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自主管理への招待(6) 実現思考とは何か

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今回は、新しく 参加されたhosopさんの作成した記事をそのまま掲載します
前回:自主管理の招待(5) [1]では、「否定しか生み出さない」近代思想を「全否定」し、閉塞した現実から実践対象を獲得した《開放の哲学》への道程が提示されました。
今回、第6弾ではそれを具体的に実践する方法が明らかになります。
以下『自主管理への招待(6) 実現思考とは何か』 [2]からの引用です

私たちは、こう考える。もし私たちの求めるものが、本当に現実性を持ったものであるなら、それを実現しうる対象的な構造がすでに現存のこの社会の内に実在しているはずだと。私たちが、
単なる消費的な欠乏ではなく、日々の労働の疎外を問題にし続け得るとしたら、疎外を克服しうる実現の基盤は、すでに歴史的に用意されているはずだと。人は、対象とイコールに結ばれた主体としてのみ存在するのであって、決して自分だけで生きているのではなく、まして観念だけで生きているのではない。従って、欲望や願望が実現されるためには、それらとイコールに結ばれるそれら対象が、同時に存在していなければならない。逆に、そのような実現対象が社会的に存在していないとしたら、いかなる価値も理念も決して実現されない。実現対象を獲得し得ない全ての価値意識は、非存在であるにすぎず、いずれ消え失せてしまう。逆に、打ち消し難い課題を自らの内に孕んだ主体は、その実現対象をこの社会構造の中に見出し得るはずである。

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「対象とイコールで結ばれた主体」とはどういうことなのか?参考になる投稿がありましたので紹介します。是非読んでみてください 😉
        ↓
「主体=対象」として生きる [5]
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さらにこう続きます。

私たちは、このような実現の基盤を、採取生産から農業生産へ、農業生産から工業生産へ、そして工業生産から意識生産へと上昇してきた歴史的な生産力の発展に求める。新しい生産様式は、その生産活動に最適の新しい社会関係を求めて、古い生産に基づく社会関係を根底から揺り動かす。いま激動を伴いつつ登場してきた意識生産こそ、新たな社会を担う主要な生産力へと成長してゆく新たな生産様式であり、私たちの根底的な実現の対象である。教育・情報・サービスの諸産業を中心とする意識生産は、その生産の対象と価値において、過去のあらゆる生産から本質的に区別される。有史以来、すべての生産の主要な対象は、物(自然)であった。それに対して、意識生産の主要な対象は、類(人間またはその関係=社会)である。つまり、従来の生産が主要には自然を対象とする物的価値の生産であるのに対して、意識生産とは、人間または社会を対象として類的価値(関係価値)を生産する活動である。物的な価値は、専門分化され夫々に固有の領域が拡大される事によって高度化されてゆく。そこでの分化された一つ一つの労働力の内容は、相互に断絶した個々の技術・技能として歴史的に普遍化され定式化されてゆき、従ってその労働力の大部分は、機械に置き換えられてゆく。それに対して類的な価値は、はじめから諸個人を超えた相互の関係そのものの内に生じる価値であって、どこまでも総体的な社会的連関の中につながってゆく。従ってそこでは、労働力そのものの総体化あるいは根底化の程度が、そのまま高度化の程度を規定する。(例えば、教育の高度さは、教育者自身の全人間的価値の程度によって決まるのである。)つまり類的価値の生産においては、たとえどれだけ専門分化されても夫々に要求される能力の根は一つであり、誰もに普遍的に類(人間または社会)総体を対象化する能力が要求される。

歴史的な生産力の発展によって情報・教育・サービス等の意識生産が登場し、古い生産に基づく社会の諸関係が大きく揺らいできたのですね。そして意識生産においては、労働力の総体化あるいは根底化が類的価値(関係価値)の高度化に不可欠だということがわかりました。しかし、具体的にどうすれば良いのか、気になります。それが次の段落に提示されていきます。

それだけではない。意識生産は、工業生産から画然と区別される、一つの決定的な可能性を内包している。工業生産においては、その生産力の主要な担い手は機械であって、人間の労働力は機械の付属物であるにすぎない。実際、そこでの労働課題と労働時間は、機械装置や材料の流れによって分断され、秒刻みに規定されている。それに対して、意識生産における生産力の担い手は、生身の人間の認識と実践だけである。その生産を推進してゆく生産力を、労働力(とりわけ関係能力)として自らの内に具現した意識生産者は、もはや機械を必要とせず、従ってまたその所有者を必要としない。

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それどころか、多様な自主判断の過程として日々の労働が営まれ、誰もに総体的な関係能力が要求される意識生産においては、その労働過程から関係性を剥奪して労働者を技術過程だけに閉じ込めようとする私有権力やその体制は、生産を促進するのではなくむしろ生産を妨げる余計な桎梏となる。機械によってではなく、契約をはじめとする様々な社会的関係によって規定され、従って課題そのものが流動しながら数ヶ月にわたって続いてゆくその労働過程は、労働者が自ら生産の全体を把握し、その意味を了解した上で管理してゆく方が適している。何故なら、意識生産において最も重要な生産能力=労働能力である認識能力や組織能力を高度化してゆく最高の教師は、自らの手で生産を管理しさらに会社を管理してゆく事だからである。逆にそこでは、いつも誰かに管理され、与えられた仕事しかやろうとしない古いお抱えの労働者は、もはや生産力たり得なくなる。

(※建築設計という生産活動も、その例外ではない。打ち合せから監理に至るまで、その労働は技術活動である前に、何よりも関係活動である。テクノロジーも又、非定型な社会的諸条件の中に多数の技術を総合的に適用する事である限り、そこでの技術の習得の槓桿を成すのは、社会の習得による諸関係の構成能力と統合力なのである。まして計画の生命は人間と社会の認識であり、それは「建築思想」なる思想?でお茶を濁して済ませるような安易な事柄ではない。)

工業生産においては機械の性能が生産の高度化を規定し、人間の労働力はその付属物に過ぎなかったのが、意識生産においては、「生身の人間の認識と実践」だけがその担い手となりました。そして、認識能力、組織能力の高度化の最高の教師は『自らの手で生産を管理し、さらに会社を管理してゆく事』であると明示されました。決まりきった仕事や言われた仕事だけをするのではなく、会社を管理することで360度の視野をもって深く対象世界を拡げていけるということですね。
さらに、技術の習得においても社会の諸関係の構成能力と統合力が必要ということになり、仕事の計画においても人間と社会の認識が生命となってくるわけです。

(まとめ)
意識生産の登場によって生産の担い手が機械から人間の認識と実践に移行し、労働力の高度化のために人間と社会をどれだけ総体化し根底化して認識できたかが問われることがわかりました。序列統合の時代に有効だったアメとムチによる懐柔策や上役や顧客に取り入る茶坊主的な働きでは不十分となり、もっと実践的に人間と社会の認識を深めつつ『自らの手で生産を管理し、さらに会社を管理してゆく』ことによる対象世界の拡がりは、まさに主体=対象として生きる実現思考の賜物なのですね。

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