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私権原理から共認原理への大転換(自分発からみんな発へ)~あらゆる圧力を排除する個人主義

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こちら [1]からお借りしました。
2/28(日)のなんでや劇場「私権時代に求められた能力と、共認時代に求められる能力」
( [2] [3])
を受け、「るいネット」のお題「私権原理から共認原理への大転換(自分発からみんな初へ)」 より、皆の役に立つ投稿を紹介するシリーズの第6回です。
第1回は「潮流1:共認原理と私権原理」 [4]
第2回は「共認力だけが制覇力と統合力を兼ね備えている」 [5]
第3回は’95年、私権原理の崩壊と目先の秩序収束 [6]
第4回は社会貢献が売れるわけ [7]
第5回は中高年層、さあどうする! [8]
でした。
今回は、私権が崩壊した後の人々の観念内容に焦点を当てたこの↓記事をご紹介します。
あらゆる圧力を排除する個人主義 [9]

近年学校現場では我々の世代ではあまり聞かなかった言葉が教育されているようだ。
 「相手の気持ちを考えなさい」「自分がされて嫌なことは相手にしないように」。一見もっともらしい言葉である。
しかしよく考えれば、これらの言葉は実に危険であることに気が付いた。一方で相手への配慮を呼びかけると同時に、何であれ相手に不快を与えること=相手に踏み込むことをや圧力をかける事にブレーキをかける言葉でもあるからだ。
実際若い世代の話を聞くと、これらの言葉群は、何かを嫌がっている子供に対して、例えそれがいかに自己中心的なものであっても「そんな、その子の気持ちも分かってあげなければ」という形でその子への圧力を排除する役割を果たしている事例が多い。
収束不全が進行する中、取り分け’90年以降学校現場では観念支配が強まっていく。その中核観念が個人主義である。その中でもとりわけ個人主義の派生物たる人権観念は「個人の幸福」を最高価値とする観念である。そうであるが故に「個人に不快」なものをとことん排除していく。今学校で語られている上記の観念群は、一見本源風を装いながらも、実はこの個人主義思想をベースとしているが故に、この様に単なる圧力の封印装置に摩り替わるのである。
しかし、’70年以降、社会的に生存圧力は衰弱するばかりで、共認圧力こそが唯一の圧力源へと変化している。
その中にあってこれらの観念群は明らかに、その最も重要な共認圧力を排除する役割を果たしている。その結果、本来まともな人間に育てていく任務を持つはずの学校が、旧観念支配によって、逆に無圧力空間を自ら創り出し、「自己中」の生産に荷担する場と成り果てつつあるのだ。%E3%80%8C%E7%A7%81%E3%80%8D%E3%81%AA%E4%BA%BA.JPG

この記事は2006年のものです。
「相手の気持ちを考えなさい」という言葉を「何であれ」繰り返されるとしたら、確かに記事にあるように好き嫌いでむずがる自己中な人の人権までも尊重しましょうということになって、結果「他の人」全員が不快になるという、おかしなことが起きます。但し、こうしたことが本当に起きるかどうかは実際には微妙だと思います。
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(個人主義の人こちら [10]から)
なぜなら、どうしたって一人の自己中の「気持ち」よりその他大勢の「普通の人たちの気持ち=充足」を考えざるを得ないものだからです。
 
恐らく、自己中にせよ自分主義者にせよ、当人はそれで良くても周りが納得しない→関わりを拒否する、という事になるだろうと思います。確かにこうした厄介な人々であっても積極的にかかわって改善させていくことは必要ですが、これとて程度問題です。
一般的に言う「厄介者にも人権」のようなことは、ある種の諦めが混ざっているように思いますし、心底では納得できるものではありませが、そうした心底を敢えて隠蔽するためにこうした言葉は利用されたとも言えるでしょう。こうした隠蔽の意識によって、現代では、一見普通に見える人が実は自分第一で、仕事を何でも上手くこなすのは、その事で守られる自分の時間や空間=自分だけの自由を大事にしているから、と言う厄介な自由派が増殖しているとの見方も提起されています。
2/28なんでや劇場レポート(2) 隠蔽・言い訳・誤魔化しの横行によって崩壊する私権体制 [11]
 
又、‘90年当時の日本は、バブルが崩壊した後に「失われた10年」と言われた低迷期でした。誰にも答えの出せない私権の崩壊時期では、もはや「自分」しか頼るものは無く、誰も教えてくれない、教える存在である親や先生までもが「自分で決めて良いのよ」などと言い出す状況でした。他者との関わりを抑制された上に、「自分で」と言われた子供たちは、とても自分で決められるはずも無く、放置されることの言い知れない不安を募らせただけだったでしょう。
「自分がされて嫌なことは相手にしないように」という言葉には、嫌かそうで無いかを「自己決定」する意味が含まれています。相手との軋轢を生じないための防護策を自己決定によって決めなさい、という意味なのでしょう。本当に嫌かどうかを相手に確かめない、消極的な回避の言葉とも言えるでしょう。但し、相手の判断を大切にする余り、嫌かそうで無いかを一々確認していくのも「ウザイ」だけです。
現在こうした共認圧力(空気)も変わってきている、と思います。‘90年からしばらくの間、共認圧力は、危機を乗り越えようと聊か高圧的だったかもしれません。対して現在は、そうした力を感じさせる共認圧力より、答え=充足を求める期待圧力(空気)に変わってきていると思います。只せめぎ合うだけの空気は疎ましがられ、どうしたら皆が充足できるかを追及する空気が満ちてきていると思います。そこでは、観念(頭)ではなく心の奥底にある思念(潜在思念)で可能性を感じ取り、人々の充足を羅針盤にして答えの(と思える)方向へ動き出すことが自然、かつ素直に行われていくでしょう。
個人主義なども、結局は観念(頭)です。対して潜在思念による共認圧力は、空気のように常に私たちを包み込んで、あるべき方向へ導いてくれるのだと思います。

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