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特権階級の世界と大衆共認の世界を繋いでいたもの(1)~武力支配時代の秩序期待

8/10なんでや劇場「金貸しとその手先(特権階級)たちの思惑は?」 [1]では、「特権階級の世界と大衆共認の世界が断絶し、特権階級は空中浮遊している」という新たな捉え方が提起された。そして、断絶した世界の接点は社会共認の形成であるが、暴走する特権階級が大衆の側に歩み寄る可能性はゼロであって、大衆の側から接点をつくるしかない。つまり、充足共認や企業の共同体化という身近な次元から「日本や世界をどうする?」という社会的な次元にまで大衆共認がジャンプアップできるかどうかが課題となる。
では、特権階級と大衆共認の世界が最近10~20年間で断絶したのは何故なのか?
逆に言うと、それ以前は、特権階級の世界と大衆共認の世界はどのようにして結びついていたのかを考えてみたい。
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●市場時代以前、武力支配の時代はどうだったのか?
以下は、『桶狭間戦記』(宮下英樹 講談社) [2]からの引用。
【この本では「戦国時代」の定義そのものが新しい。通説の応仁の乱で下剋上の社会が現出したのではなく、気候として「小氷河期」だったことが大飢饉を引き起こし、大飢饉がかつてない動乱を生み出したという仮説を提示している。】

戦国大名の支配下にある”戦国民”
彼らは「小氷河期」を原因とする長期にわたる厳しい飢饉の中にあったにもかかわらず、年貢を納め、合戦や土木工事に参加した。一見、戦国大名による暴力支配以外のなにものでもないかに思われるが、”戦国民”たちはその見返りに戦国大名になにを求めたか。
小氷河期型の気候変動とは、大雨・洪水・強風であり、耕作に最も重要な河川は氾濫しその流れを変えた。それが元で起きる村同士の水争いは、ときには合戦ともいえる規模に発展し、他国からも狙われる。暴れる河川、衝突する村々、他国からの侵略。
”戦国民”たちは、これらの事態の解決を戦国大名に頼んだ。つまり彼らが大名に求めた見返りとは、治水・法度・守護。いまでいう灌漑事業・司法警察・国防である。

戦国大名が国を盗るということ。
それは他国の大名を殺したとたんに、その国が自国に色に塗り変わるというものではない。他国を切り取るにはまず大義名分が必要であり、なににもましてその土地の戦国民の理解が必要なのである。
新当主は前当主より善政をしき、土豪たちを手なづけねばならないし、飢饉の時代に米を生産する戦国民は国家運営の根幹であり、追放や虐殺をすることはできない。
では、前当主が熱狂的に民に慕われているとき、新当主は如何にして戦国民にとりいるか。それは”傀儡政権”しかない。
名将松平清康(徳川家康の祖父)は室町幕府に認められた守護職とは違い、山間部の民から大名にのしあがった、謂わば郷土が生んだ英雄である。民の松平家への深い服従ぶり故、今川家は清康の子広忠(家康の父)を傀儡の当主にたてるという三河支配策をとらざるをえなかった。

『桶狭間戦記』の記述にある治水・法度・守護(灌漑・司法警察・国防)は、秩序の安定のために必要な課題である。戦国時代の農民が戦国大名に期待したのは、秩序の安定らしい。そして、それぞれの戦国大名も領国内を統治するために分国法(法度)を制定したことに見られるように、秩序化期待に応えようとしていた。その最たる者が江戸時代の幕藩体制という安定秩序を作り出した徳川家康である。家康が最終的に戦国の覇者と成り得たのは、秩序の安定期待という、この時代の(支配層から末端大衆までを貫く)期待=意識潮流に応えたからだとも言える。あるいは、この時代の大名の役割の一つは法度=司法警察であるが、そこでは公平性が求められた。江戸時代には「大岡裁き」が美談(特権階級の理想像)とされたことからも伺える。
武力支配時代と言えども、大名は力だけで支配していたわけではない。
私権時代は強い者が弱い者を従える力の原理に貫かれた時代というのは一面の事実である。しかし、武力さえ武装集団の力であり、集団統合力⇒共認形成力なのである。「私権時代に求められた能力と、共認時代に求められる能力」 [3]
そもそも、哺乳類に顕著な本能原理である力の序列原理(⇒人類の身分制度)は、争いを制御し集団を秩序化するための秩序原理である。同時に、そこでの序列規範は、弱い者は強い者に従う代わりに、強い者は弱い者を守らなければならないという庇護規範と一体である。弱い者が強い者に従うのは秩序化されるからであって、そうでなければ強い者でも見限られることになる。
この時代、秩序の中核にあったのは、集団私権の共認である。「自我⇒否定⇒私権意識の成立構造~自我の原点は個人自我ではなく集団自我」 [4]
武力支配時代における集団私権とは、豊かさの実現というのももちろんあっただろうが、何よりも大きかったのは、如何にして縄張り=領土を守るか、領土内の秩序を安定化するかであり、その点において、支配階級(大名)・特権階級(武士)と大衆(農民)のベクトルは一致していた(断絶していなかった)。つまり、領土は領民と不可分一体である。つまり、支配層は領民から搾取するだけではダメで、領民の期待に応えて、安寧秩序を守ることが不可欠だったのである。
加えて、この時代は「個人が原点」という思想など存在せず、誰もが集団第一であったことも大きい。大衆には村落共同体という集団共認の基盤(参加の場)が存在し、支配階級・特権階級であった大名や武士の世界は(江戸時代であれば)徳川家を頂点とする「家」という集団のヒエラルキーによって形成されていた。つまり、この時代は、支配層から大衆に至るまで誰もが「領国や村々をどうする?」という視点で思考し行動していた時代である。
このように、武力支配の時代は、縄張り=領土とその秩序を如何にして守るかという課題を、世の中の誰しもが共認し期待していたので、支配階級・特権階級の世界と大衆共認の世界は断絶はしていなかったのだろう。
つまり、全社会的な秩序期待こそが、支配階級・特権階級と大衆の世界を繋ぐ紐帯だったのではないだろうか。
ちなみに当時、支配層(武士)と大衆(農民)を繋ぐ接点の位置にいたのが、土豪や庄屋・富農と呼ばれる存在だったであろう。例えば、彼らは飢饉などの際には藩に陳情する役割であった。
「なんでや劇場」では、大衆共認の世界を社会的な次元にジャンプアップさせる接点の位置にいるのは政治家だと提起されたが、武力支配時代の土豪や庄屋は地元を基盤にしているという点でも、現在の政治家に近い位置にあるのではないか。実際、近代以降の政治家(特に地方議員)の出自も地元の有力者(元庄屋)というのが多いのではないだろうか。
では、近代はどうなったか?(続く)
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