- 日本を守るのに右も左もない - http://blog.nihon-syakai.net/blog -

自主管理への招待(5) 否定し要求するだけの「閉塞の哲学」から、実現対象を獲得した「解放の哲学」へ

%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%90%E3%83%B3%EF%BC%92.jpg
前回:自主管理への招待(4) [1]
では、
求められるのは《自己から対象への認識ベクトルの転換》が提起された。しかし、現実には近代思想によって、対象から目を背けさせられてきた。その構造は、まさしく『奴隷の思想』そのもの。という認識をえました。
今回、第5弾では、それをどう突破していけばいいのか?の方向性が明らかになります。
いつもありがとうございます 応援 よろしくお願いします
るいネット [2]
メルマガ [3]

社会の生産が変わる時、社会に深く根を下してきた思想もまた変わるしかない。工業生産の時代を支配してきた近代個人主義は、その対象性の欠如の故に、肥大化するエゴを制御し得なくなり、衰弱してゆく社会を蘇生させる力を失った。換言すれば、近代の主体は、奴隷的存在から脱却できなかったが故に、未だ存在の実現を射程内に納め得ない歴史段階にあったのだと言えよう。

しかし、人間が武力によって支配され、あるいは資本力によって支配されてきた人類二千年の歴史は、いま大きな転機を迎えようとしている。工業生産から意識生産への生産力の転換がそれである。意識生産は、人間の労働力そのものが、生産の主役と成り、社会の主人公と成る事を求める。そこで求められているのは、自己の奴隷性から目を外らせて「個人」幻想の中をさまよう事ではなく、明白に奴隷(雇われ人)からの脱出に向けて自己変革を計る事であり、現実の活動能力の貧弱さとはうらはらに自意識だけを肥大化させる事ではなく、現実を生きてゆく豊かな能力を獲得してゆく事である。要するに重要なのは、自己の現実の存在とは別の所(非存在の世界)に己を暖め続ける事ではなく、自己の獲得してきた意識と能力のすべてをこの現実の中に投入して、現実を突き抜けてゆく事であり、その導きの糸となるのは〈自己から対象へ〉の認識のベクトルの転換である。

%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%84%E3%83%AA%E3%83%BC.jpg%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E7%AA%81%E3%81%8D%E7%A0%B4%E3%82%8B%E7%82%8E.jpg
「生産(様式)が変るとき、思想もまた変わる。」
これは、どういうことだろう?
過去【密猟生産⇒採取生産⇒農業生産⇒工業生産】という生産様式の転換がありました。これを見てもわかるように、生産規模や流通規模が拡大される方向にあります。それらの生産システムを統合するためには、認識の共有が必要だということがわかります。
特に、庶民に私権追求の可能性が開かれ、農村から都市への大移動を生み、帰属集団を失い個々人に分断された工業生産時代には、それまでの帰属集団による集団統合の役割を国家が担う必要に迫られたのでしょう。さらに、この時代から富国強兵の名の基に、国家主導で生産性を高める必要もあいまって、より普遍性をもった思想の必要期待も高まり、それを受けて近代思想が登場したと推察されます。
このように「生産様式の転換⇒思想の転換」からすると、1970年以降の「工業生産⇒意識生産への転換」は新たな思想誕生の可能性が開けたことを意味します。
その転換への必要条件が「自己から対象への認識の転換」なのです。

もっとも、認識の方向を自己から対象へと転換させるだけでは充分ではない。自分にとって敵対的な「社会」だけを取り出し、それを体系化して否定することはたやすい。しかし、その「社会」体系は否定一方に歪小化された社会でしかない。否定は、未在の何かであるに過ぎず、その背後に潜む価値が実現されるのでなければ否定は(頭の中以外には)はじめから存在しなかったのと同じである。従って、否定がいつまでも否定のままで過ぎてゆく時(そうしてすでに百年も過ぎてきた!)、現実には決して存在しない否定世界の内に全ての内的価値が閉じ込められて終うことによって、現実そのものは何ひとつ変革されることなく、その否定の主体とは無関係に動き続ける。そして、否定している自分だけが、ひとり現実から取り残されてゆくのである。この否定の構造が、宗教のそれである事は、もはや繰り返すまでもないだろう。
このような意識構造は、はじめから自己の現実を変革する必要のない(現実を否定しているだけでも生きてゆける)人々に、おあつらえの「思想」的舞台を与えてきた。

次に必要なのは、「否定の構造」からの脱却です。つまり、宗教⇒近代思想からの脱却で、この「否定の構造」を理解する必要があるのです。
%E9%96%89%E5%A1%9E%E7%A9%BA.jpg%E7%A9%BA.bmp

しかし、他人事ではなく、自分自身の切迫した問題を抱えた人間は、単なる否定の段階に留っている事はできない。本当に現実に解決を迫られた人間は、現実の中に解答を求めるしかない。変革=実現を求める現実の主体は、敵対的な状況の壁に何度もはね返されながら、その否定的な対象のさらに根底に、実現を可能ならしめる地平を探り続けてゆく。こうして、自己の現実とその対象世界を見つめ続ける認識の錐が、否定の目に覆われた「社会体系」を突き破り、遂に自己を実現し得る肯定的な社会構造の地平に至る時、従来の否定に貫かれた〈閉塞の哲学〉は、はじめて否定そのものを否定し、実現対象を獲得した〈解放の哲学〉へと超克されてゆくのである。

「否定の構造」がわかると、「そんなもの(近代思想)は使い物にならない」ということがわかります。また、敵対的な状況の壁の構造、つまり「否定の目に覆われた「社会体系」」が分かります。
そうすることで初めて、「否定しか生み出さない」近代思想をそれこそ「全否定」し、新たな思想を自ら生み出していくことができるはず。それが、現実否定を前提としその枠組みの中でしか思考しない〈閉塞の哲学〉から、その否定の現実を突き破り、現実の中に解答を求めていく〈開放の哲学〉に繋がる。

[4] [5] [6]