰退します。地方文明の中心地域に起こった変化は、たとえば、もっとも辺境にある南越と呼ばれる嶺南(れいなん)地域でもみてとれます。この時代以降の長江流域の文化遺物が、数多く出土します。長江流域の文化は、中原勢力に敗れ、その後繰り返される収奪に抗いながらも、もっと南の方へ逃げざるをえなかったのです。
『レアメモリーの古代・黄河文明研究』 [4]より抜粋)

②大ブン口文化→山東龍山文化(B.C.4300~B.C.2000)
<大ブン口文化>

【特徴】
・大汶口文化の各遺跡からは、粟やヒエの植物が検出され、豚、羊、犬等の骨が見つかっています。また、石、貝、骨製の鎌や収穫具としての刀等の他、原始的な農具、漁労、狩猟用具等も出土しています。大汶口文化は、粟を中心とした農業経済が主で、豚・犬を飼育し、牛・羊を保有して、狩猟・漁業をも営む定住生活者とみられています。
・早期(B.C.4300~B.C.3500)は、母系氏族共同体の段階
・中期(B.C.3500~B.C.2800)は、父系氏族共同体への過渡期・確立の段階
・晩期(B.C.2800~B.C.2500)は、父系氏族共同体の末期にあたります。
『レアメモリーの古代・黄河文明研究』 [5]より抜粋)


<山東龍山文化>

【特徴】
・仰韶(ヤンシャオ;ぎょうしょう)文化では、存在しなかった城壁の発見
・大汶口(だいぶんこう)文化を継承
・一つの遺跡で山東龍山文化が、数多く、大汶口文化の上に堆積
・大汶口文化(B.C.4300~2400)・山東龍山文化は、中国東部黄河下流地区に居住していた、東夷の部族の文化が発展して形成した、相前後する二つの文化であることが解明
・石器は、磨製石器が増え、伐採石斧は重厚で大型になり、石包丁や石鎌(いしがま)も作られます。麦・粟を主体とする農耕文化は、大汶口文化より高い水準に達しています。豚・犬・牛・羊・鶏を飼育していますが、石製・骨製・貝製などの鏃(やじり)があり狩猟・漁労も行っています。
『レアメモリーの古代・黄河文明研究』 [6]より抜粋)

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[3] 『知られざる人類婚姻史と共同体社会』: http://www.jinruisi.net/blog/2006/11/6000.html

[4] 『レアメモリーの古代・黄河文明研究』: http://www.justmystage.com/home/rarememory/kouga6/kou6.htm

[5] 『レアメモリーの古代・黄河文明研究』: http://www.justmystage.com/home/rarememory/kouga4/kou4.htm

[6] 『レアメモリーの古代・黄河文明研究』: http://www.justmystage.com/home/rarememory/kouga5/kou5.html

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[8] Image: http://www.rui.jp/new/kousei/kousei_19.html

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