- 日本を守るのに右も左もない - http://blog.nihon-syakai.net/blog -

統合機運の基盤~自由空間(中世都市)の拡大に都合の良い法解釈から始まった大学

「キリスト教(内面と外面の使い分け⇒面従腹背⇒自我の温床空間)」 [1]では、ヨーロッパ世界における自我・私権収束⇒近代思想の騙し構造の原点は、キリスト教の内面と外面の使い分け⇒面従腹背⇒騙しの正当化→自我の温床空間の蔓延にあったのではないかと述べたが、11世紀まではこの自我の温床空間は、頭の中だけの自由空間にすぎなかった。
ところが国家権力を凌ぐ共認権力と化した教会を金貸しが買収し(「国家VS教会の対立が秩序不安定化の原点」 [2]参照)、次いで、十字軍遠征による掠奪と交易によって商業(投機)貴族化した欧州貴族と金貸したちは、国家(皇帝)権力に対する(自我・私権の)自由空間を現実世界に作り上げることに成功する。それが中世ヨーロッパの都市である。
%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7.jpg
イタリア-フィレンツエ
画像はこちら [3]からお借りしました。
いつも応援ありがとうございます。


『るいネット』 「裏の支配勢力史1 ヴェネチア~十字軍・騎士団~スイス都市国家」 [4] 「欧州貴族の源流1 十字軍遠征」 [5] 「欧州貴族の源流3 スイス都市国家の成立」 [6]から引用。

◆略奪を繰り返した十字軍(1096~1249年)
十字軍は、「十字架のために聖地パレスチナを異教徒から奪回せよ」という掛け声で始められたわけだが(中略)、十字軍はイェルサレムからイスラム帝国の財を略奪するだけでなく、同じヨーロッパ内の他民族の財産、東ヨーロッパの財をも略奪し続けていたのである。
◆1100年以降 北イタリアで都市共和国の誕生
・十字軍遠征から最大の利益を引き出していた北イタリアの諸都市が、独立の都市共和国を形成。
・12世紀には、北イタリアからスイスの商業都市が、ミラノを中心としたロンバルディア同盟を結ぶ。その後、ロンバルディア地方のイタリア金融家がロンドンのシティーに進出して行った。
・ヴェネチアはもともと利子の取得を禁止していたが、14世紀には解禁。国際金融都市として急速に発展した。
◆ヨーロッパ貴族の勃興
この十字軍や騎士団に”投資”していたのが、それまでの略奪と地中海交易で富を蓄えていた貴族達であった。十字軍の略奪及びテンプル騎士団の東方交易により、十字軍や騎士団に投資していた貴族達は、数十倍の利益を得た。
騎士団を通じて作り上げた商業ネットワークを基盤に財を成していった貴族達は、神聖ローマ帝国皇帝への不満を募らせて行く。当時の貴族達は、神聖ローマ帝国の皇帝による絶大な権力の支配下にあったが、貴族達は金と軍事力があれば、皇帝などいなくても自分で独立できると考え始め、各地で皇帝に対する闘争を引き起こし、時には異民族であるトルコ軍を招き入れることさえ行った。
この絶え間ない戦争を遂行するため、皇帝は領土を担保に多額の金を借り入れた。皇帝に金を貸すのは「金貸し」だが、その金貸しには貴族達が金を貸している。つまり、貴族が間接的に皇帝にお金を貸しているという構図が出来上がっていた。その後も戦費が膨張し、皇帝が借金の返済能力を失った結果、担保であった土地は貴族達の所有物となる。こうして貴族達が所有することになった土地に皇帝の権限が及ばなくなり、ジェノヴァ、バーゼルなどが都市国家として独立して行く。
◆スイス都市国家の成立
1200年前後のスイスは産業地帯であり、鉄砲、刀等の精密機械業、金属加工業が発達し、山間部で火薬原料も採掘された。そこに、ヨーロッパ中で商業ネットワークを構築していた騎士団やヴェネチアで富を蓄えた金融家が金融技術と共に移住していた。皇帝に反逆した貴族達は、この兵器と富と産業の揃ったスイスに結集した。当初はチューリッヒなどわずか35都市ほどだったが、やがてこれらの都市が同盟を結び、国家を形成していく。これが現代まで続く金融国家、マネーロンダリング天国スイスの起源であり、世界を支配する勢力となった所以である。

%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E8%B2%B4%E6%97%8F.jpg
「4/29なんでや劇場レポート「観念力とは何か?」(1)」 [7]でも述べられたように、私権体制は必然的に面従腹背⇒自我発の自由空間(自己正当化と他者否定)を発生させる。面従腹背を正当化したのがキリスト教だが、貴族たちは黙って皇帝に面従していただけではない。王朝の転覆をはじめとする数多の私権闘争の歴史が証明しているように、貴族たちは皇帝の権力が強い時は面従腹背しているが、彼らは常に隙あらば私権の拡大⇒自らの思い通りになる自由空間の拡大を狙っていた。
十字遠征で掠奪した富を元手に商業(投機)貴族化した彼らは、皇帝権力に対して反抗し始める。そして戦争資金に窮した皇帝から土地を騙し取ってできたのが中世ヨーロッパの諸都市である。つまり、中世ヨーロッパにおける都市の拡大とは、支配権力(皇帝権力)に対する自由空間の拡大と捉えることができる。
ここで、それまでの支配観念であるキリスト教では、貴族たちにとって不都合(限界)が生じる。キリスト教はあくまで面従腹背のすすめであって、面従腹背しているだけでは私権は拡大できない。そこで、キリスト教による面従腹背(騙し)の正当化を土台として、自我・私権の正当化に思想体系を組み替えたのがルネサンス~近代思想であるが、キリスト教と近代思想を結ぶ媒介項が存在する。中世ヨーロッパの諸都市で作られた(自由空間にとって都合の良い)法制度がそれである。
『るいネット』「近代法⇒普遍法は異民族支配と商業のために生まれた」 [8]より引用。

