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小政党が乱立するのは、なぜか? ~小政党が続々と登場した1993年と2005年の共通項は?~

2010年7月参院選の結果は、民主党が大幅に議席を減らすという結果で終わった。しかし、得票率の推移を見てみると、「民主党も自民党も得票数を減らしている」ことが分かる。票を集めたのは、急速に増えてきた小政党だった。いわゆる「浮動層」は、小政党へと投票したのだった。
’10年参院選 民主も自民も票を減らした/結果を大きく左右する10%の浮動層 [1]
→この小政党への投票行動は、日本政治の新しい局面なのか?
小政党の乱立という状況は、今回が初めてではない。1993年~1998年にも、小政党が乱立し、自民党は政権与党から転落した。
→この当時と今回とで、共通する状況は何なのか?何が違うのか?
今回の記事では、この二つの疑問を解き明かしてみたい。
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1990年以降の日本政治史において今でも存続している代表的な新しい政党は
・日本新党
・新党さきがけ
・新生党
・国民新党
・たちあがれ日本
・新党改革
・みんなの党
この中で、日本新党以外は全て「自民党」が母体となっている。
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http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=234983
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=234984
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=234989
○新党さきがけ
1991年からの宮澤内閣では、1988年のリクルート事件以降の政治不信を受けて、政治資金規正法の開成を最重要課題に掲げていた。しかし、現行制度維持を望む議員が多数を占め、改革実現へ向けた動きは低調だった。そこに1992年佐川急便ヤミ献金事件が発覚する。しかし、それでもなお執行部などの反対が強く、改正法の提出すら行われなかったため、不信任案が提出され、可決されてしまう。
この時、自民党内で派閥横断の勉強会「ユートピア政治研究会」所属衆院議員の一部が自民党を離党、新党さきがけを結成する。
(ユートピア政治研究会は、武村正義、鳩山由紀夫、田中秀征ら自由民主党の若手議員による政策勉強会。政治腐敗を糾弾し、政官財の癒着を厳しく批判する一方、憲法を尊重する「尊憲」の立場を取りリベラルな立場から政治改革を主張した。)
○新生党
佐川急便事件で派閥代表辞任に追い込まれた金丸信の後継争いを巡って、竹下が担ぐ小渕と、羽田が推す小沢の一騎打ちに。派閥内の権力闘争に敗れた羽田と小沢は派閥離脱→離党→新党結成へ。
○日本新党
1992年に細川護煕+松下政経塾の出身者数名(長浜博行、野田佳彦、山田宏、樽床伸二、中田宏)らで結党。東西冷戦の終結、リクルート事件をはじめとする政治と金の問題を受けて、政権交代可能な保守の二大政党制の立ち上げを実現しようとした。しかし1994年に解党し、新党さきがけ、(新生党→)新進党それぞれに合流した。
○国民新党
2005年8月17日、郵政民営化関連法案に反対した自民党と民主党の議員(自由民主党の元衆議院議長綿貫民輔、元建設大臣亀井静香、元国土庁長官亀井久興、参議院議員長谷川憲正、民主党の参議院議員田村秀昭)が結成。結党時は郵政民営化反対を最優先の公約としており、新自由主義的経済政策を批判し、積極財政を主張(財源に無利子非課税国債)。
○たちあがれ日本
2005年に郵政民営化に反対し自民党を離党後、無所属での活動を続けていた平沼赳夫と、2010年7月の参議院選挙で民主党による単独過半数の獲得を斜陽著しく報道発表でも支持率の伸び悩む自民党が阻止することを困難と判断して、自民党に離党届を提出した与謝野らが、民社国連立政権に対する批判層や保守層の受け皿として新党を結成した。郵政民営化に反対して自民を飛び出したにも関わらず、打倒民主を標榜。
○みんなの党
自民党時代は江藤・亀井派(福田派)に所属していたが、福田→麻生政権時代を通じた麻生への反発心と、そんな自民党そのものへ見切りをつけたことで2009年1月に離党。同年8月に「みんなの党」を結党。主な政策に「小さな政府構想」「国家公務員制度改革法案」「金融規制緩和」「郵政民営化の見直し法案阻止」等がある。自民党を飛び出しているが、自民党以上の従米派。
○新党改革
2010年4月、改革クラブに自民党を離脱した舛添要一が合流し「新党改革」と名義変更(但し対外的には結党としている)。舛添の離党は、厚生大臣の頃に民衆の支持を得たことで党内にて孤立する結果となったためで、離党とは言えども実質的な除名に近い。主な政策は「議員定数半減」「道州制の導入」「一国二制度の特区構想」等。
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新党さきがけ、新生党、日本新党が相次いで登場した1995年前後に何があったのか?
1988年のリクルート事件に引き続き、1992年の佐川急便事件によって、旧田中派→竹下派は企業との癒着関係を厳しく追及され、旧田中派→竹下派は勢力を衰退させていった。
1980年代からのアメリカによる旧田中派→竹下派潰しが一定成功し、
1990年代前半は、アメリカが日本政治支配を強めていった時代だったのだ。
その証拠に、1993年には、宮澤首相とクリントン大統領との会談により、年次改革要望書の作成が決定された。日米年次改革要望書は、経済発展のための制度改革・規制緩和をお互いに求める、というものであったが、実態はアメリカから日本への一方的な「要望書」であり、事実、その後の日本の制度改革・規制緩和は、年次改革要望書に沿って行われたものも多い。(ex.郵政民営化、時価会計制度、新会社法、裁判制度改革)
この時から、アメリカ民主党とパイプを持つ親米派が急速に勢力を伸ばし、脱米派、親欧派などが自民党を離脱し、新党を立ち上げる。こうして設立された新党さきがけ、新生党、松下政経塾出身者が多数を占めた日本新党は、その後合流し、現在の民主党を作る。

国民新党、たちあがれ日本は、小泉政権時代の「郵政民営化」が契機となり離党した議員が結成している。元々彼らは、小泉総理と同じ派閥=旧福田派・森派の人間だった。
しかし、小泉がブッシュ共和党政権と急速に距離を狭め、100%アメリカの傀儡政権となるに至って、自民党を離脱する。党によって差はあるが、旧福田派内の権力闘争に敗れ、自民を追い出された人間達だと言える。
みんなの党、新党改革にしても、郵政以後のアメリカとのパイプを巡る争いに敗れた人間が、次々に新党を設立していったに過ぎない。
(だから、みんなの党にしても、自民党以上に従米的な政策を選択している。大政党から小政党に至るまで、従米系の政党の方が票を獲得しているということは、アメリカによる日本支配も最終段階に入ったと言える。)

つまり、日本政治でたびたび問題になる「小政党の乱立」は、アメリカによる日本支配が強まる時期に登場している。これは、アメリカとの強いパイプを持つ政治家(ex.宮澤、小泉)が登場した結果、別のパイプで繋がる政治家が自民党を出ざるをえなくなっていったからだ。
小政党は小政党で、独自のアメリカとの太いパイプを持っており、小政党だからと言って、新しい政治を実現できる訳ではない。小政党勢力への注目もまた、アメリカの意図どおりなのだ。
(ないとう)

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