古代ローマは当時、大量の異民族(異教徒)を支配していました。或いは帝国が安定化するにつれて商人(契約)のトラブルが増大していました。商人の多数は異民族です。彼らは支配される以前は、独自の慣習と規範を持っています。つまりローマの直面した問題は、異民族にこの法(支配の正当性)をどのように認めさせるか、或いは力の原理の抜け道である商業や(騙しや借金から生まれる私権トラブル)に対してどうするかという問題だったと思われます。だからこそ彼らローマは、ローマ人とは全く違う規範を持つ民族に適用される「普遍法」とその根拠を考える(作りあげる)必要があったのでしょう。またそれを宣伝し運用する、大量の法学者や法律家を必要としたのでしょう。
12世紀の初頭には中世のボロニア大学を中心に「ローマ法大全」を学ぶ事を基礎に置いた法学部が登場し、法律家達が養成されていきます。ここで養成された法学者は、当時既に一万人を数えたようです。ボロニアは当時のイタリアの交通の要所で、国際貿易のターミナルでもある自治都市です。実際彼らは後のルネサンスの主舞台となる、北・中部イタリアにおける諸都市で裁判官あるいは都市の統治や行政の助言者、外交・交渉役等として重用され、活躍していく事になります。つまり市場拡大に伴い既存の集団(村落)は解体され、バラバラの個人は集団を超えた社会空間=都市に放り出される事になります。そうすると集団原理である身分秩序(や規範)だけでは統合困難になり、無秩序のバラバラの個人が生み出す新たな私権対立をどう調停し秩序化するかが問題となります。
おそらくこの状況変化が、法律家が必要とされ社会統合の主導権を握っていく基盤となったのだと思われます。その先駆形態が中世の商業都市だったのでしょう。つまり自己繁殖する法律と法律屋の繁殖基盤には、先ずは異民族支配が、そして市場化に伴う私権対立の顕在化が古代から近代を貫いて存在するといえるでしょう。

%E3%83%9C%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A3.jpg
ボローニャ大学
画像はこちら [9]からお借りしました。
ローマ法『ウィキペディア(Wikipedia)』 [10]より引用。

1070年ころ、イタリアで学説彙纂の写本(いわゆるフィレンツェ写本)が再発見された。この時から、古代ローマの法律文献を研究する学者が現れ、彼らが研究から学んだことを他の者に教え始めた。こうした研究の中心となったのはボローニャだった。ボローニャの法学校は次第にヨーロッパ最初の大学の一つへと発展していった。中世ローマ法学の祖となったのはイルネリウスであり、難解な用語を研究し、写本の行間に注釈を書いたり、欄外に注釈を書いたりしたことから註釈学派と呼ばれた。ボローニャ大学でローマ法を教えられた学生達は、皆ラテン語を共通言語に、後にパリ大学、オクスフォード大学、ケンブリッジ大学などでローマ法を広め、西欧諸国に共通する法実務の基礎を築いた。
14世紀から15世紀にかけてバルトールス・デ・サクソフェラートを代表とする註解学派と呼ばれる一派がおこり、「バルトールスの徒にあらざるものは法律家にあらず」とまで言われた。彼らは、ローマ法の多くの規範が、ヨーロッパ中で適用されていた慣習的な規範よりも、複雑な経済取引を規律するのに適していることに着目し、推論によって抽象的な原理を導き、当時の経済状況に合わせた自由な解釈を行なった。このため、ローマ帝国の滅亡から何世紀も経った後に、ローマ法や、少なくともそこから借用した条項が、再び法実務に導入され始めた。多くの君主や諸侯がこの過程を活発に支援した。彼らは、大学の法学部で訓練を受けた法律家を顧問や裁判担当官として雇い入れ、例えば、有名な(元首は法に拘束されない)といった法格言を通じて自らの利益を追求したのである。

面従腹背のすすめであるキリスト教では、貴族や金貸しの私権拡大要求には応えられない。そこで、中世都市の法律家たちは、大昔の「ローマ法」を引っ張り出してきて、商業(投機)貴族や金貸しにとって都合の良い解釈を加えた法体系を作り上げていったのである。(こうしてみると、法律家とは、神学論争=キリスト教の解釈論を重ねていた神官たちと本質的には変わりがない。)
その拠点となったのが中世に始まる大学である。その後も、大学は(人文・社会系の学問分野を中心として)市場の支配階級に都合の良い解釈論を捏造してゆくが、それは大学の起源である中世都市の支配階級(商業貴族や金貸し)に都合の良い法解釈から始まっていたのだ。いやむしろ、大学とは、都市という自由空間の拡大に都合の良い解釈を捏造するためにつくられたというべきかもしれない。
中世のドイツに「都市の空気は自由にする」という諺があるが、一度、都市という自由空間が作られ、それを正当化する法制度が出来上がると、国家権力に不平不満をもつ者たち(これまで面従腹背してきた層)が、都市に続々と流入してくることになる。こうして都市は自我・私権が「実現」できる空間として自我派・私権派の巣窟となっていく。その先に開花したのがルネサンスである。
(本郷猛)
るいネット [11]
メルマガ [12]

[13] [14] [15]